「国=政府」ではないのだ 保坂和志

 政権や体制に批判的な文化・芸術・研究に補助金を出す必要はない、という理屈がいつ頃からか当たり前になっている。「国を批判する者に補助金を出す必要はない」というこの理屈は間違いだ。こういうことを言う人たちは、<国=政府>だと思っている。<国>は政府のものでは全然ない。<国>は国民のもので、国民にはいろいろな人がいるものなのだ、みんながみんな、政府のすることを良いと思っているわけがない。これまで国がしてきたこと(つまり歴史)に全面的に賛成の人ばかりでないのは言うまでもない。
 国の現状や歴史を批判する人も国民なんだから国から補助金や研究費をもらうことは少しもおかしくない。繰り返すが「国から」というのは「政府から」ではない。政府は国のいくつもある機関の一つでしかない。学問・芸術活動している人はそのお金を政府からもらっているわけではないのだ。その人たちは、国民の自由や幸福のため、この国が間違った方向に進まないためにやっているんだから、国からお金をもらうのは正当な報酬だ。
 そもそも批判することのどこがいけないのか。いけなくない。批判と否定は同じではない。最近みんな、批判することと誹謗中傷を混同していないか? 批判は間違いや誤解を指摘して糺(ただ)すことだ。批判を受け止めるプロセスを経て、考え方やシステムは良くなってゆく。批判は例えれば、科学の実験やスポーツのトレーニングのようなものだ。トレーニングなんて失敗の繰り返しだ。トレーニングで失敗するたびに自分が否定されたと思っていたら技術は向上しない。
 科学者が自分の仮設を立証するために実験して、仮設を裏切る結果がでてしまったらどうするか? 「仮設が不十分だったんだな。どこがおかしかったか、練り直しだ」と、再び理論に戻る。科学は失敗の繰り返しだ。それを結果を伏せて、「総合的・俯瞰的見地から仮設に誤りはない」とだけお耐えていたら学問は滅びる、というより人間が考えるという行為自体が滅びる。ほぼそういうことになっていたのが第二次世界大戦に突入していった日本だ。日本学術会議はその「思考停止」ないし「思考すること禁止」の歴史の反省から作られた。
 だから政府から独立しているし、必要なら批判もする。政府はいつも国民の生命・財産を守るとは限らない。国民の生命・財産を蹂躙した政府が過去に間違いなく存在した。政府を監視するために政府から独立した組織を置く。それは何よりも国民のためだ。
 いろいろ書いたが今回言いたかったのは一つだけ、「現政権や国の歴史を批判することと国から研究費や補助金を受け取る」ことには矛盾はない。それらは正当な報酬である」ということ。
 批判を抑圧する空気は企業も学校も社会全体を覆っている。ブルーハーツが三十年以上前に歌った「弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく」社会になる旗振りを政府がしている。このままではのんびり昼寝もできなくなると、猫たちも言っている(ほさか・かずし=作家)
 

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