今 ようやく語れる 引き揚げ女性の悲劇

 戦後、旧満洲(中国東北部)の収容所や日本に帰国する際に起きた悲劇を記録した「語らなかった女たち=引揚者・70年の歩み」をフリーライターの鈴木政子さん(83)=神奈川県藤沢市=が出版した。(東京新聞・2月13日付)  旧満州に侵入したソ連軍兵士に乱暴され、陵辱された身を恥じての引き揚げ船からの投身自殺・・・。長年にわたり調査を続け、戦争が引き起こす狭軌6と悲劇を描きだした。(布施谷航)   隠したい でも知ってもらいたい    (中略)執筆に当たり中国に4回、足を運んだ。堕胎の実態を知る九州の病院関係者にも取材した。自ら訪ねてきて体験を語った人。手元にある資料を全て託してくれた元団員もいた。記録に残さなければとの願いは自身だけのものではなかった。  「『どうしても書きたいんだけど』とお願いしたら、『いいよ』と言ってくれました」。ゆう子さんのモデルになった女性は出版を快諾した直後の2009年に亡くなった。「語らなかった女たち」という書名には「今ようやく語ることができた」との意味を込めた。  「『隠したい、でも知ってもらいたい』。そんな思いだったのではないでしょうか」。鈴木さんはそう推し量っている。  本は「本の泉社」刊で、四六版154㌻、1300円(税抜き)

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「新京・長春の記憶」 永井瑞江

 日本長春会が発行(2009年)した「新京・長春の記憶」(子や孫に伝えよう 戦争の悲惨さを)という文集が手元にある。全365頁になる大記録文集で、中に旧知の永井瑞江さんの「近代史から消えそうな『満州』」と題した一文を紹介しよう。     近代史から消えそうな「満洲」 永井瑞江    毎年8月になると日本のメデイアは、終戦記念特集として第二次世界大戦の罪悪と悲劇をドキュメントやドラマで再現して戦争を知らない世代の人々に伝えます。ところがどうしてか平成20(2008)年もまた、満洲の悲劇を伝える局はありませんでした。マスコミはもう「満洲」のことなど忘れているようです。念のため、最近のある歴史書の「年表」を見ると、第二次大戦最期の記述はたった3行で、「原爆投下・ソ連参戦・終戦の詔勅」とあるのみ。若い人が満洲を知らないのも無理はない。  これでは、終戦時170万「関東軍兵士60万人を含む)の日本人が13年間生活した満州という国は、まるで「終戦」はなかったー。8月末になっても敗戦を知らずにソ連軍と激しい交戦を続けて無駄な戦死者を出した舞台が幾つもある。東満。北満・西満の日本人は開拓団員も一般日本人も、何故逃げるのかどこに逃げるのかも分からずに、当てもないのに逃げ出して避難途中や収容所で数知れず死にましたが、葬ってもらうこともできませんでした。  日頃から五族協和し仲良く暮らしていればあの時逃げ出したりしないで暮らし続けることもできたでしょうに、挨拶の言葉さえ中国語を覚えようとしないで日…

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満蒙開拓の体験 戦争を語り継ぐ

 BS-TBSのサタデードキュメントは、20日(前10・0)、「あなたのいない村~満蒙開拓団を語り継ぐ」をほうそうします。(しんぶん「赤旗」1月13にち付「テレビ・ラジオ」)  3年前、79歳で他界した野中章さんは9歳のとき、満蒙開拓団として一家9人で満洲(現中国東北部)に渡りました。晩年は語り部として、過酷な戦争体験を伝えてきました。昨年3月、その体験が朗読劇として上演。公募で集まった村の小中学生16人が3カ月の稽古を重ねて演じました。  企画と運営に携わった長野県阿智村職員の大石真紀子さんは、当時の行政資料をひも解き、開拓団送出の真実を追いました。阿智郷開拓団が満洲へ渡ったのは1945年5月。なぜ、戦況悪化の時期に村は村民を送り出したのか。  脚本を担当した劇作家の胡桃澤伸さんは、満蒙開拓平和記念館が記録していた証言映像をもとに、逃避行や収容所生活とは別の体験に着目。劇のタイトル「タンポポの花」に込めた思いを語ります。  戦争の記憶が風化していく中、戦争を知らない世代は、満蒙開拓をどう受け止め、伝えていけばいいのか、考えます。 信越放送制作

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講演 満洲の終焉の真相 永井瑞江

 長野県上田市に住んていた旧知の永井瑞江さん。彼女が2011年11月10日、「長春会」で講演しました。その要旨が会報「長春」(NO.49)に掲載されていましたので、ここにその要旨を転載します。題して「満洲の終焉の真相」。  皆さんは、若い人から次のような質問をされたことはありませんか?「満洲ってどこのこと?」「開拓団の話はドラマで見たから知っている。えっ開拓団でもない日本人もいたのですか?」という質問。   「満洲のことは中学でも高校でも教わらなかった」「高校の日本史は選択だから昭和初期は勉強していないの」「私、日本史苦手で・・・」という人が教員になっています。中学の歴史教科書の年表の1945年には「日ソ戦」も「満州国消滅」も書いていない。「ポツダム宣言受諾ー敗戦」としか書いていないのだから自習のしようもない。学校で教えないのだから、今や多くの日本人が、第二次大戦で日本はどこの国と戦ったのか、どこの国に負けたのか尻ません。満洲にいた人の中にもソ連に負けたが中国には負けていないと思っている人が居るようです。  民間の歴史教育研究会にでも入って自ら勉強する教師でなければ子どもたちにまんしゅうの話などしてやれません。まして1945年8月9日から始まった満洲の悲劇・・・・・・難民たちの悲惨な最期など誰にも伝わっていない。「うちのお祖父さん満洲にいたけど嫌な思い出ばかりらしくて全然話してくれない」という人もいます。  実は昨年12月4日、ラジオ深夜放送「明日への言葉」で私の本を取り上…

