「山田和夫さん」 関連ブログ 一覧

 山田和夫さんという卓抜した映画評論家がいらした。しんぶん「赤旗」に日々、その時々上映中の内外の映画評論を書き好評を博していた。私などは山田さんが選んだ映画のみ映画館に足を運んだものである。当時雑誌「前衛」に掲載された「特攻映画」という論文に魅せられ、お許しを得て私のブログに連載し、多くのアクセスを得た。         <山田和夫関連 ブログ15> ①197 思い出される山田和夫さん ② 61 これはきっと山田さんの文書 ③122 山田和夫さんが逝かれた ④ 73 山田さん「悪夢の記憶」 ⑤ 78 山田和夫さん 江東で講演 ⑥ 90    〃     「特攻映画」 終 ⑦150        〃         ⑦ ⑧ 92 「大きな存在」 山田和夫さん ⑨172 山田和夫描く「特攻映画」 ⑥ ⑩268       〃         ⑤ ⑪ 87       〃         ④ ⑫213       〃         ③  ⑬125       〃         ②  ⑭171       〃         ①  ⑮132       〃         序   【注】総ページ数は15。アクセス数は2049です。なお、序列は日付逆順で表示しています。なお、下写真は2012年、江東区の高齢者集会でサインセールをする山田和夫さん。  https://38300902.at.webry.info/theme/30eec664a9.html 

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思いだされる 山田和夫先生

映画評論家の山田和夫さんが亡くなられて1月余り。卓越した映画評論を始め、日本の平和の尊さを語り続けた氏を悼む言葉は多く見られるが、しんぶん「赤旗」の「読者の広場」(9月22日付)には映画字幕翻訳家の進藤照光さんが上記の題名で投稿されている。  外国映画の紹介と研究業績を残された映画評論家の山田和夫先生が亡くなりました。  先生がかかわられた多くのソビエト映画の字幕翻訳の栄誉に、小生は浴しました。20年ほど前の思い出を二つ記します。  旧邦題の「戦争と貞操」は時代錯誤で、映画の内容を正確に反映していないと、リバイバル公開時に「鶴は翔んでゆく」の原題に改められたのは、ロシア語に堪能であられた先生です。  「静かなドン」の訳出では、ソビエト軍の階級を「日本軍のどの階級に相当しますか」と質問したら、先生は「君は戦争を知らない幸せな世代だから知らなくて当然だ」とおっしゃったあと、延々と世間話をされました。  その時、先生は戦時中に苦労され平和の尊さをしみじみ感じておられるのだ、との思いが私の頭をよぎり、それ以上聞き出せませんでした。  映画と同様に平和をこよなく愛していらっしゃったのです。きっと天国でも、平和の希求と映画研究に余念がないことと思います。ご冥福をお祈りいたします。

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これはきっと 山田さんの文章

映画評論家の山田和夫さんが8月11日に逝去されたことを本紙で知りました。映画が好きな私ですが、何十年も前から山田さんの映画評論に教えられて、自分なりの映画観を育ててきました。(札幌市 塩川哲男ー医師・57歳)   とくに、毎週テレビで放映されるたくさんの映画の紹介を本紙に連載されていましたが、短くても的確に作品の評価や見どころがおさえられていて、いつも参考にしていました。  また、文化面のコラムにも署名こそされていないけれど「これはきっと山田さんの文章だ」という鋭いエッセーが載っていて、権力や金力の横暴にペンで果敢にたたかってこられたことに敬意を表します。  数年前から病気療養のため、毎週の映画案内も石子順さん(この人の評も昔から好きです)にバトンタッチされ寂しく思っていましたが、ついに帰らぬ人となってしまったのですね。  山田さん、長い間お疲れさま、そしてどうもありがとうございました。(しんぶん「赤旗」-「読者の広場」9月2日付) 【リンク】http://38300902.at.webry.info/theme/30eec664a9.html

