大空襲の絵本「あしたのやくそく」

絵本作家の吉村勲二、ミヱさん夫妻が書いた東京大空襲を伝える絵本・「あしたのやくそく」。今もなを読み継がれています。2002年に新日本出版社から刊行され、多くの子どもたちに光輝の眼差しで迎え入れられました。絵は遠藤てるよさん。海老名香代子さんが推薦の言葉を寄せています。   「あしたのやくそく」 吉村勲二・ミヱ文    「このあたりはあの戦争で焼け残ったが、今でもあの時のことを思い出すと、わしは背中が冷たくなるんだよ。  三月十日。そう、あの大空襲があった朝、まだくすぶっていた町の中を死体をまたぎながら、せがれのいる砂町(すなまち)へ向かう途中、焼け落ちた建物の下敷きになって助けを求めるおさない兄妹を見捨ててしまったことをさ・・・」  それは私たちに好きな絵を描く時間も少しでき、変わりゆく町なみを記録しておこうと、住んでいる江東区砂町から中央区月島へ足をのばしたおりのことでした。戦前に建てられた長屋からでてきた老人と話しているうちに、戦争当時のことに話が進み、その長屋の絵は途中のまま、空白に老人の横顔と先のことばが記されていました。  私たちが大好きなこの町に、今も五十数年前の思いをそのままに生きている人たちがいる。この「ことば」が東京大空襲の真実を知り、知らせようというきっかけになりました。  今から六十余年前、日本は中国やアジア諸国に戦争をしかけ、アメリカとも戦争を始めました。その第二次世界大戦の末期1945年3月10日未明、東京の下町、江東・墨田・台東地域…

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東京大空襲の紙芝居を見て

「東京大空しゅうの紙しばいを聞いて、私は、どうして戦争なんてあるんだろうと思いました。いくらにげても、火があって上からたまがふってくるのを考えるとすごくこわいです。戦争は、人の命をなんだと思っているのだろう」(小学5年生・女子)  この感想文は、私の紙芝居「あしたのやくそく」を去年見たある地域の人たちとPTA(?)の方々が小学生に見せたいと学校に申し入れた結果、3月10日、5年生120人余の子どもたちを対象に、学童疎開体験者の話と紙芝居(原画・写真)をみた後、国語の時間に一学級の子どもたちが書いた感想文と担任の先生からのお礼文です。  この学校は東京多摩の新興住宅(ニュータウン)地域の小学校のようですが、一読に値します。(吉村勲二)       子どもたちの感想文(元文のまま) ●僕のひいおじいの身内もおさなくて死にました。だから戦争は大きらいです。もう二度と戦争が起こらないように願ってます。(男子) ●紙しばいを見て日本はひどいことをしたと思いました。アメリカももう兵器など作ってほしくないです。日本は平和でいたいです。(男子9 ●おじさんの話で、かわいそうだなーと思ったのは、友達がみんな死んじゃったて言ってたことと、食い物がないから何でも食べたいということです。おじさんとか、かみしばいの話を聞いて、やっぱり戦争はやだなーと思いました。(男子) ●とにかくみていて「怖い」の一言しか思えませんでした。読んでいる人がいきなり「くうしゅうよー」ってどなった時は、ものすごく…