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今語り継ぎたい歴史の真実 満洲からの引揚者 上原譲さん

 江東区にお住まいの上原譲さん(77)は戦前日本が中国東北部に打ち立てた傀儡(かいらい)政権の国、満洲で生まれ育ち、戦後家族とともに引き揚げてきました。最近までそのことを公の場で語ってきませんでしたが、歴史の真実が歪められようとしている今、実際にあったことを伝えていかなければと語り始めました。 ▼上原 譲さん        生き残れたのはただの偶然        加害者だった事実を伝えたい    私たち家族6人は全員生き残って帰ってきました。今まで引揚者であることを語らなかったのは、家族を失い、残留孤児になった人がいる中で、後ろめたい気持ちがあったからです。当時、新京(今の長春)に20万人とも30万人とも言われる日本人がいて、戦後はチフスに罹ったり、現地人からの掠奪にあったりしていました。私たちが生き残って帰れたのは、ただの偶然が重なっただけなのです。  新天地を求めて   父が満洲に単身渡ったのが1930(昭和5)年前後。にほんでは祖父の代から始めた印刷業を手伝っていましたが、次男だったので新天地に希望を求めたのです。現地の日系印刷会社に勤め、1940年代最初に独立し、実兄の家族も呼び寄せていました。私たちが住んでいた新京は、関東軍や南満洲鉄道など国策に従った人々が多く住み、レンガ作りの共同住宅には電気、ガス、水道なども通っていました。  父は夜遅くにマーチョと呼ばれる賃馬車に乗って帰ってきました。取引先の接待だったのだと思います。冬期には子どもたち4人は毛皮のコート、毛…

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柳条湖事件86年で式典 中国

 日本の中国侵略の発端となった1931年の柳条湖事件から86年を迎えた18日、中国遼寧省瀋陽市の事件現場近くの「九・一八歴史博物館」で記念式典が行われました。(9・19 しんぶん「赤旗」-小林拓也記者)      市民が犠牲者を追悼   市民や学生ら1000人が参加しました。午前9時18分に瀋陽市内に警報が鳴り響き、市民が侵略の犠牲者に黙とうしました。中国メデイアによると、黒竜工省や吉林省、山東省など中国各地で記念行事が行われました。  18日付の中国人民解放軍の機関紙・解放軍報は論評で、二本の歴史教科書問題や南京大虐殺の否定などを挙げ、「日本の一部の生j組織や政治家は歴史問題でたびたび『記憶喪失症』になる」と批判。「日本の右翼勢力の国際的正義から外れたやり方に対し、警戒せざるを得ない」と警告しました。 【追記】当時、長兄(一男)は奉天(現瀋陽)中学に在学中、爆発音を聞いたという。僕は吉林省公主嶺に在住の母の胎内にいた。翌1932年4月6日生まれる。

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9・18 満州っ子は忘れない

 今日、9月18日(チュー・イ・パー)は1931(昭和6)年、柳条湖爆発の謀略により、日本が中国東北部(旧満州)侵略を始めた最初の日。その翌年4月にあの地で生まれた僕にとっては忘れられない日になっている。そして中国人にとっては「怨嗟」の日だろう。 ▼新京第一中学校の正門  「謝罪と鎮魂、そして望郷の旅」夢見たが     1945(昭和20)年8月、終戦(敗戦)。同時にあの傀儡かいらい)満洲国は崩壊した。そのとき、僕は新京第一中学校の1年生(13歳)だった。事変の翌年、昭和7年に生まれた僕。敗戦の日まで13年間、そこはいわば我が故郷。あれから85年たった。ここにきて望郷の念つのらすとともに、中国に対する一人の日本人として自責の念がよみがえる。 【つづく】http://38300902.at.webry.info/201409/article_21.html

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中国残留孤児問題フオーラム 第3弾

 昨17日、日中友好協会江戸川支部の平沢知千恵子さんから表記のチラシを頂いた。今年4月上旬の清明節にハルビン・731部隊跡地の陳列館で行われた犠牲者への供養及び中国人養父母との交流会の報告会のお知らせです。    報告会 旧「満州」への謝礼と巡礼 ■日 時:2017年9月17日(日)       13:00~16:30         (写真展は11:00) ■会 場:江戸東京博物館       JR総武線、都営地下鉄ともに        両国駅下車徒歩2分 ■入場料:500円      プログラム *歌:松花江、二つの祖国 *トーク:中国養父母と対面して *講演:加害と和解の足跡を尋ねて      今井雅巳(岐阜大学講師・平和学) *写真展:731部隊の真相        (写真パネル40枚)  <お問い合わせ>   中島幼八 090-9146-8008  

