渡哲也さんが亡くなった 『東京新聞・筆洗』

 その新人俳優は同じせりふで何度もつっかえる。六回ほど取り直したがうまくいかない。結局、その日は撮影終了となり、翌日に持ち越してしまう。「みなさん すみませんでした」。いたたまれなかっただろう▼その新人がスターになるまで時間はさほどかからなかった。そして長く輝き続けた。俳優の渡哲也さんが亡くなった。七十八歳▼映画「東京流れ者」(1966年)「仁義の墓場」(75年)に熱狂した人もいるだろう。テレビドラマの「大都会」の黒岩刑事を思い出す世代もあるか。冒頭の逸話は宍戸錠さんがみた渡さんの新人時代である▼アクションも得意とした俳優だが、病やけがに悩まされた。NHL大河ドラマ「勝海舟」は途中降板。映画「仁義なき戦い」の広能役は当初、菅原文太さんではなく、渡さんで検討されたと聞くが病がそれを阻んだ▼この人が演じたアウトローを色でたとえるならと想像してみる。健さんは青か。文太はほとばしるような赤だろう。渡哲也は複雑な灰色かもしれぬと「東京流れ者」の破滅的な主人公に思う。判然としない不安定な色だが、ほんの一滴、別の色をたらせばまたたく間に変化する。激情を隠した灰色。そういう生々しい役柄に持ち味が生き、それが高度成長期の影の部分にも似合った▼様子のいい二枚目だった。近ごろ、ああいう甘くない二枚目俳優を見ない。(2020・8・16) 【今日の出来事】1949年ロスアンゼルスの全米水泳大会で古橋広之進、水泳1500、800、400メートル自由形で世界新記録 【注】彼の唯一のヒット曲「くちなしの花」は、学徒出陣で19…

続きを読む