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山田和夫さんが逝かれた

山田和夫さんが亡くなられたお知らせを受けてもう10日余りになる。映画評論家としての卓越した評論もさることながら、私自身は個人的なふれ合いもあって死の衝撃は言葉にならない。「日本映画がいい」と題して講演された江東区高齢者集会でのこと、ブログに論文の掲載をご家族から快くご承諾をいただいたことは忘れられない。 ▼江東高齢者集会で講演=03年10月  2007年、「前衛」9月号に山田和夫さんが「その瞬間、彼らはまだ生きていた」という小論を書かれた。日本映画に特攻隊員がどのように描かれていたかがテーマ。死んで逝った若者の心情を包み込むようにしのび、彼らを殺したものの罪悪性を完膚なきまでに告発した一文に胸を強くうたれた。  その山田和夫さんが逝かれたことを知り残念、無念。特攻で死んだ兄への鎮魂歌として書き連ねた私のブログ一覧をぜひともお読みください。山田さんへの私の追悼の言葉とさせていただきます。  【リンク】山田和夫さんに捧げる私のブログ一覧   http://38300902.at.webry.info/theme/30eec664a9.html ◆しんぶん「赤旗の訃報→

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山田和夫さん「悪夢の記憶」

映画評論家の山田和夫さんの「日本映画の歴史と現代」(2003年・新日本出版社)を見ると、その冒頭に自分が17歳のころの記憶を書いている。敗戦直前、志願して入隊した「予科練」時代の悪夢のような体験を通し、いまの若者に二度と味あわせてはならないと述懐している。      自分が17歳だったころ   「1944(昭和19)年、16歳で旧制中学4年より海軍甲種飛行予科練習生(予科練)を志願し、4月に鳥取県美保海軍航空隊に入隊した。「しゃば」(軍隊用語で民間)で聞くのとは大違いの少年兵を人間扱いしない「しごき」の猛訓練、棍棒が肉体を見舞う上官の私的制裁、まさに悪夢のような軍隊生活の毎日。  にもかかわらず、私たちは必死に訓練や制裁に耐え、歯をくいしばって「国のため」と思いつめた。そんな「軍隊」や「戦争」を批判的に見直す能力は、はじめから奪い去られていた。だからその年の終わり、戦局の悪化に応じて全員の特攻要員への「志願」が求められたとき、ただ一人の例外もなく、志願書を書いた。その半数は自分の手を傷つけた血でしたためた血書志願。  私もおそるおそる安全カミソリで指を傷つけた痛みをいまも忘れることはない。」とし、いまの暗雲たれこめる世情にふれつつ「私がかって体験した悪夢の記憶を、若者に二度と味あわせたくない。映画人の一人として、私もまた、たたかい続ける覚悟である」と結んでいます。  <山田和男ミニ・プロフイール> 1928(昭和3)年 大阪生まれ 東京大学卒 映…

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山田和夫さん江東区で講演

本ブログ連載の「山田和夫描く『特攻映画』」はこのほど終了しましたが、書き込むほどに山田和夫さんの日本映画によせる情念と想いがひしひしと伝わってきました。以下は03年10月5日、東京・江東区の「高齢者集会」で講演した要旨です。テーマは『日本映画こそすばらしい』。    日本映画こそすばらしい   戦争体験を悔恨の念をこめて語るお年寄りが子どもたちに、「なぜ、あのとき徴兵を拒否しなかったの?」と問われて、困惑するという話はよく耳にしますが、その答えは、先日放映された「テレビドラマ・『さとうきび畑の唄』を見ることですよ」と山田さんは話します。  「これが戦争だ!戦時体制の現実とはこれだ!」ということを如実に物語る秀作。視聴率25%ということは2500万人が観たということで大反響といえましょう。テレビ局はこういうものこそ積極的に放映すべきだと強調しました。   若い人たちにいい映画を伝えなければ    日本でいい日本映画を観ることが困難なのは何故だと問いかけ(注)、国際的な映画評論家としての立場から日本映画再生への道を1時間半にわたり諄々(じゅんじゅん)として説かれ、最後にこう訴えました。  「貴重な体験をいっぱいもっている高齢者は、若い人たちにいい映画を伝え、教えていく責任があり、そうすれば、彼らも必ず受け入れてくれるはずです」と結びました。 【注】「アメリカいいなり」は政治や経済だけではありません。文化もそうです。とりわけ映画は日本で上映されるほとんどが…