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戦後72年目に思う 8月15日

 終戦の日、いや敗戦の日。今年もあの暑い夏、8月15日がやって来た。あの日の夜は平壌(現・北朝鮮)の駅構内にいた。満洲からの避難行の途中だった。外からは「マンセイ!マンセイ!」の声がうねりのようになって迫ってくる。72年たっても忘れられない叫びだ。  今年傘寿+5。ブログを書き始めてかれこれ10年。「満洲っ子 平和をうたう」の冒頭に書いた思いは今でも変わらない。毎日、毎日、あの戦争は、特攻隊で死んでいったのは何だったのかを考える。そして今生き残ったものの出来ることは何か自問する。  そう、やはり9条を守ることに尽きるのでは・・・。毎日毎日、いろいろな事実を追い確かめながら、繋げていくことだろう。このごろブログで発信すると少なくない返信がかえってくる。幼少期、満洲でともにした友人のお子さんやお孫さんからのルーツをたずねるメールが多くなった。それぞれが心揺さぶられるドラマのような事実がよみがえり、交流が始まってくる。  近い将来、戦争体験者がほとんどいなくなる。お子さんやお孫さんたちにあの戦争をしっかり伝えること、そしてその人たちがまた次の世代に伝えることを念じたい。

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満洲引き揚げ ちばてつやさんら体験談

 漫画「あしたのジョー」のちばてつやさん(78)と、「丸出だめ夫」の森田幸次さん(78)の漫画家二人が五日、新宿区西新宿2の平和祈念展示資料館で、旧満洲(中国東北部)からの引き揚げ体験を語った。(東京新聞6日付)      「これが漫画家の原点」   ちばさんら11人が引き揚げ」体験を描き、同館で開かれている「漫画でたどる引き揚げ展」(9月24日まで)の関連イベント、終戦時ともに6歳だった二人は、奉天(現・瀋陽)で終戦を迎えた。  ちばさんは終戦の日、父の勤務先の印刷工場で、集められた大人たちが涕を流して玉音放送を聞くのを見た。引き揚げの途中、父の同僚だった中国人にかくまってもらい、屋根裏部屋でのつらい生活に耐える幼い弟たちのため、童話集を基に紙芝居を手作りした。ちばさんは「これが漫画家の原点」と降る返った。  当時、引き揚げ船で幼なじみが亡くなった時のことは「遺体は船尾から海に流した。船は遺体の周りを三度回って名残を惜しむんです」と説明した。  森田さんは、すし詰めの列車から眺めた光景を「満洲の夕日がきれいだったことは強烈に覚えている」と話した。二人ともしばらくは、引き揚げ者であることを打ち明けられなかった。戦後の食料難に追い打ちをかけるとして疎まれる風潮があったためで、「ずっと後ろめたさがあった」(森田さん)という。  最後に、ちばさんは「今年は終戦から72年。このままいつまでも戦後が続くことを祈っています」と話した。(森本智之)

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「告白~満蒙開拓団の女たち」

 戦後72年、初めてテレビカメラの前で明かされた証言に胸を突かれました。NHKで5日放送のETV特集「告白~満蒙開拓団の女たち」(しんぶん「赤旗」8月8日付-「潮流」) ▼戦中、岐阜県の山間地から満洲(中国東北部)に入植した650人の黒川開拓団の話でした。敗戦で現地住民から逃れるためにソ連軍を頼りました。引き換えになったのは15人の若い女性。「接待所」が造られ、性の相手にされたのです▼3人の当事者が番組で証言します。共通するのは「生きて帰らにゃ」「そのために犠牲になっても」。70年余の間、秘めていた悲しさ、苦しさがにじみます。亡くなった女性は録音テープを残していました。「私のたどった道は歩ませたくない」▼制作者はこの声を視聴者に届けたかった。しかし、NHKの一部の管理職は苦々しく思ったのか、番組を封じ込めようとする動きを見せました。そこで思い出すのが、16年前のETV番組改変事件です▼日本軍慰安婦を取り上げたところ、安倍晋三官房長官(当時)の圧力で、加害兵士らの証言がカットされました。市民が裁判に訴えて、「政治家の意向を忖度して番組が作り変えられた」とする判決が出ました。今もNHKの忖度の体質が残っているとしたら問題です▼安倍政権が強行した戦争法のもとで、日本がいつか来た道へ踏み出そうとするのではないか。終戦の日の15日にかけて放送される、戦争の実相を伝える特集番組がつづきます。いいものには視聴者としてのひとことをNHKへ。「忖度」を吹き飛ばす力になるはずです。 ■しんぶん「赤旗」9日付ー…

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「大連」が京都と鎌倉つなぐ 「心の旅路」

 共謀罪が国会で強行採決された日のしんぶん「赤旗」。政党機関紙であり緊迫した時だけに怒りの言葉一色なのかと思われたが「読者の広場」のある投稿を見て驚いた。これは単なる親孝行の話だけではない、そこでは戦中戦後の喜びと悲しみも蘇ったに違いない。奥深い再会だったのだろうと思うと、一服の清涼剤になった。 ▼上野駅を模した戦中の大連駅     戦時中の友達 再会かなった       京都・城陽市 澤江恵美子(92)    このたび、戦時中満洲(現・中国東北部)の大連の小学校で、6年間クラスを共にした友に会うことができました。  この世の思い出にもう一度会いたいとの便りはしきりでしたが、でも京都と鎌倉ではとても無理と、あきらめておりました。が、友の便りを娘にみせましたら「同伴するから行けば」と言ってくれました。早速立案と旅行の手配一切をしてくれまして、夢の再会が実現。友は鎌倉の有料施設で待っていてくれました。  数十年ぶりの再会に感激、手をとりあって言葉もありませんでした。

