新元号を巡る狂騒で、米軍オスプレイの伊丹空港着陸やシナイ半島への自衛官派遣の報道は片隅に。この熱狂は国民が弊政(へいせい)の世を疎んでいることの証しで、鼓腹撃壌とは真逆の現象であろう。(4月9日付)
(中略)首相の言う「日本的なもの」が「古代朝鮮的なもの」「古典中国的なもの」にすぎないことは言語学、民俗学、考古学では明らかだが、「日本ファースト」で病膏肓(こうこう)の首相には馬耳東風だろう。(霊倭)
「本日をもって本校を閉校とする」と校長が宣言した。時は1945年8月10日。満州(現・中国東北部)・新京第一中学校の講堂でのこと。一年生だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っているさなかである。ソ連参戦で市内は大混乱。百キロ南の生家・公主嶺に向かう列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊が退却しているのだ。
当時、満鉄・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先させて転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態になったことは周知の事実だ。五兄(利則)は神風特攻でフィリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だった。彼が部下に託した遺書にはこうあった。「だれのためでもない。俺は行く、行くしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後をついでくれ」と。子どもから大人になって、「戦争はさせない」の思いいっぱいだ。だから戦争体験を、次の世代に語り,つづり、歌で伝えたい。
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