叶わぬ 満州への「謝罪と鎮魂の旅」

 1945(昭和20)年8月、敗戦。同時にあの傀儡(かいらい)「満州国」は崩壊した。その時、僕は新京(現長春)中学の一年生だった。1932(昭和7)年、新京から70キロ南の公主嶺に生まれた。そこはいわば我が故郷。あれから74年たった。ここにきて、未だ望郷の思いをつのらすとともに、中国人に対する一人の日本人として自責の念がよみがえる。  旧制新京中学は昭和7年に創立された。「満州国」設立の年でもある。延べ建坪4180坪、鉄筋コンクリート3階立て、20教室。講堂(映写室付)、体育館、テニスコートなど完備。当時のこと神社(第一陣神社)まであった。さらに各教室にはウオーキング・クロークが設けられほどの極めて豪奢(ごうしゃ)そのものだった。  1945(昭和20)年4月に入学して、先ず驚いたのは校庭の広さ。上級生がグライダーを滑走さえていた。敷地を一周すると1.4キロ。この校庭は恐らく満洲事変前のドサクサにまぎれて、現地農民の土地を買い叩いて入手したものと思われる。  加えて公主嶺小在学中は、日の丸を背に馬車(マーチョ)のただ乗り、マクワ瓜やクワズルなどの露店でのかっぱらいなどやりたい放題だった。  敗戦の日まで、中国人を、子どもでありながら足蹴にしてきた事実に謝罪すらしていない。そして昭和17年、公主嶺満鉄病院で病に倒れた兄。未だあの地に眠る日本人墓地の参拝も果たしていない。  齢、米寿を前にして、「謝罪と鎮魂の旅」は果たせなくなった。夢見るだけになった。

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NHKドラマ 「どこにもない国」に異論

 ハルビン市方正県にある日本人公墓を通じて国境を超えた友愛精神を伝えようと活動している「方正友好交流の会」は昨年12月、会報『星火方正』(せいかほうまさ)27号を発行した。(日中友好新聞・2月15日号)  巻頭論文は、歴史学者の加藤聖文氏の「誰が満洲引揚を実現させたのか?」。加藤氏はこの中で、ポール丸山氏の原作『満洲 奇跡の脱出』が下敷きになっているNHKのテレビドラマ「どこにもない国」に触れ、日本人が満州から引き揚げた功績がひとり、丸山邦雄氏であるかのように喧伝されているが、事実は違うと指摘している。  「丸山の行動は満洲引揚実現に何の影響も与えなかった(中略)丸山が意識していたか否かは定かではないが、GHQと日本政府は満洲引揚の世論形成に丸山を<利用>したといえ」と書いている。(以下略) 【追記】昨年の春、「どこにこない国」の放映に関して、私もブログで精力的に宣伝した手前、この記事に忸怩たる思いもあるが、なによりも日中友好協会の都連会長・石子 順氏がしんぶん「赤旗」の「テレビ・ラジオ欄で次のように紹介していた。「『どこにもない国』。13年で滅亡した『満洲』で残された日本人百数十万人を日本政府は見捨てた。『満洲』から脱出してその救出を国に働きかけた男たち。引き揚げ行の苦難や悲劇の一部は捉えられてきたが、これは1946年に引き揚げが実現されるまでの実話を掘り起こした」。  この記事と推薦文の齟齬をどう解釈されるのか、真実が知りたいものだ。(永井至正)

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旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん 終

 「私の戦争体験ー開拓団、共産軍治下」の市民生活、故国への引き揚げー  1ヶ月余ソウルに滞在し、12月上旬、貨車に乗せられ釜山へ。港の倉庫で数日船待ちをして、またもやLST船に乗り、荒波狂う玄界灘を渡って九州の岸辺の緑を見たとき、やっと帰ってきた、否、帰ることができたと言葉にならない感慨が全身を貫いた。  佐世保の南風崎(はえのさき)に上陸。長崎の母方の叔父宅くで一週間ほど静養後、生まれ故郷の市川の生家に戻ったのは12月下旬で、思えば2ヶ月間の引揚行であった。  長崎で一人の叔父(母の弟)が原爆の犠牲となり、また両親が将来を最も属目していた都立三中出身の長兄(東大電気工学科在学中、仁科研に在籍)が腸結核に侵され、この年の夏この世を去っていたことを叔父の口から聞き、その夜まんじりともせず静かに泣き続けていた。今は亡き母の姿を忘れることができない。  戦争は愚行である。平和の方が良いことは決まっている。だがしかし私は言いたい。戦争と平和とどちらが人間に深い感銘と影響を与えるものなのか。答えはもちろん戦争である。そして戦争を体験した後に得た平和と、戦争を知らない平和とは、同じ言葉ではあっても異質の存在だと断言できる。さらに大事なことは、伝聞という行為を通じては戦争は絶対に理解できない代物であるということだ。  今まで受動の立場ではあっても戦争体験を筆にして語ったことは無かった。子供達にも喋ったことはない。喋っても無駄との諦念が先に立つからだ。今回、同期会の呼び掛けに対し、応じるべきか否…