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友あり 江戸川から 「郵パック」 来る

 IT通信が最盛期。だが、僕ら昭和一桁世代のものにとっては、「便りのないのがいい便り」が日常茶飯事の通信事情。昨日、ここ数年来疎遠だった日中友好協会江戸川支部の平沢知恵子さんから郵パックが届き思わず感喜。  開いて目に飛び込んできたのが「星火方正」(せいかほうまさ)という小冊子。それに添えて便りが・・・。  前略 ご無沙汰しております。お変わりございませんか。ブログ”満洲っ子”を見させていただいてます。この頃、満洲が語り部がようやく語って下さるようになりましたがあまりにも遅すぎていると感じとれます。  日中友好の御徒町にあるNPOの”中国帰国者・日中友好の会”では、6月22日~28日の予定でハルビン・北京に100名で訪問します。私はサポーターで出かけます。  方正県(中国・東北部)の墓参、北京大学での交流会などでNPOの楽団とともに演奏会に出ます。初めての参加なので、見学して来たいと思っております。TVでもニュースが流れるかもしれません。帰国しうたら又、報告します。平沢知恵子) 【注】写真は中国雲南省の古樂器「ひょうたん笛」を奏でる名手・平沢千恵子さん。下は「方正友好交流の会」の会報21号。70頁に及ぶ大冊。旧満洲東北部の方正県にまつわる人々、事柄を日中友好の観点から編集されている会報。本ブログではその内容を順次取り上げていきます。  【星火方正・目次】 ◆徐士蘭さんのウソと真実  -孤児には重すぎる二つの十字架 ◆難民を呑みこんだ河ー方正への逃避行 ◆私にとっ…

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「共謀罪」法案と戦争体験者 鎌田保さん

 10日、「共謀罪」法案の廃棄を求めて行われた集会で「全商連」副会長の鎌田保さんがマイクを握りました。1931年生まれの85歳。「戦争体験者として生きている限り、平和を守る決意です」と訴えたスピーチ(要旨)を紹介します。(「赤旗」5月11日付)           生きている限り平和を守る   私たち国民は、かつて国にだまされ戦争に駆り立てられました。国民を戦争へと動員するには反対する声を封じる必要があります。それが戦前の治安維持法でした。これを繰り返そうとしているのが安倍政権です。  そして、憲法に自衛隊を書き込むということを口にするのと同時に「共謀罪」法案を提案しています。戦争する国づくりの一環であることは明らかです。  1944年4月、私は高等小学校1年生で、家族7人と満洲へ渡りました。関東軍100万と、神風が守ってくれると信じ込んでいました。1945年8月15日に敗戦を迎えた翌日、難民となった地元の人たちに襲撃され避難民となりました。ソ連兵の暴虐、掠奪、暴行は、当時14歳の私の目に焼きついています。  母乳の出ない母がひねた粟(あわ)を口でかみ、だ液とともに飲ませていた妹は栄養失調で死にました。そして荒野に葬ってきました。この命を思うと戦争はいやだと思います。  1946年の6月、引き揚げ船のなかで聞いたポツダム宣言。そして永久に戦争をしない、武力を持たないという日本国憲法の文言は、決して忘れられない”命”です。  戦後最悪の安倍政権を、一日も早く国勢の場から追放…

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映画・「ソ満国境15歳の夏」と新京1中生

 あの年の夏、僕も満洲・新京第1中学の1年生(13歳)だった。4月に入学して驚いたのは、広大な敷地に超豪華な佇まいの校舎。それに4・5年生が不在であったこと。ところが5月半ばになると3年生がほとんど見当たらなくなった。噂では、勤労奉仕で北満の東寧というところに行っていると聞かされていた。      対ソ戦にそなえて少年も動員   戦後まもなく開かれた新京第1中学校の同窓会(第一陣会)で当時の3年生から「東寧」での過酷な勤労奉仕の様子を聞かされ驚いた。米作のための田んぼ作りといいながら、対ソ戦にそなえての「戦車壕」堀だったこと、そして8月、ソ連参戦による牡丹江→新京への逃避行のすさまじさを知らされて衝撃を受けたことがある。  昨年、このことが体験者田原和夫さんの手記をもとに、松島哲也監督、夏八木 勲さん(これが遺作)らの出演により映画化、各地で上映会がもたれ好評を博しているという。この12月15日付の「日中友好新聞」一面のコラム「南船北馬」が、これらの流れを次のように書いている。紹介しよう。    田原和夫氏原作『ソ満国境15歳の夏』が映画化、今各地で上映会が静かに進行中である。関東軍の命令一下、東寧の報国農場に動員された新京1中3年生126人の宿営地はソ連との国境わずか1㌔。軍の約束とは裏腹の過酷な待遇▼ソ連参戦。軍からも農場関係者からも見捨てられ、飢えと渇きにさいなまれながら牡丹江への徒歩行200㌔。結束して新京をめざす▼原作も映画も人びとの記憶に永遠にのこるであろ…

