旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん ⑦

 「私の戦争体験」-開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー
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 ジャンクは北朝鮮の船なので、当時の南北間の国境である北緯38度線を越すことができない。朝鮮の大きな地図を拡げてみるとよく判るが、西海岸の38度線のところに、リヤス式海岸状の、様々に入りくんだ入江を有する半島がある。甕州半島というが、ここに東西に深く切れ込んだ入江があって、入江のいちばん奥にある苔灘という小漁村が我々の上陸地点であった。船旅は一週間以上かかった。安東から此処まで距離はちょうど福岡~鹿児島間に相当する。風まかせのジャンクにしてはよく走った方だろう。
 上陸すると北朝鮮官憲による荷物検査を受けた。検査という名目の金品掠奪の場であった。目前で老人の首に巻いていたラッコの襟巻がむしりとられた。私は腕時計を召し上げられた。何をどうされようと唯々諾々と従うばかりだが、心の恨みは消しようがなく残る。

 翌日から38度線越えの徒歩行である。長い数百人の隊列が続く。日暮れ近くなって停止し、農家の軒先や納屋、或いは物蔭に據って米を炊ぎ簡単な食事を各自思い思いに準備して仮眠する。やかんや洗い桶が思いのほ外役に立って、飯炊きの器になった。もう11月に入った頃だ。夜の冷気が身に凍みる。
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 国境を超えた夜、ちょっとした広場に数百人が集り、安東の軍政治、共産党の権威を笠に着て威張りかえっていた連中を引張り出し、撲る、蹴るのリンチを目撃した。殺す寸前までいったと思う。三晩野宿を重ね漸く甕州の町に入った。ここで数日、米軍の上陸用舟艇LST船の迎えを待ち、乗船。仁川に再上陸し汽車でソウルに入った。
 船旅と野宿で幼い妹が体調を崩し、他の病弱者家族200名ともども一時ソウルに止まることとなって東本願寺別院の建物に収容された。全粒の小麦をそのまま煮てすいとんの団子を落とした塩味の汁が三度の食事だった。或る日民族衣装のチョゴリを着飾った数人の夫人が見舞いに見え、全員に数ヶのリンゴを配ってくれた。こればっかりの侮蔑の眼差しもなく、奥深い同情に溢れているのを見て、久し振りに人間の情愛に触れ心から感謝するのみであった。同じ朝鮮の人とは申せ、上陸時の鬼のような蛮行とこうも違うものか、この感謝の念は、恨みよりもさらに深くかつ長く胸裏に残っている。

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