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旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん ⑦

 「私の戦争体験」-開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー  ジャンクは北朝鮮の船なので、当時の南北間の国境である北緯38度線を越すことができない。朝鮮の大きな地図を拡げてみるとよく判るが、西海岸の38度線のところに、リヤス式海岸状の、様々に入りくんだ入江を有する半島がある。甕州半島というが、ここに東西に深く切れ込んだ入江があって、入江のいちばん奥にある苔灘という小漁村が我々の上陸地点であった。船旅は一週間以上かかった。安東から此処まで距離はちょうど福岡~鹿児島間に相当する。風まかせのジャンクにしてはよく走った方だろう。  上陸すると北朝鮮官憲による荷物検査を受けた。検査という名目の金品掠奪の場であった。目前で老人の首に巻いていたラッコの襟巻がむしりとられた。私は腕時計を召し上げられた。何をどうされようと唯々諾々と従うばかりだが、心の恨みは消しようがなく残る。  翌日から38度線越えの徒歩行である。長い数百人の隊列が続く。日暮れ近くなって停止し、農家の軒先や納屋、或いは物蔭に據って米を炊ぎ簡単な食事を各自思い思いに準備して仮眠する。やかんや洗い桶が思いのほ外役に立って、飯炊きの器になった。もう11月に入った頃だ。夜の冷気が身に凍みる。  国境を超えた夜、ちょっとした広場に数百人が集り、安東の軍政治、共産党の権威を笠に着て威張りかえっていた連中を引張り出し、撲る、蹴るのリンチを目撃した。殺す寸前までいったと思う。三晩野宿を重ね漸く甕州の町に入った。ここで数日、米軍の上陸用舟…

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旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん ⑥

「私の戦争体験」 開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー     ◇故国への引揚    知人宅で一夜を明かし、10月23日午前、鴨緑江の畔りの集合場所へ。まだこんなに日本人が残っていたのかと驚く程、その数約5千人、船で朝鮮西海岸沿いに南下し、北緯38度線の少し北までの船旅である。  船旅とは言っても用意されたのはエンジンのついた所謂船らしき船が唯の一隻と、あとは30余隻の戒克(ジャンク)で、ジャンクには帆があるのみ、風まかせの木船である。   エンジン船に500名が、ジャンクには百数十名が割当てられ、乗船に手間取って岸を離れたのはもう夕闇迫る頃であった。安東は河口から100キロメートル近く上流にある、夜間の川下りは危険なので、対岸の新義州寄りに碇をおろして夜明けを待つことになった。その晩共産軍の撤退が始まったのだろう。江岸の変電所が爆破され、轟音と夜目にも鮮やかな焔と煙が立ち昇る。音と光りのシンフォニーを聴く思いで、皆、じっと無言で懐かしい安東の町の終焉を眺めていた。  鴨緑絵は水量豊かな大河で、安東と新義州の川幅が約1000メートル。朝の太陽が昇ってジャンクは碇を上げ、流れに乗って川を下り始めた。懐かしい家並みが、山容がだんだん視界から消え、、河口に達し海に入る頃には、僚船の姿もまばらとなり、僅か数隻が見えるのみ。それらも次第に散り散りとなって、大海原に浮かぶたった一隻が、わが住処となる。  日に2回、船頭が米飯を炊いてくれる。副食物は各自が用意してきた手持ちの梅…

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旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん ⑤