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山田和夫描く「特攻映画」終

「その瞬間。彼らはまだ生きていた」-特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫  それ以外の特攻映画にも、数多くの心に残る作品、忘れられない映像がある。根本順善監督の「北緯15°のデュオ」(1991年)は、フイリッピンの元特攻基地で出会った男女の旅を追いつつ、「20歳で明日がない」特攻隊員の写真に立ちすくむシーンを描いた。岡本明久監督の「人間の翼 最後のキヤッチボール」(1996年)は、戦時中球史に残るノーヒットノーランを達成した投手が特攻隊員として出撃する。出撃直前、彼は戦友を相手に最後のキャッチボールを投げ込む。一球、また一球、全10球、をストライクで投げ切るまで、カメラはただひたすら主人公を見つめて続ける。いわれなき戦争で断ち切られた野球人生への思いを込めた、胸を打つシーンであった。  同じ野球がらみでは、岡本喜八監督の「英嶺たちの応援歌・最後の早慶戦」(1979)があり、ここでも自分の愛した野球と別れを告げる特攻隊員の悲痛が画面から溢れていた。  黒木和雄監督の遺作となった「紙屋悦子の青春」(2006年)は、特攻出撃を前に戦友に恋人をゆずる主人公と、生き残った戦友と恋人の思いを閉ざされた空間に充実した描写として展開したし、先に触れた佐々部清監督の「出口のない海」(2006年)も、もう一つの閉ざされた空間=人間魚雷の鉄の棺にみじかい生涯を終えた青春に愛情の念を注いだ。  戦後つくられた日本の特攻映画には、カッコいい戦争映画の一種といわれても仕方がないもの…

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山田和夫描く「特攻映画」⑦

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」-特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫 (七) 新しい境地へ進む特攻映画を    日本特攻映画史は続く。独立プロで多くの力作を生んだ神山征二郎監督に「二つのハーモニカ」(1976年)がある。特攻基地の若い隊員と近くに住む少年とが、ハーモニカを通して美しい友情を結ぶ物語で、親と子のよい映画を見る運動(親子映画運動)で好評を得た作品だが、特攻を扱った映画では「月光の夏」(1993年)が全国的に大きな反響をまき起こした。   音楽学校出身の特攻隊員が、基地近くの小学校でピアノを弾くことをたのしみにしていた。出撃のときが来た。彼は小学校の生徒たちにベートーヴェンの「月光」を置き土産に出撃した。ここまでは「ニつのハーモニカ」の延長と言えるし、特攻映画の一つのパターンである。しかし「月光の夏」はさらに一歩踏み込んだ。特攻出撃した隊員たちが機の故障などで引き返したとき、突入するまで出撃をくり返すが、それでも成功しないと「振武寮」と言う隔離施設に軟禁されて、軍人精神の修養を命じられる。最近その状況の研究が発表されたが、この映画ははじめて特攻のもう一つの暗い側面を明るみに出した。    特攻は死ぬまで解放されないおそるべき“死刑執行”と言えた。そのおそろしさに踏み込んだ作品である。  降旗康男監督の「ホタル」(2001年)はさらに特攻の持つ、忘れてはならない側面にメスを入れた。特攻の死はあまりに痛ましい。従って特攻を描くとき、どうしても…

