
第1回目(4月8日)の書き出しは「去年12月27日、私は三回目の25歳を向かえた。いうなれば人生四幕目も開幕だ」。つまり3×25=75。加藤登紀子さんは自分の年齢を婉曲に公表した。
生まれは、戦争真っ盛りの1943(昭和18)年。旧満州(現中国東北部)・ハルビン市。
「この道」は、生まれた時の由来と、当時、「東洋のパリ」と言われた帝政ロシアの風情連なる町々の描写を母の言葉を借りて思い出し、そして、あの年の8月9日、ソ連の参戦で大混乱、引き揚げ時の苦渋の逃避行の描写から始まって行く。
「本日をもって本校を閉校とする」と校長が宣言した。時は1945年8月10日。満州(現・中国東北部)・新京第一中学校の講堂でのこと。一年生だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っているさなかである。ソ連参戦で市内は大混乱。百キロ南の生家・公主嶺に向かう列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊が退却しているのだ。
当時、満鉄・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先させて転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態になったことは周知の事実だ。五兄(利則)は神風特攻でフィリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だった。彼が部下に託した遺書にはこうあった。「だれのためでもない。俺は行く、行くしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後をついでくれ」と。子どもから大人になって、「戦争はさせない」の思いいっぱいだ。だから戦争体験を、次の世代に語り,つづり、歌で伝えたい。
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