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「流れる星は生きている」 藤原ていさん死去

 満洲(現中国東北部)からの過酷な引き揚げ体験をつづった「流れる星は生きている」で知られる作家の藤原ていさんが15日、老衰のため死去した。98歳。長野県出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は長男正広さん。(東京新聞11月19日付)  諏訪高女卒。教育者を志したが、父親に学校を中退させられ断念。1939(昭和14)年、中央気象台(現気象庁9勤務だった作家の新田次郎と結婚した。  43年、夫の赴任に伴って満州国の首都、新京へ。45年8月、ソ連参戦の報を聞き現在の北朝鮮側へ逃げた。終戦時の混乱で夫と離れ離れになり、3人の幼い子どもと生き延びるために苦労を重ね、最後ははだしで北緯38度線を突破。一年余りかけて帰国した。    病床で子どもたちへの遺書のつもりでこの引き揚げの体験を記した49年の「流れる星は生きている」がベストセラーとなり、映画かもされた。  他の著書に「わが夫 新田次郎」「絆」「旅路」など。講演活動やエッセーなども精力的に手掛けた。約2年前に肺炎にかかり、入院生活を続けていた。数学者でエッセイストの藤原正彦さんは長男。

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満洲引き揚げ者と 両陛下、長野で懇談

 私的な旅行で長野県に滞在している天皇、皇后両陛下は17日午前、阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪問された。同記念館は、終戦直前の旧ソ連参戦と、その後の混乱で多くの犠牲者を出した満蒙開拓団の悲劇を次世代へ伝えようと地元日中友好協会が発案し、2013年4月に開館した。(東京新聞11月17日付ー夕刊)  宮内庁によると、両陛下は以前から訪問を希望していたといい、開拓や逃避行の様子などを紹介する展示に見入った。見学後は、旧満州からの引き揚げ者3人と懇談した。うち2人は語り部として活動している。  両陛下は予定を超えて30分近く真剣な表情で耳を傾け、天皇陛下は「こういう歴史があったことを経験のない人にしっかり伝えることは、とても大事なことだと思います」と、ねぎらいの言葉をかけていた。皇后さまは「記憶を皆さんに伝えてくださってありがとうございます」と、ねぎらいの言葉をかけていた。  長野県や記念館によると、満蒙開拓団の入植者は約27万人。このうち長野県は全国で最多の約3万3千人を送り出し、約1万5千人が亡くなったほか、多くの残留孤児が出た。 【追記】東京新聞11月18日付ー「筆洗」

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「70年を超えて」 出版記念会 村越愛策

 10月25日に開かれた今年の「満州・公主嶺会」。日本各地から28人の同窓生が集まった。その中で36回生の村越愛策さんから1枚の小さなお知らせチラシをいただいた。村越さんが引き揚げ後これまでに書き続けてきたエッセイの集大成を出版される案内だ。  旧満州公主嶺(現中国東北部)生まれ、14歳で敗戦。翌1946(昭和21)年に引き揚げたので「70年を超えて」となります。「随筆 原宿通信」の中から選定されて、今月末に単行本となる予定です。  本書は自叙伝ですから定価がありません。そこで下記の出版記念会(立食パーティー)会場にて、御寄付をいただければ嬉しいです。よろしくお願い申し上げます。 日 時:11月23日(祝) 午後4時~6時 場 所:南国酒場・迎賓館 JR原宿駅前      ℡03-3400-0031(代表) 会 費:5000円(諸経費含む)   <連絡先>03-3406-1747

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「君知るや満洲という国のあったこと」-平和の俳句

 東京新聞が昨年の1月1日から朝刊の一面に掲載している「平和の俳句」。この10月14日付の一句を見て時がたてば、「やっぱりそうか」と嘆息のあまり釘づけになった1句があった。それが表題にある「君知るや・・・」である。満洲生まれの満洲育ちにとってはその風化に天を仰いだ。    君知るや満洲という国のあったこと  石川県津幡市の90歳になる平村欽一さんが書いたもの。多分あのころ満洲の何処かに住んでおられたか、あるいは、軍人として駐在していてあの地を忘れられない記憶を引きずってきたのか。かくいう私も母が17歳で渡満した石川県金沢市の出身だったから何か因縁浅からぬものを感じている。    このシリーズの選者の金子兜太さん(97)、いとうせいこう(55)さんの「評」は・・・ ◆いとうせいこう=確かに若い人の多くがもう詳しく教えられていないのかも、と気付く。 ◆金子兜太=日本が無理に作った国。暗い「15年戦争」のはじまりでした。 ◆私(永井至正)=1932(昭和7)年、南満州の公主嶺に生まれ、三兄は未だそこの日本人墓地に眠る。、言ってみれば「満州」は僕にとって謝罪、鎮魂、望郷の地である。

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中国残留孤児問題シンポ 東京・墨田区で

 「『敵国のこどもをそだてた中国人養父母』に感謝」をテーマに、中国残留孤児問題を考えるシンポジウムが2日、東京都内で開かれ、約400人が参加しました。(しんぶん「赤旗」10月2日付ー社会面)      ”二度と戦争しない”400人参加     主催は一般社団法人日中協会、NPO法人中国帰国者・日中友好の会などが後援する中国残留孤児問題フォーラム実行委員会。  第2次大戦敗戦の混乱のなか、中国に取り残された日本人孤児は中国側発表で4000人。厚生労働省の統計では2818にんです。  元孤児で中国帰国者・日中友好の会の池田澄江理事長は「私たちの人生は戦争によって翻弄されました。養父母がいなければ今の私たちは戦争に反対し、日中友好、世界の平和を望みます」と訴えました。  『この生あるは』の著者の中島幼八さんは、中国人養父母が困難や中国社会の誤解のなかで孤児を育てたことについて「大きな広い心で、憎しみを超えて敵国の子どもを育ててくれた中国人養父母を歴史の舞台に押し上げたい」と、感謝を表す碑の建立を提起しました。  帰国者二世の大久保明男・首都大学東京教授の司会で、白西紳一郎(日中協会理事長)、寺沢秀文(満蒙開拓平和記念館専務理事)、羽田澄子(映画作家)、安原幸彦(中国「残留孤児」国家賠償訴訟弁護団幹事長)の4氏が討論。日本の加害の歴史を知り、戦争放棄した憲法を守る重要性などを語りました。  ドラマ「大地の子に出演した俳優の仲代達也さんがメッセージをよせました。   

