
発端は、空襲を記録し後世に伝える活動の一つとして、戦前の地図を現在の地図に書き写すことを星野弘会長に依頼されたことでした。
その当時の事務所は、喫茶店の2階のアパートで4.5畳の一間、地図を広げるスペースもなく自宅で書き写して事務所に届ける、そんな繰り返しでした。
当時「東京大空襲を語り継ぐ60年展」(六本木ヒルズで)開催の計画があり、その準備に加わりました。さらに、遺族会を中心にして、「東京大空襲集団訴訟」の諸準備がはじまり、原告団を結成するための原告の募集や空襲の体験記録、戸籍謄本の整理など準備作業も手伝うようになり、現在に至っています。

私が「再び戦争を起こしてはならない」と願う原点は、父の死に様にあります。「あなたのお父さんは、馬を死なせてしまった部下の責任をとって”自害”した」と言う叔母の話は、中学生の私には重苦しく納得のいかないものでした。「馬が死んで、なぜ父が死ぬのか」「妻やこども(わたし)のことを考えなかったのか」「戦争って何だろう」などなど大きな疑問を抱きました。この疑問が私を平和な社会を実現する運動に結びつけたのでした。
私たちの戦争は終わっていない
遺族会や原告団の活動をしながら、体験者の方の話や交流会、学習会、訴訟弁護団の意見書などから「日本の戦争がなんだったのか」などを学びました。
同時に、東京大空襲訴訟の中で、国や司法(裁判所)の戦争責任に対する考え方の基本は、「ガマンせよ」(受忍論)であり、国民やアジアの人々に与えた甚大な被害への謝罪も責任も感じていない事実とその考え方が今も脈々と流れていると実感しました。

今また、「憲法9条を失くして、戦争する国」をつくろうとする動きが激しくなっていると感じます」。
まさに、「私たちの戦争は終わっていない」「「このままでは死ねない」の思いで闘っている裁判と「すべての戦争被害者を立法で救済せよ」との運動は「再び戦争の惨禍のない国」をつくる道と確信し、多くのみなさんと力を合わせていきたいと思います。(東京大空襲犠牲者遺族会事務局長・牛山れい子)
【写真説明】中右 「父を訪ねて何百里」、亡くなった地、「仙台」で。下左 最高裁判所前で「上告を早く受理して!」と宣伝する。
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