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zoom RSS 旧満州・安東からの脱出行 林 暢さんB

<<   作成日時 : 2019/01/26 07:24   >>

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 「私の戦争体験」−開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー
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 父は満洲紡績という富士紡の国策会社の安東工場長で、遼陽にあった本社工場の染色工場長を兼ねていた。月に一回、10日位は本社へ出向いていた。敗戦当日、たまたま安東にいたことが結果として命永らえることになる。後で知ったが、本社の幹部の大半は敗戦後殺されている。敗戦後も何とか工場の操業を続けながら共産党人民政府側へ引き継ぐべく、毎日出勤し、その引継ぎも目鼻がついた頃、夜10時頃だったか、玄関を激しく叩く音と女の悲鳴が聞こえる。何事かと父と二人で玄関の戸を開けると同時に、隣の副工場長の奥サンが倒れ込むように入ってきて、その背後にソ連の将校と兵士が乱入してきた。家の中には10名近い婦女子がいる。前もっての手筈通り、浦の窓から逃すことができ、父と二人で、酒や缶詰でご機嫌を身振り手振りで取りながら対応した。若い兵士は、家中女を求めて探し廻っていたが、とうとう諦めて大下でわめきながら酒を飲み、帰りしなに将校の制止を振りきって父の靴を盗んで出て行った。毛むくじゃらの腕に、何処で盗んだか5,6個の腕時計をはめていたのが脳裏に焼きついて残っている。
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 工場引渡しが済み、社宅を明渡すことになり、私達一家4名は近くの知人宅の一間に移り住んだ。そんなある日、人民政府から父に召喚状が届いた。6年に亘る工場生活で従業員を虐待した覚えもなし、引継ぎも無事完了していること故、大したことはないと思うものの、無実の密告でもあったのか、面倒なことにならねばよいがと、シナ語のうまい腹心の部下を連れて出頭した。夕方帰宅した父の顔を見てほっとした。同行した部下の方から詳しく経過を聞くと、”工場長として従業員を大事にしながら工場を運営して頂き感謝している。就いては、戦争中、絹の繊維が大量に日本から疎開で送られ、いま梱包のまま眠っている。これを組み立てて当地特産の絹紬布を織ってもらえないか、生活と安全は責任をもって人民政府が保証する”と極めて丁寧な申入れであった。もともと父の工場では安東特産の柞蚕糸で製造していた。日本の屋内養蚕ちは異なり、山野に自生するどんぐりに似た柞の木に蚕を放ち、まゆを作らせるもので、日本産のものより一回り大きい。放し飼いのため、時間管理・集中管理がdきず、まゆから細い一本の糸をたぐり戻して糸にすることは不可能で、煮沸し、細断して紡績行程にかけ糸にする。やや黄色味を帯び、この糸で織った織物を絹紬(けんちゅう)と言い、最高級品である。
 二つ返事で承諾し、政府の最高責任者が門まで送ってくれた。劉天達という人であった。お付きの者が潜り戸を開けようとした時、父は”大門開吧(ターメンカイバ)”(大門を開け!)と叫んだとのことで”敗戦時の肩身の狭いモヤモヤが、お蔭ですっきりしましたよ”と腹心のK氏が破顔していたのが、つい昨日のように思い出される。

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