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ソ満国境から 旧制中学生 必死の逃避行

「国からも、軍隊からも捨てられた」。11日、長野県飯田市で開かれた「2016ミニ戦争展『平和を考えるつどい』」で、第2次世界大戦末期に、旧ソ連と「満州」(現中国東北部)国境に送られた旧制中学の少年たちが味わった苦難、英和への思いを、倉科武夫さん(85)が証言しました。(しんぶん「赤旗」8・4付) ▼映画化された「体験談」        国からも軍からも捨てられた          ー戦争体験者が証言ー  1949年5月下旬、倉科さんたち120人に国境地帯の農場への勤労動員が命じられ、前線での生活が始まりました。ソ連軍参戦の8月9日未明、突然の爆発音に目を覚ますと、関東軍が応戦する気配もなく、守備隊の大半が既に南下していたことが分かったのは、後のことでした。  必死の逃避行が始まり、徒歩での山越え、ソ連軍の機銃掃射・・・。「山道には、女性や子ども、老人が点々と座り込んでいました。私も学用品を全部捨てました。保護を求めた警察署は、もぬけの殻で、『捨てられた』とおもいました」  逃避行の末、捕虜収容所を転々とさせられました。脱走を試みた報復の処刑寸前で一命を取りとめたことなど、、筆舌に尽くし難い体験を語りました。  戦後、教員となり、文部省(当時)の欧州派遣団長野県団に参加したときに出会った、アウシュビッツ強制収容所について学ぶドイツの高校生のことにふれた倉科さんは「ドイツは過去の”恥2を子どもたちにしっかり見つめさせる。日本も過去の行為を子どもたちに見つめさせることが大事…

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映画・「望郷の鐘」 江東区で上映

満蒙開拓団の落日を描いた今評判の映画「望郷の鐘」が近じか江東区でも上映の運びとなったようです。現代ぷろだくしょんが主催。来る9月16日と10月2日の両日、いずれも江東区西大島の総合区民センターレクホールで上映されます。    「望郷の鐘」上映会 江東区 ●日 時:・9月16日(水)午前9:45       ・10月2日(金)午後14:00 ●場 所:江東区西大島総合区民センター  <お問い合わせ>現代ぷろだくしょん              電話03-5332-3991 【解説】映画の冒頭で「国家が総力を挙げて作り上げる大きな嘘は、いつの時代でも見破ることは容易ではない」という字幕が映し出されます。  映画『山本慈昭「望郷の鐘」満蒙開拓団の落日』は、昭和20年5月に満蒙開拓団の教師として満洲に渡り、8月9日のソ連参戦の中で妻子を失い、自らもシベリア抑留を経て帰国し、中国(旧満州)に残された残留孤児、残留婦人救出に、生涯をかけた故山本慈昭師(長岳寺住職)の真実の物語です。  国策によって、27万人以上の人々が満洲に開拓移民等として渡り、敗戦によって死の逃避行といわれるような、人間としての極限状況の中で多くの人々が犠牲になりました。  戦後70年戦争への記憶が薄れてしまっている今こそ、普通の国民が、戦争の被害者であり、加害者になってしまった満蒙開拓の現実をこの映画を通して知っていただきたいと思います。主役(右写真)の内藤剛志さんや子どもたちの熱演で素晴ら…

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「天地内有了新満洲」 歌った

しんぶん「赤旗」日曜版の読者のページに「詩」の投稿欄がある。8月9日付に「歌」という題で載せられた短詩に目がいって驚かされた。それは筆者が幼少のころ旧満州にいて意味もしらず歌った歌が満洲国の国歌だったという。そのことに慙愧の思いを抱いたという意味が込められていた。 ▼13年8ヵ月だけあの地にひらめいた満州国旗     歌      高知県 冬芽 みち テンチーネイヨウラシンマンチョウ 母にねだって覚えた「中国語の歌」 得意になって歌った 針仕事」の母が夜ごと語った 冬には川がみしみしと凍ったよ 兄ちゃんはスケートの選手だったよ 春には柳絮が美しい街並を 綿雪のようにふわふわ飛んだよ あとは決まって引き揚げの難儀話 柳美里さんの本の中に あの歌を見つけた 「満州国歌」 大きな罪を自覚した 父母や私を許して下さい 跪いて 深く 深く詫びたい 【選者評】<柴田三吉>意味を知らず覚えた歌は、満州国の国家だった。日本がかいらい政権をつくり、植民地化した土地です。冬芽さんの驚きは大きかったことでしょう。過ちを繰り返さないことが、いちばんの謝罪ですね。歌詞を調べたら<天地内有了新満洲ー>天地の中に新満洲あり)とありました。 【追記】この詩をみて満州っ子のボクが歌えるかどうか試してみたら、なんとソラですらすらと歌えたじゃないか。軍国少年のころ覚えさせられたのは、満州国家だけではない。「教育勅語」「青少年学徒に賜ハリタル勅語」、果ては「軍人勅諭」までも。70…

