早乙女 愛著『海に沈んだ対馬丸』によせて

幼少のころから一家で戦跡巡り
戦争という自覚もない年齢で大海に投げ出された七人のなかには、イカダで六日間も漂流した子もいる。かれらはどのyぷに生き抜いて、その体験を戦後にどう位置づけてきたのか。娘の視点は私に似て、あくまでも小さい者や弱い者に寄り添っている。といって、親父(おやじ)が協力したわけではない。すべては娘の独力で、「駆けながら書いた一冊」と、あとがきにある。
わが家には、三人の子どもがいる。輝(てる)、民(たみ)、愛(あい)で、一番下の娘は七三年生まれ。かれらが幼少のころから、一家で戦跡巡りを続けてきた。愛が初めて沖縄に行ったのは三歳。家においていけないのでそうなったが、あまり記憶がないという。次いで東京大空襲の被災地に、広島、長崎へ。ポーランドのアウシュビッツ強制収容所を訪れた時は、小三だった。
一同が小学生になってから、海外の旅に誓約書をとった。一人十枚のリポートの提出である。そうすれば、よく見てよく聞いて、よく考えるだろうし、自主的な思考にも結びつくだろう、と。多くのリポートが残されているが、子どもが体でとらえた感性は豊かだった。娘は高校生になると、もうついてこなくなったが、「幼い時は、親に強制連行されて・・・」などと語っては、聴く人を笑わせているらしい。
彼女はドイツに留学し、その後中米コスタリカを舞台にドキュメンタリー映画「軍隊をすてた国」を制作。沖縄で結婚し、仕事と子育てに追われている。
幼いものたちの声なき声の継承

東京大空襲もそうだが、戦禍の被害者たちは、その辛酸をきわめた体験を、戦後の生き方や生活にどう生かし思想化してきたのかが、今、問われているような気がする。誰からか。平和のバトンを手渡すべき未来世代からだ。「知っているなら伝えよう、知らないなら学ぼう」と、私は訴えてきたが、一般的に親から子へのバトンタッチは、決して容易なことではない。
戦争体験者は高齢化している。残り時間が少なくなった時を待ち構えていたように、「いつかきた道」への暗雲が、ジワジワと迫ってきた。娘の著書は、海の底に沈んだままの幼い者たちの声なき声の継承であり、追体験の一冊ともいえる。我が家では同時に思いがけなぬ不幸に襲われた。
うちのカミさんこと早乙女直枝が、六月二十七日、出先で倒れて急逝、六十八歳だった。娘の本を読みかけだったので、お棺に入れてやったが、あの世で読み続けているのでは・・・。心配するな、あなたのひたすらな平和の願いは子らが受け継いでいくから、といってあげたい。
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