なぜ私はここにいるのだろうか?
思えば遠くへ来たものだ。
歌の文句ではないけれど、つくづくそう想う。
私の人生はあちこちと、落ち着かない。
中国・上海(シャンハイ)、満州・公主嶺、佐世保、佐賀、長崎、東京、そして九州の鹿児島・喜入町・・・と転々として今に至る。
私は双子の一人として、昭和7年九月に上海で生まれた。
その時、父は教師をしていたので、学校にいた。中国人のお手伝いさんが学校に来て、「長い(なーがい)のとまーるいのであーおいのが生まれた」と父に告げた。父は驚いて、急いで家に帰った。見ると丸いのと長いのが二つ寝かされていたそうだ。二人とも産声を上げなかった。逆さにしてもたたいても泣かない。産婆さんは何かあったら知らせてと言って、帰って行った。
母方の祖母が、それでもおしっこぐらいはしているだろうと、長いほうの足をひょいと摘んだら、おぎゃぁと泣いたそうだ。
母(桑野文枝)はまさか双子が生まれると想っていなかったので、おむつをはじめ、衣服を一人分しか用意していなかった。お祝いにおむつをはじめ、衣服を一人分しか用意していなかった。お祝いにおむつをいただいたのが一番嬉しかった、と大きくなってから聞かされた。

私は双子の丸いほうで、跡に生まれたので姉となった。長いほうが妹の泰子である。小さいころはいつもお揃いの着物を着せられていたが、帯だけは色違いのを締めていた。時々二人で帯を取り替えて、おとなたちを瞞したりした。
私はおばあちゃん子で、妹は母に可愛がられていた。私は、母のおっぱいに吸いつくことができず、ラクトニンというミルクで育った。そのためか母にはあまりなつかず、祖母にべったりの子であった。外出するときも、母は妹を、祖母は私を抱いていた。
5歳(昭和12年)の、まだ上海にいるころ、妹の泰子ちゃんと二人に三輪車を買ってもらった。それに乗って遊んでいて、迷子になった。泰子ちゃんはどこに行ってしまったのか、そこにはいなかった。同じような家が立ち並んでいて、自分のいるところが分からない。太陽が傾いてきた。遠くで母の声が聞こえてきた。母は何も言わずに私を抱きしめて、泣いているようだった。ずっと捜していたのだろうか。
▼妹の若杉泰子さん

私たちが5歳のとき、一家は父の仕事の関係で、満州・公主嶺に行くことになった。そこは上海と違って、とても寒いところであった。満州に来てまもなく、祖母が亡くなったので、私は父といっしょに寝るようになった。父はやさしくて、よく子守唄を歌ってくれた。「でんでん太鼓にしょうの笛」と歌っていた。
父はお酒が大好きで、夜はお客様が大勢みえて、歌ったり踊ったりしていた。いつも夜は賑やかだった。私たち二人はお客様からいつも可愛がられていた。いつもお行儀よくしているつもりでいたが、お客様が帰ってから、母からお行儀が悪いと叱られた。
一度お客様に二人で踊ってみせて、と言われて、お客様の前に立ったが、もじもじして踊れなかった。父も母も私たちを踊らせようとしたが、踊らないので、「恥ずかしがり屋さんね」と母は笑っていた。二人とも自分より大きいお人形をお土産にいただいて、大はしゃぎだった。

6歳のころ、二人お揃いのレギンス(毛糸製のタイツ風長ズボン)を母が買ってきた。私の古いレギンスは、まだ破れていなかったが、妹のは膝のところが擦り切れていた。母は妹に新しいレギンスをはかせた。私も新しいレギンスをはぃたくて、だれもいない所で膝のあたりを鋏でちょん切った。早速母にみせて「お母様、私のも破れちゃったの」と言った。母はあきれて父を見た。父もあきれて笑っていた。新しいレギンスをはいて、私は得意満面であった。
ある寒い日、ペチカに寄りかかっていて、セーターの背中を焦がしてしまった。お手伝いさんに「お母様には言わないでね」と言って寝たのだけれど、翌朝起きて驚いた。茶色に焦がした所は跡かたもなくきれいになっていた。母は何も言わなかった。私も黙ってセーターを着て学校に行った。
大きくなるにつれて、私たちはお揃いの洋服を着なくなった。私はいつも派手で、妹はわりと地味なものを好んだ。母は二人の好みをよく知っていて、私にはまっ黄色の地に黒いレースの襟が付いたワンピース、妹には鶯色の地に淡い花柄のワンピースを買ってきた。私は黄色のワンピースがとても気に入っていた。襟のレースは大きな蝶々の形をしていた。(つづく)
【写真】桑野姉妹=左泰子、裕子んさ(昭和7年9月1日生まれ)。 下 冬の公主嶺駅。

"満州・公主嶺 「思いだすままに」 浜埼裕子著 ①" へのコメントを書く