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狩野光男画 東京大空襲㊦

    体験者の証言による連作画 狩野光男・画(東京大空襲訴訟を支援する会・提供)   NO.7 赤羽駅で機銃掃射により右手を奪われた                      1945年8月3日          体験証言者・豊村(野村)美恵子 19歳    3月10日の東京大空襲で、建物強制疎開先洲崎で、父母姉弟の4人が猛火に追われ海に逃げ溺死した。  8月3日勤務明けの帰路赤羽駅構内で運転席を標的にP51機が急降下し攻撃、電車が急発進し乗客7人が負 傷。私は右肘に被弾、右半身は真っ赤な血で染まった。意識は朦朧、すぐに目は見えなくなった。ホームに取り残され、このまま死ぬのか?戸板で運ばれていた時、「応急手当だ!」と完璧な処置をした軍人らしき人のお陰で、九死に一生の命を救われた。  今78歳、右手切断の傷害を持つ不自由さ、辛さに堪えながらの人生だったが、ご縁があれば万感の思いを込めて厚くお礼を申し上げたい。政府は自国の戦災傷害者の人権と補償を一切認めません!    NO.8 聖路加病院の救護活動8ヵ月       1945年1月~45年8月            体験証言者・安増武子 19歳    聖路加女子専門学校(当時興健女子専門学校)報国隊として動員された。3月10日は千人以上の負傷者が運び込まれ、病院ロビー、礼拝堂、廊下続きの専門学校地下体育館まで、ぎっしり収容。空襲の都度、重傷者が担ぎこまれ、混乱状態の中を必死に看護に当たった。 …

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狩野光男画 東京大空襲㊥

    体験者の証言による連作画 狩野光男・画(東京大空襲訴訟を支援する会・提供)    NO.3 本所菊川橋 1945年3月10日            体験証言者・元木キサ子 10歳    私は両親と末の弟を亡くした。  防空壕に入っていると火の手が近くまで迫ってきて、強風と火の粉が渦巻く中、ただ夢中で走って逃げた。気付くと薄暗い公園(猿江恩賜公園)にたった一人で立っていた。  朝になって家に帰ろうと菊川橋の方へ歩き出したが、道のあちこちに真っ黒になった焼死体が転がっている。何とも形容しがたいどろーんとした大きな大きな朝日が昇ってきた時の印象は強烈だった。  菊川橋の上には天井ほどの高さに積み重ななりからみあった焼死体の山、黒い山から突き出した手、足、頭・・・・・・。川の中は水も見えない位、一面の水死体が何層にも重なり合っていた。  NO.4 西北地区空襲 1945年4月13日~14日        体験者証言・宮崎さと子 14歳    私は母親と妹3人を亡くした。  火勢が強まり、5歳半の弟を兵児帯で背負って逃げた。母親がバケツで防空頭巾に水をかけてくれたが、振り向きもせずに逃げたことを後々まで悔やんだ。それが母親との最後のふれ合いになった。火と煙に巻かれ、意識がもうろうとなったとき、背負った弟に背中を蹴られ、気を取り戻した。  朝、自宅付近に戻ると、黒こげの死体が沢山転がっていた。防火用水に上半身を入れたままの遺体もあった。靴を…

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狩野光男画 東京大空襲㊤

あの東京大空襲を絵画で告発し続けてきた狩野光男さん。地獄絵図のような中をくぐりぬけてきた体験者がつづる証言をもとに連作で10点描きました。その想像を絶する「語り」と凄惨な「絵」のコラボレーションが見るものに迫り、胸を突かれる思いです。(東京大空襲訴訟を支援する会・提供)                          体験者の証言による連作画 狩野光男・画       NO.1 有楽町付近の爆撃 1945年1月27日        体験証言者・狩野光男 14歳     昭和20年1月27日、銀座方面が爆撃され多くの死傷者が出た。私は偶然通りがかったのだが、はじめて見る惨状に目をそむけた。  国電有楽町駅のガード下は地獄絵図だった。爆風に飛ばされ建物の壁面に逆さに吊り下がった人、手首だけがからんだ電線、あちこちに血だらけの肉片が飛び散り、重傷者のうめき声、呆然と見ていると、騎馬の憲兵が飛んで来て、「救助でない者は行け」と追い払われた。 NO.2 言問橋浅草側の火炎地獄 1945年3月10日               体験証言者・狩野光男 14歳     私は両親と妹2人、遠縁の同居人2人を亡くした。言問橋の上では、浅草側から逃げる人々と本所向島から浅草を目指す人々がぶつかり合い、山となり、荷物も人も焼き尽くした。隅田川に飛び込んだ人たちの中には、ショック死、焼死、溺死、凍死した人も多かった。  後に証言した人の記録を読むと、浅草側の火焔が風…

