
教科書破られ 立ちつくして
大阪・枚方市 上野 崇之(76歳)
私の父は校長だったが、教え子をせっせと戦場へ送ったわけではない。植民地下朝鮮の国民学校で戦闘帽をかぶり国民服を着て、朝礼台から朝鮮人の子弟に号令をかけた。朝鮮神宮を礼拝するばかげた儀式だ。
民族の言葉ではなく日本語の教科書。彼らは歴代の天皇の名前もそらんじ、教育勅語だってへっちゃらだった。父たち日本人教師は「皇民化教育」の先兵だった。
敗戦翌日の朝、私たちは見る。教員住宅の裏の野菜畑に破られ、、ちぎられた国語の教科書が散乱する光景。加害と被害が交錯する時代の十字路に、否応なく私たち家族も立っていた。
引き揚げてすぐに逝った父。教壇に復帰し教科書に墨を塗らせた母は、「先生、民主主義ってなに?」と問う子どもたちに、「あたらしい憲法のはなし」を熱く語った。
引き揚げ時、「石を持て追う」ことなく手を伸べたオモニたちを忘れず、母は在日の子らにとりわけやさしかった。長じて教師になった私は、父と母の遺言「子どもたちを二度と戦場に送らない」を死守して生きた。
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