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「大きな存在」山田和夫さん

山田和夫さんが雑誌「前衛にかって執筆した珠玉の小論、「特攻を描いた日本映画の歩み」をいま、本ブログに掲載中ですが大好評です。中には再転載をしたいという地域新聞の編集長。こんどの集会で山田さん推薦の「映画」を上映しようかなどの声もあがるほどです。ところが今日の新聞で山田和夫さんが病に伏せていると知って驚いています。 ▼03年江東区で記念講演する山田和夫さん  「ここに本人を連れてきたかった」    今年で設立50周年を迎えた日本映画復興会議。5月21日に東京都港区で開催されました。これには戦後の日本映画界をけん引してきた面々がそろいました。  出席したのは映画監督の新藤兼人、山田洋次、俳優の仲代達也ら各氏。新藤、山田両監督が受賞した50周年記念復興賞は、長きにわたる日本映画会への貢献へ授与されたもので、病気で欠席した映画評論家の山田和夫さんにもこの賞が贈られました。  新藤監督は、ロシア映画研究に尽力した山田和夫さんの功績に触れ「今日会えないのが本当に残念」と語りました。妻の久米雅子さんがあいさつ。「帰ったら新藤監督の話を山田に聞かせたい。長く復興会議の活動に一生懸命だった本人を連れてきたかった」と声を詰まらせました。   山田監督は「先輩である新藤監督、山田さんとともに受賞できることを光栄に思う」とあいさつ。山田和夫さんと東京大学の映画研究会で共に活動した思い出に触れ、欠席を残念がりました。  民主的映画の発展のため力を尽くしてきた山田和夫さん。会場にいた誰…

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山田和夫描く「特攻映画」⑥

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」-特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫  もう一つの「ベストシーン」を含む特攻映画がある。「人間魚雷回天」と同じ須崎勝弥がシナリオを書き、東映任侠映画の巨匠と呼ばれた中島貞夫監督の「あゝ同期の桜」(1967年)である。中島監督の他の作品から(失礼ながら)まさかこれほど鮮烈な反戦映画をつくられようとは、本当に想像が出来なかった。私はこの映画のラストシーンをめぐって、かなりの葛藤(かっとう)があったことを聞き、そのことを拙著『日本映画の現代史』(新日本出版社)などに書いた。しかし、2004年に出た中島貞夫著『遊撃の美学・映画監督中島貞夫』(ワイズ出版)を読むと、この作品に一章を割き、「ラストシーンでの会社との攻防」がくわしく語られている。伝聞による私のかっての記述は単純化していたうらみがあった。  映画は任侠映画の路線で企画され、松方弘樹、千葉真一、夏八木勲、高倉健、鶴田浩二、藤純子、佐久間良子ら、東映ヤクザ映映画おなじみのスター総出演だから、あるいはとんでもない特攻映画が出来ていたかも知れないが、結果は大きく違った。中島監督は「戦争における死は、すべて惨死であり、犬死にである」とする断固とした考えの持ち主。そして映画の原作「あゝ同期の桜」は、海軍14期予備学生の遺稿集で、第14期の生き残りたちは同僚の須崎勝弥をシナリオライターに押し、映画化の条件にした。  須崎は中島の戦争観に同意した。会社側の意図したカッコいい戦争物としての特攻映…

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山田和夫描く「特攻映画」⑤

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」ー特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫 (五) 「雲流るる果てに」と「人間魚雷回天」     戦後日本映画は、62年たった今日まで反戦平和をたゆむことなく訴え続けてきた。そのなかでとくに記憶したいのは、特攻の悲劇と向い合った作品群であった。前期「日本の悲劇」は公開こそおくらされたけれど、特攻の本質に鋭く迫り、天皇の戦争責任にまで目を向けた最初の作品だった。  その後、東大協同組合出版部は全国の戦没学生の手記をあつめて「きけわだつみのこえ」を編み、それが映画『きけわだつみの声』(1950年、監督関川秀雄)となり、続いて学徒出陣で戦場にかり出された学徒たいの手記をあつめた『雲流るる果てに』が家城巳代治監督によって映画化(1953年)され、学徒出陣によって海軍予備学生になり、特攻隊員として死んだ若者たちの遺書がドラマに再現だれた。特攻を描いた最初の劇映画作品である。  「きけわだつみの声」もそうだが、「雲流るる果てに」でも、1943年10月の徴兵猶予打ち切りで学園から出征した学徒兵たちは陸軍士官学校や海軍兵学校を出たエリート職業軍人から、露骨な差別と屈辱を受けた。「雲流るる果てに」の学徒出身兵たちもそのなかで、優先的に特攻隊に送り込まれた。彼らは複雑な矛盾をはらみつつ、死への出発日を待った。  出撃予定日が悪天候で日一日と延びる。「特攻待機」と呼ばれるこの耐えがたい日日の隊員の日常が映画の大部分を占める。「何のために死ぬの…