 「私の戦争体験ー開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー  夏が過ぎ秋が来て、十月に入ると何となく情勢がおかしくなってきた。国府軍が攻めてくるらしいとの噂が飛び交い、いよいよ噂が現実のものとなって、共産党軍の奥地撤収準備が始まり、工場内の機械類、モーターなども解体して鴨緑江(おうりょっこう)上流地帯へ移動することになった。  父は技術者として機械とともに撤収軍に同行するとの条件と引換に、母と妹と私に引揚の許可が下りた。帰国の喜びは、父との別離の悲しみで帳消しになり、10月21日の夜、父はリュックサックひとつを背負い慌ただしく出発していった。”俺は何としてでも日本に帰る。お袋と妹を頼むぞ”との一言を残して。父は数ヶ月後、北朝鮮に脱出。偽名のままピョンヤン南部の鐘紡系の紡績工場で技術指導を行い、昭和24年、無事帰国した。  妹は当時2歳10ヶ月、長い徒歩での道では母が背負うことになるので、荷物としては私のリュック1ヶ、衣類や身の廻り品、手には湯沸しのやかんと台所用の真鍮の洗い桶を入れた袋を提げ、さらに父の愛蔵の朝鮮の古陶高麗青磁の花瓶に幾重にも和紙を貼ったものを水筒替りに首から下げ、着るものと言えばシャツやセーターを重ね、父の背広という珍妙な格好で、翌朝、日本人街の知人宅まで、快車と称する客席のついた三輪自転車を雇って、住み慣れた工場をあとにした。  車夫に悪心があれば、途中身ぐるみはがれて命をとられても不思議ではない混乱した状況であったが、法外な運賃を要求されただけで、無事…

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旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん④

 「私の戦争体験」-開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー  織物工場は、日本人居住区の中心部から約六キロメートルの町外れにあり、工場内に狭いながらも居室を準備するというので、社宅明け渡しの際あらかた処分済みの衣類、見廻り品の中から、さらに最小限に絞り込んで荷物をまとめ、十二月初めの或る日、郊外に引越した。日本人は父の他に三名。その中の一人はかつての父の部下で電気に明るく、私も工員の一員となって電気配線や伝導シャフト張り、機械へのベルト掛け等に忙しい毎日を送った。  父の指導下、織機は次々と組み立てられ、見事な絹紬を織り出していった。軍政によって治安はよく保たれており、身の安全をおびやかす心配はないが、どうしてもインフレ傾向は避けられない。しかし給与面ではとくだん問題は生じなかった。というのは給料が主食穀物のとうもろこしの粉の量で決められ、一ヶ月の平均市場価格を乗じて金額が決定されるしくみがうまく機能していたからだ。500グラムを斤(きん)という単位で表わすが、満人の工場長が四五〇斤、父が四三〇斤、私は一六〇斤で給与の全部を日々の食料に充てるため、多分日本内地では当時考えられない位の、米、肉魚・野菜・砂糖等を買い、その面では恵まれていたと言える。  物質的な充足は得られても、帰国のめどが皆目立たないという心の不安は消しようもなく、休日ごとい町へ出て、状況を探っていた。21年の五月ごろからだったと思うが,北廻りのコースでぼつぼつ引揚が始まった。安東から汽車に乗り、数時間で国共…

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旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん③

 「私の戦争体験」-開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー  父は満洲紡績という富士紡の国策会社の安東工場長で、遼陽にあった本社工場の染色工場長を兼ねていた。月に一回、10日位は本社へ出向いていた。敗戦当日、たまたま安東にいたことが結果として命永らえることになる。後で知ったが、本社の幹部の大半は敗戦後殺されている。敗戦後も何とか工場の操業を続けながら共産党人民政府側へ引き継ぐべく、毎日出勤し、その引継ぎも目鼻がついた頃、夜10時頃だったか、玄関を激しく叩く音と女の悲鳴が聞こえる。何事かと父と二人で玄関の戸を開けると同時に、隣の副工場長の奥サンが倒れ込むように入ってきて、その背後にソ連の将校と兵士が乱入してきた。家の中には10名近い婦女子がいる。前もっての手筈通り、浦の窓から逃すことができ、父と二人で、酒や缶詰でご機嫌を身振り手振りで取りながら対応した。若い兵士は、家中女を求めて探し廻っていたが、とうとう諦めて大下でわめきながら酒を飲み、帰りしなに将校の制止を振りきって父の靴を盗んで出て行った。毛むくじゃらの腕に、何処で盗んだか5,6個の腕時計をはめていたのが脳裏に焼きついて残っている。  工場引渡しが済み、社宅を明渡すことになり、私達一家4名は近くの知人宅の一間に移り住んだ。そんなある日、人民政府から父に召喚状が届いた。6年に亘る工場生活で従業員を虐待した覚えもなし、引継ぎも無事完了していること故、大したことはないと思うものの、無実の密告でもあったのか、面倒なことにならねばよ…

