旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん ⑤

 「私の戦争体験ー開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー
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 夏が過ぎ秋が来て、十月に入ると何となく情勢がおかしくなってきた。国府軍が攻めてくるらしいとの噂が飛び交い、いよいよ噂が現実のものとなって、共産党軍の奥地撤収準備が始まり、工場内の機械類、モーターなども解体して鴨緑江(おうりょっこう)上流地帯へ移動することになった。
 父は技術者として機械とともに撤収軍に同行するとの条件と引換に、母と妹と私に引揚の許可が下りた。帰国の喜びは、父との別離の悲しみで帳消しになり、10月21日の夜、父はリュックサックひとつを背負い慌ただしく出発していった。”俺は何としてでも日本に帰る。お袋と妹を頼むぞ”との一言を残して。父は数ヶ月後、北朝鮮に脱出。偽名のままピョンヤン南部の鐘紡系の紡績工場で技術指導を行い、昭和24年、無事帰国した。

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 妹は当時2歳10ヶ月、長い徒歩での道では母が背負うことになるので、荷物としては私のリュック1ヶ、衣類や身の廻り品、手には湯沸しのやかんと台所用の真鍮の洗い桶を入れた袋を提げ、さらに父の愛蔵の朝鮮の古陶高麗青磁の花瓶に幾重にも和紙を貼ったものを水筒替りに首から下げ、着るものと言えばシャツやセーターを重ね、父の背広という珍妙な格好で、翌朝、日本人街の知人宅まで、快車と称する客席のついた三輪自転車を雇って、住み慣れた工場をあとにした。
 車夫に悪心があれば、途中身ぐるみはがれて命をとられても不思議ではない混乱した状況であったが、法外な運賃を要求されただけで、無事日本人街に入り、知人宅に落着いたときは、さすがにほっとした。

【注】写真は安東 旧日本人小学校

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