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山田和夫描く「特攻映画」④

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」-特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫 ▼知覧特攻平和会館の前庭  (四) 隊員の三分の一は迷っていた    たしかに昭和天皇の責任は逃れるべくもなかったが、それを口実にして敗戦のその日まで、多くの若者たちに死を制した日本軍部の犯罪的行為は、絶対に許すことは出来ない。    1945年5月下旬、陸軍航空本部は「特攻隊員の取り扱いに適性をを期すため」、陸軍特攻の知覧基地(あの石原特攻映画の舞台)で「特攻隊員の心理調査」を実施した。調査担当者は戦後社会心理学者として活躍した望月衛技師。その調査結果は、現在の隊員の三分の一は、「最初から希望してはいなかった」と率直に述べている(生田惇著『陸軍航空特別航空隊史』<ビジネス社>。そして「人生最後の重大問題について疑問を持ち、その解決に苦しむ者がある」とも書いている。特攻に「志願」したはずの多くの人びとが、出撃の時間までどれだけ苦しみ悩んだかの一端が、軍の心理調査でさえ明らかにされている。  にもかかわらず、同じ頃1945年5月20日、軍中央は世にも恐るべき特攻の威力増大策を平然と語っていた(大本営海軍第一部長より海軍省などへの要望書)。  ①特攻攻撃により爆弾を(飛行機とそして搭乗員もろとも)敵艦船の水線下に確実に命中させる方法。②特攻機突撃時、攻撃機の翼を切断し速力を急増、敵の防禦砲火と戦闘機による被害を局限し併せて撃速を増大し命中効果を大にする。③頭部V爆弾(炸裂威力増大のため…

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山田和夫描く「特攻映画」③

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」ー特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫 (三) そのとき天皇は?・・・・・・「日本の悲劇」と      「TOKKO 特攻」   「戦争と平和」の亀井文夫監督は、その前に日本映画社で中編記録映画「日本の悲劇」(1946年)をつくった。日本映画社は戦時統制によりすべてのニュース映画社を統合して誕生した国策会社。戦中は厳重な検閲のもと、大本営発表の映画版と言える「日本ニュース」を製作した。敗戦後、戦前からの進歩的な映画評論家・岩崎昶が政策局長になり、「民主化宣言」を出し、自らのプロデュース、吉見泰シナリオ、亀井文夫監督で、「日本の悲劇」を製作、「日本ニュース」の素材を活用して逆に戦争の勃発から敗戦までの真実をあばいた。そのなかに戦中「日本ニュース」が撮影した特攻隊出撃の状況が映像に記録されていた。  出撃する特攻隊員を前に、指揮官が訓示をする。手帳を取り出し、「畏きあたりより(つまり天皇より)、特攻隊にお言葉を賜った。『特攻隊はよくやった』とのこと」を伝える。この昭和天皇の言葉は、いくつかの文献に記録されている。   1944年10月25日、フイリッピンで関行男大尉らの最初の特攻隊が突入した直後及川古志郎海軍軍令部総長は天皇に特攻隊について上奏した。「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」。これが天皇の言葉である。米内光政海軍大臣の報告には「かくまでやらせなければならぬことは遺憾であるが、しかしながら、よ…