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旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん②

 「私の戦争体験」ー開拓団、共産軍治下の市民生活、故国への引き揚げー      共産党治下の市民生活の記    垢と煤煙にまいれ、身には数十匹のシラミとともに14日深夜、我が家に戻ると、母と妹は居らず、父が一人で私を向かえてくれた。”よく帰れたな、お前のことはあきらめていた。”と嬉しそうだった。妹が疫痢にかk、母が付添って入院したが峠は越したと聞き、安心して一夜を明かす。翌15日、雑音の多いラジオで日本の敗戦を知らされる。とうとう敗けたのか、この先一体どうなるんだ、いつ日本に帰れるのか、漠然とした不安を感じたことを今でも覚えている。  学校は自然廃校となり、在学証明書を受領した。旧来の行政組織が解体し、約3万人の日本人市民は、有力者を中心にtくられた日本人会の指示を受け、日常生活を続けることになった。敗戦の日の前後から、新京、奉天などを逃げ出した日本人避難民が続々とやってきて、日本人の各家庭に割当て収容される。わが家にも4家族11人が入居し、合わせて15人の大家族に膨れあがった。リュックひとつと手に持てるだけの見廻りのものしかなく、ふとんや鍋・釜・茶碗などを自由に使ってもらった。  八月の末頃だったと思うがソ連軍が入ってきた。一説によれば囚人部隊だといわれたくらい掠奪暴行眼に余るほどで、昼日中、陵辱される婦人もあり、日本人会の懇望により、町の芸者集、玄人衆が中心になり慰安施設を用意して、幾らかは沈静化したもののいつやられるか判らず、日本の女性は断髪し、男装して外出するのが常であっ…

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旧満州・安東からの脱出行 林 暢さん①

 1992年、東京都立両国高校・OB(48回生=昭和7年生まれ)らが文集を発刊。題して「私たちの戦争体験」。私のクラスメート林 暢(はやしのぶ)さんも筆をとった。あの年、旧満州安東中学3年生が苦難の逃避行を振り返る。長文なので数回にわたって連載。  最近の8年間、仕事の関係でよく中国に行く。名刺を交換すると”中国人と同じ名前ですね”とよく言われる。”そうなんですよ、もしかしたら中国人になっていたかもしれません”と答えるのが常である。  昭和14年夏から21年の10月まで、私は旧満洲の安東市(現在は丹東)に住んでいた。小学3年の2学期から、敗戦時は中学3年、翌21年10月現地を脱出し、12月に帰国、22年4月に縁あって都立3中(写真)の3年に編入できたので、大半の学友より二歳の年長で、従って還暦はとうに過ぎてしまっている。  ソ連が不法にも参戦した8月9日、私は北満の開拓団での二ヶ月間の勤労奉仕を終えて予定通り汽車に乗り、9日の朝はハルビン付近を南下中だった。ソ連参戦とともに、南へ大量の日本人避難民の流れが渦を巻き、どうやら奉天(現、瀋陽市)までは戻れたものの、安東への汽車に乗れず、漸く許可を得て貨物列車に乗り、我家に辿りついたのが8月14日の深夜であった。  運命の歯車の噛み合いがほんの僅かずれて、開拓団出発が数日遅れていたならば、命を失うか、或いは満洲孤児になっている公算が大きく、中国人になっていたかもしれないというのは決してジョークではない。  昭和17年、18年と戦火が…

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ソ連兵「性接待」被害を刻む 満洲黒川開拓団

 旧満州(中国東北部)に開拓団としてわたり現地で亡くなった女性を悼む岐阜県白川町の「乙女の碑」で18日、新たな碑文の除幕式が行われた。終戦後、団の安全の見返りに旧ソ連兵への「性接待を強いたことを明記した。(東京新聞ー11月19日付)

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30回になった「江東区高齢者集会」 回顧 ③

 第19回「江東区高齢者集会」(2007年12月2日)の前夜祭で、中国残留孤児を描いたドキュメント映画「花の夢」が上映された。江東区に在住の栗原貞子さん(81)。終戦時満洲での苦難の出来事をつづった実話に参加者は驚き、彼女の強さに感嘆の声を上げていた。これはその時の「感想文集」