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「葫蘆島大遣返」 満州日本人難民引揚の記録

このDVDは、戦争と満洲引揚の真相を描いた貴重なドキュメンタリー映画「葫蘆島大遣返」(1997年度作品)に未公開映像を加えた復刻・増補版で、2015年にDVD化(1時間42分=2800円)されたものです。「葫蘆島を記録する会」(松井 稔)が自主制作しました。     あなたは満洲を知っていますか    1945(昭和20)年、日本の敗戦時、中国・旧満州に置き去りにされ、難民化した一般邦人約160万人。そのうち約105万人が飢えと恐怖に喘ぎながら引揚港の葫蘆島(ころとう)に辿り着いた。そこで力尽き、無念にも近くの茨山に葬られた人も少なくない。  この作品はかつて引揚を体験した人たちの「葫蘆島再訪の旅」の一行と新京(現長春)~奉天(現瀋陽)~錦州~銘西~茨山~葫蘆島への道程を辿り、当時の記録写真・映像・日本・中国・米国の資料、関係者の証言をもとに引揚げの経緯と真相を検証し、その全容を明らかにした。  撮影時には当時の面影をのこしていた葫蘆島港も現在は「日本僑俘遣返之地」の石碑が立つのみである。 【制作ノート】         国弘 威雄    既に戦後生まれの方々が日本では三分の二に達しています。私たち制作スタッフは、戦争を知らない人たちに戦争とはどんなものなのか、それによって市民がどのような境遇に置かれ、どう難民化していくのか。今も世界のどこかで戦争が行われていますが、戦いたくはない市民たちが、時の権力者の犠牲になってどう死に、どう生き残っているのか。それらを振り返りなが…

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満洲・公主嶺小学校同窓誌 エピソード -2-

公主嶺陸軍病院の最後の院長を、須野先生と申し上げた。クリスチャンでとても立派なお方であった。この病院に、数人の婦人と共に私の母は週一度のご奉仕をしていた。(505頁)     陸軍病院長須野先生       長池秀子(旧姓小原・35回生)    また、先生の弟さんが父と神戸二中の同窓というよしみで、我が家にもよく遊びにみえた。須野先生が神戸一中時代、島地雷夢という倫理の先生で、クリスチヤンになられたことを私どもは知っていたが、私が仙台へ引き揚げ、母の母校尚絅(しょうけい)女学校に転向し、創立記念日に、創立者ミス・プゼルの話を聞いて非常に驚いた。旧制二高時代の島地雷夢氏は、かの民主主義の研究で有名な吉野作造と共に、ミス・プゼルのバイブルクラスの愛弟子であられた。、ということであった。まわりまわった奇しき縁を思った。  終戦の間際に、強行軍に耐えない重症兵士20数名を、公主嶺駅近くの嶺光学校(昭和17年以前は公学校といった)に陸軍病院より移し残して、急遽南下された須野院長先生のご胸中は、軍の命令とはいえ、いかばかりであられたろうか。お気持ちを察して余りある。白髪をたくわえられた、あのやさしいご風貌が、いまだに忘れられない。 【公主嶺陸軍病院】

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満洲・公主嶺小学校同窓誌 エピソード ー1-

昭和20年8月9日午前4時。けたたましいサイレンでとび起きた。半焼が響く。空襲警報だ。「ソ連機です。下へ入って下さい」と連絡がくる。そのうち爆音が聞こえ始めたが、南方へ去った。店の杉本さんは防火班に出て、店も家にも誰もいない。(504頁)   8月15日以前のこと            小久保有彩(26回生)   町には老人と女子どもしかいなかった。中学生も高学年は国境へ塹壕作りに行っていた。この日、私は用事で新京へ出かけた。帰途の列車は、南下する軍人家族で物すごく混んでいたので、1等車に乗りこんで、公主嶺でやっと下車した。  10日。新京豊楽路の家から、母や弟妹が帰る。新京の伯母たち女子ども5人が馬車で大楡樹に避難したが、、新京に戻る、と荷物をおきに寄っていった。  11日。朝鮮へ避難列車が出るから乗る人はすぐ駅に集合、と隣組から知らせがきたが、相談のうえ行かないことにした。店の前を続々と荷物を持った人が泰平橋へと向かう。夕方、列車が出ないからと戻る人もいた。早く乗った人たちは南下したが、半年ほどして帰ってきたとき、自分の家には開拓団の人たちが入居していた。南下した人たちは越冬が大変で、帰国できなかった人もいたと聞いた。 【注】小久保有彩さんは別名朝子さん。大正11年生まれ。私(37回生)から見れば大先輩のお姉さま。彼女の生家・小久保商行は公主嶺では手広く貿易、雑貨、文房具などを扱っていた有数の商社。下写真は昭和13年頃、3階に建て替えたばかりのもの。当時で建築費用は…

