
別れのブルースと特攻隊員
ー「別れのブルース」がすごくヒットし始めて、日本国内よりも・・・。
淡谷 あのね、国内ではあんまり売れなかったのよ。それがその年(昭和13年)の暮れごろからどんどん売れてきたんですよ。それも満洲の兵隊さんからなの。それが、大阪から東京へと(広まって)いって、トップ(売り上げ)をきっていったけれども、次の年の昭和14年に発売禁止になった。絶対に唄ってはいけないと・・・。
ーそう、その後の「雨のブルース」もそうなったでしょう。どうして、また禁止に・・・。
淡谷 センチメンタルだからだって、国民を鼓舞するような歌でなくてはダメだって。
ー歌っちゃいけない歌を兵隊さんは歌ったんですってね。
淡谷 あのころよく兵隊さんの慰問に外地に行って歌ったの。たしか、あれは上海だったかしら、東京の部隊だったのね。都会的な歌をたくさんリクエストされたあと、「もう一つどうしてもうたってくれ」と言われたの。

ーそれは?
淡谷 それが「別れのブルース」だったのよ。問題の歌だったので、少しためらったけど、明日(あした)がわからない兵隊さんでしょ、だからわたしうたったのよ。
そのとき歌い始めて、ひょっと見たら、憲兵さんと将校さんがホールから出て行ったのよ。出て行ってくれたの。そして、ひとつへだてた中庭の向こう側から覗き見るようにして聞きながら、泣いているじゃないの。そういうことがあったの。だから私ね、最前線では軍歌など歌っても喜ばれないから、思いのある歌を歌ってさし上げたの。
ー私も聞いたことあるわ。そのころは、上官がそんあ歌を許したら、上からこっぴどく叱られ、始末書をとられたんですってね。

淡谷 それに私、モンペなんかはかなかった。(ドレスで決めていた)それとね、おかしかったのは楽器の名前のつけかた、横文字はいけないといって、ピアノは「洋琴)、バイオリンは「提琴」ですよ。ドラムは「太鼓」でいいけれど、サキソホンのことを何といったと思う.
ーあら、なんと?
淡谷 「金属製先曲がり音響音だし器」って。そんなふうに「言えるものか」と思ったから言ってやったの,「おい、そこの尺八」って(笑い)。

その笑顔が忘れられないの
淡谷 特攻隊の慰問に行ったときのこと。いっぱい兵隊さんがいるんですよ。ちょっと横を向いたら2,30人もいたでしょうか、白鉢巻をした、なにか子どもみたいな兵隊さんがいるんですよ。まだ15,16歳ぐらいの。だから私、係りの人に聞いたんです。
ー15歳ぐらいの少年兵ね。
淡谷 そしたら「はぁ」、特攻隊員で平均年齢16歳です。命令がくれば飛びますよ」って。私、それを聞いただけで胸がモヤモヤしてきたんです。敵艦に突っ込むから帰ってこられないんです。「もし歌っている最中に命令が下されたら、行かなければなりませんからごめんなさいね。悪く思わないでください」、(命令が)来なけりゃいいなあと思っていたら、やっぱりきたの。命令が・・・。さっと立ち上がって、私の方を向いてみんな笑いながら、こうやって(敬礼の格好)行くんです。

もう、泣けてなけて、次の歌は(声が)でなくなりましたよ、悲しくて。16歳よ、平均年齢が。そして、飛んでいきましたよね。コーヒーで乾杯して。私、その笑顔が(今でも)忘れられないんですよ。一人ひとりの笑顔が。あんな悲しい思いをしたことはありません。
ーほんとにつらい話ですね。特攻隊の人たちは飛び立つこと(離陸の仕方)は知っていても(飛行時間は数十時間)着陸する方法は習っていなかったといいます。
戦後60年、戦争をご存知の方は知っていると思いますが、できることなら若い方にも(この番組)を見ていただいて、ほんとうに戦争というものは悲しくてつらいものだということを知っていただきたいと思います。
【注】上記 青字は黒柳徹子さん。内容はテープから私が一字一句もらさず起こし、文章化したものです。なお、このテーマは本ブログに掲載済みのものを編集しなおしました。
【リンク】http://38300902.at.webry.info/200808/article_21.html

■別れのブルース
作詞:藤浦 洸 作曲:服部良一
窓を開ければ 港が見える
メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて
今日の出船は どこえ行く
むせぶ心よ はかなき恋よ
踊るブルースの せつなさよ
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