
遺影の前で「沖の鴎(かもめ)」をうたおう
だから、今晩は遺影に一輪の菊の花を手向けて、彼や特攻隊員が生前自らを「カモメ」になぞらえ好んで歌った「ダンチョネ節」をそっと歌おう。飲んではいけない酒も少し入れて・・・。ひと時も経たずに酔いが回ってくるので、「明日はお立ちか」を口ずさみながら眠りに入っていくはずだ。
【沖のかもめ】
この歌は戦時中、特攻隊員が出撃の前夜、送別の小宴で決まってうたった歌という。そろそろ酔いがまわりかかったころ、故郷の山や川をおふくろの涙を、そして彼女の眼差しを思い出し、眼をしばたたきながら半ば虚ろ気味でうたった「さよなら」の唄。
神奈川県三浦岬の民謡が元歌。替え歌として飛行気乗りの悲哀を歌詞しにした。特攻隊節として知られている。「ダンチョネ」とは『断腸の思い』を模したものとされている。

【神島利則】
兄・神島利則(かみしま・としのり)大正13年1月3日、旧満州・公主嶺生まれ。公主嶺小学校(28回生)卒業後、新京第一中学校を経て拓殖大学に進む。1943(昭和18)年9月、第13期海軍飛行予備学生として土浦海軍航空隊に入隊。
1944(昭和19)年10月、台湾の台南航空隊を経てフイリピンのセブ基地に移動。1944(昭和19)年12月15日
午前6時30分、神風等別攻撃隊第7金剛隊の一員とした、250キロで爆装のゼロ戦に搭乗、発進した。目標はネグロス島近海の輸送船団。戦果は不明、全機(5機)未帰還。20歳だった。2階級特進、海軍少佐。法名は「光忠院釈利剣大居士」。あれから73年。
【リンク】
http://www.youtube.com/watch?v=iGBEKT7neyY
http://nagai-yoshi.jp/kumo.html
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