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紙芝居で「東京大空襲」終

紙芝居ー東京大空襲59周年によせてー『春になったらいっぱいね』(吉村勳二・ミヱ作)のなかに書かれている「ことばの説明」を以下紹介します。 【ことばの説明】 うまや=東京下町には、当時、馬車で荷物を運ぶ、たくさんの人たち(ひき馬業者)がいた。小さい子は、その人たちのことを「うまやさん」と、よんだりしていた。 水があがる、入る=この地域は、海面より低い土地で、水はけが悪い土地がら、大雨が降ると、床下、床上、道路の浸水はしょっちゅうだった。 くようのひ=その内の一つに、戦災殉難者供養の碑、砂町六地蔵尊がある。 所在地 東京都江東区南砂2-28-1  江戸時代から有名な砂村新田六地蔵がまつられていたが、東京大空襲で破壊された。戦後新たに地元の人たちにより作られ、碑もその時共に建てられた。 ばとうかんのん=馬頭観音 所在地 東京都江東区南砂1-3-20 江東区には都内でもっとも多くのひき馬業者が集中していた。戦争が激しくなり、石油不足のため、、こk内の輸送は牛馬に依存していた。三月十日の大空襲により、その大半が焼死した。また、軍馬として徴用された数多くの馬も戦死させられた。ひき馬業者が中心になって、愛馬の霊をとむらい、平和の願いをこめて、高さ三メートルほどの碑を建てた。     ▼江東区・砂町六地蔵尊

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紙芝居で「東京大空襲」④

東京大空襲59周年によせて『春になったらいっぱいね』-あやちゃんのうたがきこえるー吉村勳二・ミヱ著作 ⑬ おじさんは、あやちゃんのうちへ向かった。(*18) そのとちゅう、 やけ落ちてきた家の下じきになって、死んだ。 馬やのおばさんは、川ににげた。(*19) その川の上にも火が走り、 ほかのみんなといっしょに、死んでしまった。 あやちゃんたちは、 道路わきにあったぼうくうごうに入った。 その上にばくだんが落ち、あやちゃんたちも、 中にいた人たちも、みんな死んでしまった。 あっちこっちから、はなされた馬たちは、 むれになってにげるとちゅう、つぎつぎと死んでいった。(*20) だがしやのおばちゃんは、畑に水をひく大きなみぞの中で、 おそろしさと寒さで、朝までふるえていた。 〔注〕*18-13~14、共に淡々と読む*19-<ここでの川は主にこの地域の縦横に流れていた運河のこと>*20-<馬は群れる習性がある> ⑭ あやちゃんもきみちゃんも、おかあさんも、 あやちゃんの友だちも、たけちゃんにいちゃんも、 馬やのおばさんもおじさんも、 その夜だけで、十万人もの人が死んだ。 あやちゃんの大すきだったクロや馬たちも、 たくさん、たくさん、三千頭も死んだ。 町がなくなったように見えた。 その年、一九四五年、八月十五日、 せんそうは、終わった。 ⑮ あれからなん年かたった。 生きのこった町の人たちは、 町の中…

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紙芝居で「東京大空襲」③

東京大空襲59周年によせて『春になったらいっぱいね』-あやちゃんのうたがきこえるー吉村勳二・ミヱ著作。 ⑨ あやちゃんは、三さいになった。 あやちゃんは、いつものように出かけた。(*12) 頭にはぼうくうずきんをかぶり、 かたにはぬのぶくろをかけてね。 原っぱに行ったけど、 冬なので・・・、 草はほんの少ししかなかった。 馬やのおばさん 「ありがとね、あやちゃん」 馬やのおばさんが、馬のクロに草をやった。 あっという間に食べてしまったクロは、 あやちゃんのぬのぶくろを、はなでおし上げた。 あやちゃんは、ふくろをふりながら、 あ や 「クロごめんね。春になったら、いっぱい ね」(*13) 〔注〕*12-<東京への空襲は1944年11月から本格化し、12月からはほぼ連日連夜になる>*13-この紙芝居の山場母親がおなかのすいた幼児をさとすように、「今度いっぱい食べさせてあげるからね」の意。 ⑩ 三月九日の夕方、 あやちゃんときみちゃんとおかあさんが、 だがしやさんの前を、通りかかると、 ちょうど、おばちゃんが、表に出ていた。 あ や 「おばちゃん、おふろに いってきたの。おやすみなさい」(*14) だがしやのおばさん 「おやすみ。あやちゃんも、きみちゃんも、かぜひかないようにね」 おばちゃんは、三人を見おくりながら、つぶやいた。 だがしやのおばさん 「あやちゃんは、ちゃんと話せるようになったし、きみちゃんも、しっかり歩けるよ…