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旧満州育ちの原罪意識 山田洋次

 東京新聞の夕刊が身に染みる。、映画監督の山田洋次さんのエッセイが飛び込んできて目を見張った。同じ旧満州に育ったものとして常に意識していた「原在意識」を共有できたからだ。二年先輩で大連に居住していた山田さん。南満州南部の公主嶺生まれの僕・「満洲っ子」。同じ体験が甦ってくる。(東京新聞ー11月8日夕刊)  1930年代の終わり、現在の中国東北部、旧満州育ちの8歳のぼくが初めてみた日本の印象は今も鮮明である。  大連から二日間の船旅を終えて関門海峡で夜が明けると、一望千里の広漠たる平野の満洲の風景とは全く違って、海岸からすぐに山が始まる。  その山々が鬱蒼(うっそう)たる緑に覆われていて、山腹のレールの上を汽車が煙を吐きながら家々の軒をかすめるようにして器用に走っているのにあきれ、そして港や町の通りに人がいっぱいいる光景に驚いた。  「あの人たちはみんな日本人?」  当たり前でしょう、ここは日本なのよと母親が答えたが、波止場をよく見ると大きな麻袋を背負ったり、半裸の姿で重い大八車を引いたりする人たちがいる。  「じゃあ、あの働いている人たちも日本人なの?」  決まっているじゃないの、という母親の返事が不思議でならなかった。この体験は満洲育ちの子どもたちなら誰でも身に覚えがあるはずだ。  垢(あか)で汚れた服装で重い労働をするのは中国人で、彼らを使役し、彼らの引く人力車に、傲然(ごうぜん)と背をそらせて乗っているのが日本人、というのが当時のぼくたちの常識だった。  なんという惨めな…

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「時を継ぐ」 劇団民芸公演

 東洋一とうたわれた映画撮影所、満州映画協会”満映”。戦中、日本から大陸へとわたった多くの映画人たちは、1945年8月15日の敗戦を境に過酷な運命をしいられることになる。        彼女はただ未来を信じた    「編集」という映画製作では、もっとも地味でかつ重要な仕事を担うひとりの女性技師。逆境のなかで、彼女は、技術者としての確かな腕と誇りで、自らの人生を切り拓いていくのだった・・・・・・。  日本の敗戦後も中国に残り、若き中国映画人の指導にあたった映画編集者・岸富美子さんのヒューマンストーリーをもとに、「創造」というひと筋の目的にむかって、国や民族の壁を越えて協力した人びとの姿を描く。  民芸初となる黒川陽子の期待の新作。 ■日色ともゑさん  「軍国主義の世の中で生きていくために働いたことが、結果として侵略戦争という国策に利用されたんですね。歴史的な背景をきちんと考えながら演じたい」(しんぶん「赤旗」9月21日付)

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もう一人の「満洲っ子」 DOCU

 「今日、9月18日(チュー・イー・パー)は1931年、柳条湖爆発の謀略により、日本が満洲侵略を始めた最初の日。中国東北部に住む中国人は幼稚園でも『怨みの日を忘れるな』と教えられるという日です。私も9・18を忘れないようにしたい、いろんな意味で」、こんな書き出しで始まる長文の残暑見舞いをいただきました。 【注】新らしいテーマを設けました。「MY DOCUMENT(マイドキュメント)」。ブログ設立前のWORDで作成したページの事を言います。

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波乱の昭和を生き抜いた 母

 ♪「山の淋しい湖に ひとり来たのも 悲しい心・・・」 頃は1940(昭和15)年、所は旧満州・公主嶺(現中国東北部)。おふくろが内職の手を休めずにレコードから流れる曲に合わせて口ずさみます。哀感ただよう「湖畔の宿」です。  幼子2人を抱えた今でいう「母子家庭」。大正の初め17歳のとき、写真見合い結婚で単身満州に渡った。親父はシベリア出兵に追従するなど関東軍の御用商人。放埓無頼で居住地定まらず、事実上の離婚状態。  そんな女の異国の地でひとりうたう歌は、いつもとぎれとぎれ、それも気分がハイのとき。  蓄音機のゼンマイが切れかかって「ウーン、ウーン」と鳴り出すと、「キッ」とした顔でこちらを見て、「ボヤボヤしないで巻きなさい」とせきたてます。  明治29年生まれ。存命ならば124歳。戦争で息子2人を失い、波乱の昭和を生き抜き「戦争だけはダメ」が口ぐせの、秘めた女の憂いとしたたかさが今に迫ります。

