公主嶺小同窓会誌 第3章 エピソード ー5-

 大正2年の秋、父の転勤で私たち一家が最初に住んだ家はロス建ての8畳四っつを田の字のように四角に並べた家で、真ん中にはペチカがありました。裏には試験場お空き地をへだてて中国人の家が並んでいました。そのころは霞町という名はなく、守備隊までがずっと木下町でした。

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  弁髪と纏足の人たち
    岡田友子(旧姓神田・11回生)
 
 
 当時は中国人の男性はまだ長い髪を編んで垂らした弁髪の人が多く、独特の節回しの豆腐売りも、義士まんじゅう売りもみんな弁髪でした。女性は纏足(てんそく)の人が多く、たまに裏の中国人の家からは日本製よりも高い西太后のような頭をした人がヨチヨチと云う感じで行き来しておりました。
 夜中にその中国人の家の方から「ドーン、パチパチ」と云うものすごい音がして、さては何事が起こったかと皆目を覚まして不安な思いをしましたが、それが爆竹の音で、旧正月のことでしたから、本当に驚きました。
 学校の裏口に小さな小さなお家があって、ボーイさんの家族の方々が住んでいました。おばさんはやはり纏足で、いつも外に縁台を出して日向ボッコしながら小さな靴を編んでいたことを覚えております。

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】ロシアが公主嶺の鉄道北に遺した建物は約100棟、300戸、すべて満鉄の社宅や公共施設となった。社宅の人はそれらを「ロス建て」と読んでいた。同一形式ではなく、スレート屋根、ペチカの煙突、屋根裏部屋、二重窓などは、そえぞれの個性豊かな表情をもっていた。右写真は大正初期のころの撮影。

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