
寸 言
四月十一日 朝
明朝出撃と決定
俺の名前も出た
何をする間もない
心残りは面会せず休暇もなくして出撃すること
家の人は恐らくこれ以上であらう
然しこれが戦ひの姿である
父上、母上、兄上
ここまで書くと涙が出る
姉上、妹、弟
皆元気でやれ
四月十一日 午前八時
後でトランク、荷物が届くと思ふ
今それを作ってゐる
【注】「雲流るる果てに」(戦没飛行予備学生の手記)も本稿で52篇となり、後7編(総59)で完結します。10月21日(学徒出陣の壮行会記念日)迄に終了する予定でなお続けます。
「本日をもって本校を閉校とする」と校長が宣言した。時は1945年8月10日。満州(現・中国東北部)・新京第一中学校の講堂でのこと。一年生だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っているさなかである。ソ連参戦で市内は大混乱。百キロ南の生家・公主嶺に向かう列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊が退却しているのだ。
当時、満鉄・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先させて転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態になったことは周知の事実だ。五兄(利則)は神風特攻でフィリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だった。彼が部下に託した遺書にはこうあった。「だれのためでもない。俺は行く、行くしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後をついでくれ」と。子どもから大人になって、「戦争はさせない」の思いいっぱいだ。だから戦争体験を、次の世代に語り,つづり、歌で伝えたい。

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