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「日本の山々が浮かび上がってくる」

 1945(昭和20)年9月2日、引き揚げ船・「興安丸」で朝鮮の釜山から山口県の仙崎港にたどり着いた永井家の親子3人。  朝もやのなか日本の山々が浮かび上がってくる風景に目を見張る。「あれが日本よ! 山があるでしょ、緑でいっぱい、満州では見られなかったものね」とのおふくろの声が忘れられない。  そして上陸の際、船のタラップを降りた所で地元の婦人会の人たちだろうか、「大日本愛国婦人会」の襷(たすき)がけで勢ぞろい。  「お帰りなさい」「坊や!大変だったね、これ食べて」。差し出されたのが、子どもの頭ほどの大きいおにぎりが一つ。  姉と二人でかぶりつくように頬(ほほ)張った。おふくろは目を細めて、お茶を口にふくみながら子どもたちを見つめるだけだった。満州で生まれ育った男の子。これが日本の地を踏んだ第一歩だった。あれから73年。存命だったら今年母は124歳。だが彼女はまだ生きている。

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シベリア抑留の体験記 片山清次さん

 旧満州(現中国東北部)で敗戦を迎え、戦後、旧ソ連軍によってシベリアで強制労働を強いられた。4年間の体験を描いた絵を冊子にまとめ、語り部として長年活動してきたが、この夏から体験記を書き始めた。(東京新聞ー「この人」)

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笑いはこの世で一番大切 赤塚不二夫

 漫画家・赤塚不二夫が私と同じ満州からの引き揚げ者だとは知っていたが、今年は没後10年になるとは月日のたつのは早い。今夏、東京・青梅市の記念館が子どもたちでにぎわってることが昨日の「しんぶん『赤旗』」のコラム「潮流」が紹介している。 【潮流】バカは一日にしてならずー。毎日の心がけと努力が必要だ。まず自分がはだかになる。世の中のいろんな常識を無視して、自分なりの純粋なものの見方、生き方を押し通す。バカは、最高にカッコいい言葉なのだ▼笑いは人を幸せにする。それを信念に、漫画を描き続けた赤塚不二夫さんが亡くなってから今月で10年がたちました。NHKがドラマ化し、東京・青梅市にある記念館は夏休みの子どもたちでにぎわっています▼おそ松くん、ひみつのアッコちゃん、天才バカボン、もーれつァ太郎・・・。多くの人びとを夢中にさせた数々のギャグ漫画は、次代をこえて今も読み継がれています▼笑いへの飢えは自身の生い立ちにもあります。1935年、旧「満洲国」と中国との境界線の町で生まれました。父親は「抗日ゲリラ」を監視する特務警察官。支配する側とされる側の人間模様を目の当たりにし、人が殺される光景を何度も目にしました▼敗戦によってシベリア送り。混乱のなかを母と子でさまよいながら、命からがら引き揚げました。6人いた姉弟は死別や生き別れで半数に。帰国してからも「満洲帰り」とよそ者扱いされ、赤貧暮らし、そのなかでたくましく育ったと自伝につづっています▼弱いものいじめや人を差別するようなことはしない。赤塚作品の底流にはどんな…

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李香蘭が逝った また満洲が遠くに!

 2014年9月7日に李香蘭が亡くなった。テレビが報じて、すぐ記憶に読みがえったのが、「何日君再来」をうたう彼女の姿だった。メモ代わりにPCに書き込み、ファイルしたのが、これ。満洲の花「迎春花(インチュウホワ)が添えられている。