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山田和夫描く「特攻映画」②

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」ー特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫  (二) 私は特攻を「志願」した    1945年8月15日、私は岡山県倉敷海軍航空隊で水上特攻隊「震洋」の要員として敗戦を迎えた。17歳である。  前年四月、旧制中学四年終了で第14期海軍甲種飛行練習生として鳥取県美保海軍航空隊に入隊した。当時の学校教育とは社会環境のなかで、幼児から日本は神の国と教え込まれ、天皇のために命をささげることは日本人の名誉とされて成長、戦争の急迫がひしひしと感じられるようになって、ひたすら直線的に国のために少年航空兵を志願した。  入隊した海軍の生活は、今回新藤兼人監督が32歳で海軍に召集された体験を「陸に上がった軍艦」(監督・山本保博)に映画化した、あの通りの愚かなまでの野蛮な制裁と訓練の日日。それで日本の戦争と軍隊に疑問を抱く思考力さえ、当時の私たちは持ち得なかった。そして戦局が一層に悪化、少年航空兵の訓練は中止され、1944年末には特攻隊要員(「掌特攻兵」と呼ばれた)に志願せよと申し渡される「志願」とはいえ、「志願」以外に兵士にとって選択肢は事実上ない、いやそれ以外の選択肢を知らない環境にいた。「命令」におる強制と同じだ。  石原特攻映画で大西中将が「特攻は命令ですか?」と質問されたとき、「志願という名目の、命令でやるのだ」と答えるところがある。この偽瞞(ぎまん)に満ちた特攻美化映画でわずかに真実に近づいた部分、「一晩志願するかどうか、考えろ」と…

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山田和夫描く「特攻映画」①

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」ー特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫  (一) 最初の特攻突入シーンに拍手!    敗戦後半年たった1946年2月28日、戦後はじめて輸入されたアメリカ映画「春の序曲」と「キュリー夫人」が全国で公開された。配給は米占領軍が占領行政の一環として発足させた映画配給機関CMPE(セントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジ)。このCMPEは同時に本国のOWI(戦時情報局)が制作したニュース映画「ユナイテッド・ニュース」第一号を公開した。  復員後、旧制高知高校一年に転入していた私は、この「ユナイテッド・ニュース」第一号ではじめて特攻記機の突入シーンを記録実写で見た。  そのニュース映画は私たちがまったく知らなかった第二次世界大戦末期の様相をグローバルに見せた特集。そのすべてがいまでもまざまざと脳裏によみがえる。イタリアのミラノでは、反ナチ・パルチザンに捕えられたムッソリーニは愛人とともに処刑され、逆づりにされている。フイリッピンでは日本軍に虐殺された人たちの死体が掘り出される。ドイツの首都ベルリンでは、ライヒスターク(国会議事堂)の頂上に、ソ連兵が赤旗を掲げる。そして沖縄における日本軍特攻機の襲撃シーンが・・・。    それまで戦争中唯一のニュース映画(「日本ニュース」)では、1944年10月にはじまる特攻隊の出撃シーンは何度も映像にとらえられていた。しかし特攻機がどのような激しい米軍の対空砲火をくぐり抜け、その多く…

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山田和夫描く「特攻映画」序

四年前、映画評論家の山田和夫氏が雑誌・「前衛」(2007年9月)に書いた小論・「『その瞬間、彼らはまだ生きていた』-特攻を描いた日本映画の歩みー」を本ブログに全文掲載できることになった。兄を特攻で亡くし、「特攻とは何だったのか?」を終生のテーマとして問い続けてきた私。“満州っ子”の願いを、このほど山田和夫氏と「前衛」編集部がこころよくお認めいただいたからである。   ひとすじの曙光がさしてきた    21歳の若さで学徒出陣、1944(昭和19)年、フイリピンで神風特別攻撃隊の一員として逝った兄。戦後60余年を経てなお、あの特攻について「美化論」「無駄死論」が交差するなか、いずれにも組みし得ない私。これまで、この論文なかでもふれられている映画・「雲流るる果てに」を演出した家城巳代治氏の「主観的には純粋でありながら、客観的には無駄であった特攻隊の死。その矛盾をはっきりとらえられたとき、はじめてかなしさが無駄でなくなる」という言葉が唯一の心のよりどころだった。が、山田和夫氏の本論に接することによって、いま、死んでいった彼らの行為にひとすじの曙光が射してきた気がしてならない。  なお、本論は長文(73~83頁)なので7回にわたってシリーズでお送りし、6月中に完了する予定。文中の挿入写真は私が選ぶことをお許しいただきたい。                      <目次> ①最初の特攻突入シーンに拍手! ②私は特攻を「志願」した ③そのとき天皇は?・・・・・・「日本の…

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