旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん ⑥

「私の戦争体験」 開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー
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    ◇故国への引揚
 
 知人宅で一夜を明かし、10月23日午前、鴨緑江の畔りの集合場所へ。まだこんなに日本人が残っていたのかと驚く程、その数約5千人、船で朝鮮西海岸沿いに南下し、北緯38度線の少し北までの船旅である。
 船旅とは言っても用意されたのはエンジンのついた所謂船らしき船が唯の一隻と、あとは30余隻の戒克(ジャンク)で、ジャンクには帆があるのみ、風まかせの木船である。
 
 エンジン船に500名が、ジャンクには百数十名が割当てられ、乗船に手間取って岸を離れたのはもう夕闇迫る頃であった。安東は河口から100キロメートル近く上流にある、夜間の川下りは危険なので、対岸の新義州寄りに碇をおろして夜明けを待つことになった。その晩共産軍の撤退が始まったのだろう。江岸の変電所が爆破され、轟音と夜目にも鮮やかな焔と煙が立ち昇る。音と光りのシンフォニーを聴く思いで、皆、じっと無言で懐かしい安東の町の終焉を眺めていた。
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 鴨緑絵は水量豊かな大河で、安東と新義州の川幅が約1000メートル。朝の太陽が昇ってジャンクは碇を上げ、流れに乗って川を下り始めた。懐かしい家並みが、山容がだんだん視界から消え、、河口に達し海に入る頃には、僚船の姿もまばらとなり、僅か数隻が見えるのみ。それらも次第に散り散りとなって、大海原に浮かぶたった一隻が、わが住処となる。
 日に2回、船頭が米飯を炊いてくれる。副食物は各自が用意してきた手持ちの梅干や漬物だ。まあまあの待遇だが、乗船時に前払いの軍票は紙切れ同然だ。あらためて旧日本時代の朝鮮銀行券で船賃を、と要求され、懐は暖かいはずで、当方も遠慮は不要である。ついでに出る方の状況を記しておくと、船尾に海に向って二枚の板が突き出ていて、腰の高さまで筵で目かくしされており、ここにしゃがんで用を足す。黄金色の塊がゆらゆらと青い海に沈んでいく様は、なかなかの観物であった。
 心地よい微風を受けると、船首の平らな、図体の大きいジャンクも軽快な走りとなる。パシャパシャッと船首を打つ波の音を聞きながら、夜、波間に夜光虫が光り、空には無数の星が輝き、甲板に横になって見上げていると。星の大海の中を帆柱が右に左に緩やかなリズムで揺れ、すべてを忘れてロマンチックな気持ちが溢れてくるのを、つい昨日の出来事のように思い出す。
 風が止まると、もうなす術がない。洋上に浮かんでいるのみである。船出して数日後、猛烈な嵐に遭った。とある島蔭に逃れ収まるのを待った。一晩中荒れ狂った嵐がやんで朝が来る。船は微動だにしない。おかしいなと明るんできた外を見ると、汐がすっかり引いて船は海底の上に鎮座しているではないか。朝鮮の西海岸は干満の差の大きいことで知られており、小学校の修学旅行で朝鮮の仁川に遊んだ折、満潮時に船を導き入れ、閘門を閉じて干潮時に中の水を流し、船を乾いた状態で安置させるドックを見たのを思い出した。船から下り、数軒の漁師の家で、母の大島紬の着物が数尾の乾魚と芋に化け、久しぶりの味わいを喜んだことが忘れられない。
 実はこの嵐の夜、漁船の一隻、あのエンジン船が座礁沈没、多くの犠牲者が出ていたことを後で知った。

】写真は鴨緑江に架かる鉄橋

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