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紙芝居で「東京大空襲」②

東京大空襲59周年によせてー『春になったら いっぱいね』ーあやちゃんのうたがきこえるー吉村勳二。ミヱ作、絵 ⑤ あ や 「おばたぁん、クロのえたっ」 馬やのおばさん 「ああ、ありがとよ。雨がくるかもしれないから、早く帰るんだよ。水も上がるかもしれないからね」 あ や 「はぁい」  あやちゃんは、いそいで帰った。 やっぱり雨がいっぱいふってきた。 こなたりは、雨がふると、すぐ大きな水たまりができるんだ。(*6) あやちゃんのうちのゆか下にも、水が入ってしまった。 〔注〕*6-このあたりはいわゆるゼロメートル地帯で、水害に悩まされ続けたが、今は排水設備が完備され、その心配はなくなった。 ⑥  水がひいたふつか後、 あやちゃんは、いつものように 歌いながら、だがしやさんに向かってた。 また、馬やのおばさんに会った。 馬やのおばさん 「あやちゃん、きょうはおじさん、早いからね」(*7) これだけで、あやちゃんにわかるのかなー。    -間ー ゆうがた、馬やのおばさんちの前で待っていると、 おじさんが、馬車をひいて、帰って来た。 馬やのおじさん 「あや、あぶないぞっ」 おじさんがどなった。 あやちゃんは、 「うふふっ」とわらいながら、わきによけた。 おじさんは、馬車おき場に、車を入れ、 馬をつれて、ひきかえして来た。 馬やのおじさん 「クロ、しょうがねえから、 あや乗っけて、ひとまわりすっからな 帰ったら…

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紙芝居で「東京大空襲」①

この紙しばい(「春になったらいっぱいね」)は、2004年8月東京大空襲記念集会で朗読された同名の小冊子を元にしています。作者は東京・江東区に住む絵本作家の吉村勳二・ミヱ夫妻。その冊子のあとがきに次のようなメッセージが書かれています。   東京大空襲59周年によせて      春になったら いっぱいね=あやちゃんのうたがきこえる=にこめたメッセージ  今日も買い物先で、バスのなかで、公園で、原っぱで、あやちやんに出会います。あやちゃんもまた、としちゃん、みっちゃん、かずくん、たけちゃんにいちゃん、おじさん、おばさんたちにであいます。  街は人とひとが出会い、人とひとが交わり、結びついて生きています。この町に、60数年前のおしよせた戦争を語り続けることは、この町やこの国の、世界中の人たちが行き続ける道にもつながります。  この町から、あの町から、あやちゃんたちのうたが聞こえてきます。  しかし、今この時も戦いにおびえ、傷つき、死んでいくあやちゃんたちがいます。約60年間、戦争をさせなかった国の一人として、一日も早く世界のどの町からも、あやちゃんたちの明るいうた声が聞こえてくることを願いつつ、この話を書きました。体験者のお話と合わせて活用していただければと思います。    2004年3月  東京都江東区南砂在住  吉村勳二・ミヱ ① あ や「おんまの おやこは なかよし こよし ・・・・・・」(*1) ほら、あやちゃんのうたがきこえてきたよ。 『春になった…

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