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満洲・公主嶺「心の砂漠に響く歌声」 叶多嘉子先生②

歌は辛いとき、悲嘆にくれたとき、はたまた戦争のような凄惨のさなかにさえ人の心を癒し、狂気を正気に立ち戻らせてくれるものです。混迷の中、叶多先生らが引くオルガンに、聞く耳をたてたソ連兵のさまがありありと見てとれる。彼らもまた、故郷の山や川に思いをはせたのかも知れない。  昭和20年11月、混乱がだいぶ落ちついてきたころ、学校が再開されました。午前中は授業をして、お昼子どもたちを旧陸軍病院の学校から町へ送り届けたあと、先生たちは学校に戻り、合唱の練習をしました。リーダーは満鉄病院の林先生と橘薫さん。  集まったのは約25人で、村越昌子、阿部節子、阿武スズエ(いずれも同窓生)、石富芳、高沢つね子(教員)さんたち。「流浪の民」「新世界の『遠き山に日は落ちて』」、フオスターの曲や「ボルガの舟唄」「ステンカ・ラージン」「松島音頭」「かやの木山」「出船」などを、林先生と橘さんは「ホフマンの舟唄」の二重唱をされました。村越さんがオルガンで難しい曲の伴奏をされ、私も弾きました。夢中で弾いて、体を悪くしたほどでした。  そして21年3月と6月、音楽会が開かれました、ソ連軍の隊員や兵士も聞きに来てくれて、大変すばらしいと誉められました。荒涼とした心の砂漠に、水が滲み透るような気持ちでした。  7月21日、公主嶺を出て、コロ島からの船中の音楽会でも歌いました。あのときの歌声は、今でも忘れられません。(「満洲公主嶺『過ぎし40年の記録』514頁」より)

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満洲・公主嶺「恐怖で漢字を忘れる」 叶多嘉子先生①

幼少期、あの公主嶺で多くの「公主嶺っ子」たちが育まれた幼稚園の叶多先生。赴任されたときはいまだ二十歳代だと思われる。その初々しさに母親とはまた違う親密感をもっていたことがよみがえる。そしてその先生が敗戦時に遭遇した恐怖の体験をリアルに語ってくれる。  昭和20年8月15日、母と妹(晴子・35回生)が四平から帰るのを待ち、馬車で行く先不明の疎開に出る予定でしたが、ラジオ放送を聞き、疎開は中止されました。これから先、どのようになるのかわからず、ほっとしながらも不安でいっぱいでした。  8月23日の朝、橋立町の家の窓から、ソ連軍兵士が並んで歩いているのを見ました。午後になると、隣の家から我が家にぞろぞろとやってきて、二重ドアの鍵を簡単にあけ、中に入ってきたのです。  入ってきたのは4人、家には母と妹と私、ペチカの周りをぐるぐる回りました。私の机の引き出しから4Bのエンピツやシャープペンシルなどをもっていきました。わたしの顎はがくがくで止まりません。  家の中に入ったソ連の兵士の背が高かったことは覚えていますが、そのあとの私は漢字をすっかり忘れてしまいました。小学生の1年か2年生くらいしか書けないのです。帰国してから、一つ一つ辞書を引いて覚えなおしたのでした。  その日変電所の方々と公会堂に避難し、足立さんのお宅でもお世話になりました。大分たって外に出たときの太陽の光に、眼がくらくらしました。 

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「満蒙開拓」の悲劇に考えた 「読者の広場」

6月4、5日、日本中国友好協会の「平和バスツアー」に参加しました。映画「望郷の鐘」観賞の一環として長野県阿智村に「満蒙開拓平和記念館」見学と、残留孤児の帰国に一生をかけられた僧侶、山本慈昭さんの「長岳寺」訪問です。(しんぶん「赤旗」6月18日付ー「読者の広場」)  記念館は2年前に建設され、木の香も芳しく、満蒙開拓団の歴史を映像や資料で詳しく説明していて、以前訪れた京都の「舞鶴引揚記念館」と同様、戦争への道筋と悲劇を考えさせられました。  日本が1931年に「満州事変」を起こし、中国東北地方を占領。そこへ日本から約27万人という農民を「開拓団」として送りこみますが、そのうち約3万3千人は長野県民だったといいます。「満州」へ行けば20町歩(約20㌶、東京ドーム4個分)の土地が持てる、と言われて・・・。  「満蒙開拓青少年義勇軍」の説明もありました。これに応募して行った私の幼友だちが何人もいました。戦争法案が審議されています。再び同じ道に踏みこむことを阻止せねば・・・。(大阪・吹田市=北野英夫・37歳)

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満州・公主嶺 「炎をみつめていた日」 三森正行先生②

満州・公主嶺「過ぎし40年の記録」のエピソード.。先生方のなかでも、敗戦時の戦後処理.に主導的立場にあった三森正行先生の第2弾。焼却しなければならない諸書類の燃える炎を「無言で見つめていた」そして「初めて体験する敗戦なので・・・」の言葉が印象的だ。  昭和20年8月15日を過ぎると、すべての機能は止まり、このあと学校はどうすればよいのか、全く途方にくれていました。新京の在満教務部からも、吉林市(省)駐在視学からも、何の指示、連絡もないままに毎日が過ぎました。  初めて体験する敗戦は、流言飛語の渦巻きの中に戦々恐々としている状態でした。ソ連軍が来て接収するのだという話もあり、次第に事態が緊迫してくることを感じました。それで山本規一校長と公主嶺に残っていた先生方で、御真影、詔書その他重要書類を処分することに決めました。    8月16日、空はからりと晴れていました。校庭の中央よりやや校舎寄りで、校歌、校印、詔書などを焼却しました。次々に炎の中に入れました。風が火勢を一段と強くし、白い煙が青空に舞い上がり、消えていく・・・・・・私たちは無言で見つめていました。  明治末期以来40年にわたるたくさんの学籍簿は、高い煙突の脇の焼却炉で、用務員さんに手伝わせて処分したと、倉垣先生から聞きました。残った黒い灰はかき集めて、植木の根本におきましたが、40年後に再訪したとき、その木は一抱えほどになり、立っていました。

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