中国と父の想い笛に託して

「ラジオから流れてくる尺八の音色を聞いていると、いつの間にか十歳の私にタイムスリップしているのです。戦時中、中国(旧満州)に住んでいた頃の家族の元気な姿が浮かんできます」(尺八の音色から)。こんな書き出しで佐藤洋子さんは日中友好協会江東支部の機関紙に中国と父への想いをつづります。

  中国(満州)に住んでいた頃を 懐かしく思い出される、父の尺八
 
 時間がくると、父は、秋田の民謡でしょうか、○○追分?何ともいえない懐かしいような曲を吹いていたことが思い出され、次々と思い出が広がっていきます。当時の父は、どんな思いで吹いていたのでしょうか。

 土で作られた城壁の内側に開拓団の人たちと住んでいたころ、冬になると夜中にオオカミの遠吠えに震えたこと、その声の後、暫くするとオオカミの餌食になったらしい鶏の悲鳴が聞こえてきたこと。終戦の八月末になると、見知らぬ家族が我が家に入ってきて生活するようになったこと。

  ソ連の参戦、凍てつくあの広野を逃避行
 
 十一月の凍てつく真夜中にソ連軍の襲撃があるからと、急遽、着の身着のままで家族七人住みなれた家を後にして無蓋貨車に乗り込み奉天(現瀋陽)に向かった。朝になったら私は寒さで声がでなくなっていた。たどり着いた避難所は計器工場でした。避難所にたどり着いたときは75歳だった祖父と麻疹に羅っていた。弟は寒さのため弱っていたことを覚えています。

  尺八をフルートに替えて思い出す父のこと

 まだまだ思い出は尽きないのですが、父が傘寿を迎えた頃だろうか、尺八は無理だけれど音質はちょっと違うフルートが吹けるようになりたいなと強く思うようになった。フルート教室に通うことに決めました。継続は力・・・と言われますが、何とか音が出るようになり、父の尺八の音色、六十年余前を思いだしながら練習を続けています。

画像
 椰子の実(クリック)
実(み)をとりて 胸(むね)にあつれば
新(あら)たなり 流離(りゅうり)れの憂(うれ)い
海(うみ)の日(ひ)の 沈(しず)むを見(み)れば
激(たぎ)り落(お)つ 異郷(いきょう)の涙(なみだ)

思(おも)いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
いずれの日(ひ)にか 国(くに)に帰(かえ)らん

島崎藤村作詞になる「椰子の実」を舞台の上でフルートを吹く、佐藤洋子さん。
  

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