
被爆語り部海越えて受く平和賞
田辺浩子(88) 東京都調布市
田辺さんの夫俊三郎さんは広島の学校に進学し、動員先の工場で被爆した。俊三郎さんがその事実を語ったのは、息子が小学校に入ってから。以来、被爆体験を絵で伝えるために日本画を習い、ピースボートに招かれて世界を回った。核兵器の廃絶を目指す国際NGOに贈られた今年のノーベル平和賞に、田辺さんは三年前に逝った夫を思った。
疎開する青函の船海荒れて
桐畑由紀子(78) 東京都練馬区
こぼれ萩出征兵士の墓に在り
吉沢 功(76) 埼玉県熊谷市
「本日をもって本校を閉校とする」と校長が宣言した。時は1945年8月10日。満州(現・中国東北部)・新京第一中学校の講堂でのこと。一年生だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っているさなかである。ソ連参戦で市内は大混乱。百キロ南の生家・公主嶺に向かう列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊が退却しているのだ。
当時、満鉄・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先させて転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態になったことは周知の事実だ。五兄(利則)は神風特攻でフィリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だった。彼が部下に託した遺書にはこうあった。「だれのためでもない。俺は行く、行くしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後をついでくれ」と。子どもから大人になって、「戦争はさせない」の思いいっぱいだ。だから戦争体験を、次の世代に語り,つづり、歌で伝えたい。
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