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想像を絶する、引き揚げ時の母の体験

 5月13日は母の日だった。しんぶん赤旗(5月17日付)の「読者の広場」欄は母の日を思う特集を組んでいました。その中に、私にとっても身に迫る満洲からの引き揚げ体験記が寄せられています。紹介しましょう。     子を連れての 引き揚げ体験                                             終戦後旧満州(中国東北部)から引き揚げの苦労を語ろうとしなかった母は、6年前、97歳で老衰のため亡くなりました。亡くなる2年前に、引き揚げのことを便箋10枚に書き、姉に渡したのを、私はコピーしていまも大切に持っています。  父は現地で招集され、終戦後、先に日本に帰ったため、母は5人の子どもをつれて引き揚げでした。8カ月の妹は栄養失調で途中で亡くなり、7歳の兄は中国人に誘拐されそうになり母が必死で取り返したことは聞かされていました。10歳の姉は母の苦労を覚えていても、多くは語ろうとしません。当時4歳で双子の私たちは、うっすらと記憶にあるぐらいです。  引き揚げの時31歳だった母の苦労は、想像を絶するものだったと思います。もっと感謝の気持ちを言っておけばよかったと、後悔します。(さいたま市 佐藤圭伊子ー76歳)

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日清・日露戦争と満洲事変の地を歩く

 新宿の「富士国際旅行社」から旅の案内をいただいた。数々の「お知らせ」版の中で、表記のカコミに目がとまった。中国東北部への近代史勉強ツアーだ。ついでにお許しを得て、単独で生まれ育った公主嶺に行ければいいが・・・。      中国東北の旅 旅行期間:8月10日(金)~15日(水) ry工代金:¥220.000 ◇東アジアの視点から日清・日露戦争地(旅順)を訪ね「明治150年」の光と影を学びます。 ◇満州事変地(瀋陽・撫j順・長春)を巡り、日本じゃなぜ侵略戦争を進めたのかお考えます。 ◇中国人高校生と交流します! 本場の中華料理も楽しめます。 「【注】明治150年、「暦教協」が企画しただけに期待大です。

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「満蒙開拓」悲劇語る 東京で集い

 満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)は24日、開館5周年の記念イベントを東京・銀座で開催しました。寺沢秀文館長が「次の10周年に向けての新たなスタートを切る記念としたい。『田舎の片隅から世界に向けて平和を発信する、キラと光る記念館』をめざしこれからも頑張っていく」とあいさつ。(しんぶん「赤旗」4月25日付)     長野で開館5年 「国策」を告発    続けて開館までの歴史や「語り部」「旧満洲調査訪中団」などの活動を紹介しました。  このーイベントでは、寺沢館長の質問にゲストの作家・澤地久枝さんが答えました。澤地さんは幼少期に家族と旧満洲・吉林に渡り、終戦間近に、長野県の飯田下伊那地域から満洲に送り出された。「水曲柳(すいきょくりゅう)開拓団」で勤労奉仕しました。開拓団のすまいは窓のない泥の家で、18~45歳の男性は旧日本軍に招集されたため、女性や子ども、老人だけが住んでいたといいます。  1945年8月9日旧ソ連軍が旧満州に侵攻すると、旧日本軍は開拓移民を置き去りにして逃亡し、人びとは旧ソ連軍からも、土地を奪われていた地元民からも追われることになりました。逃避行の中で子どもを地元民に託したり、手にかけたりしたほか、地元民の妻になる女性もいました。「軍や当時の政府は開拓団のことなんて何も考えていなかった」  澤地さんは「自分の国で食べていけるほど豊かであれば、誰がよその国に行きますか」と憤ります。政府は貧しさを解決せずに国民を外に追い出したのだと批判しました。

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NHKドラマ「どこにもない国」を見て ⑥

 「NHK・TV特集ドラマ『どこにもない国』の放送日時を旧満州・公主嶺の同窓生150人ほどに知らせたところ、ドラマを見た感想が続々届いていて、嬉しい毎日を過ごしています」と、土屋洸子さんからのお便りです。    丸山氏たち3人のおかげ   敗戦後、棄民されていた満洲の日本人の引き揚げを、実現に導いて下さった丸山氏たち3人の方々に、心より御礼申し上げます、数々の困難、ご苦労の中、満洲を脱出し、帰国後はマッカーサー元帥に直訴し、政府を動かし、私たちを祖国に引き揚げさせる道筋を立てて下さり、誠に有難うございました。渡満40年の祖父は、中央軍と八路軍の内戦のドサクサの中、1946(昭和21)年3月28日に銃殺され、満洲の土となりました。父は昭和20年7月26日に応召され、シベリア抑留のあと復員。兄妹8人、いとこ3人、祖母、叔母たちの家族の女、子ども合計18人が、だれ一人欠けることなく、引き揚げることができたのは、丸山氏たち3人のおかげと、感謝申し上げます。(木村晃子) 【注】木村晃子さん(旧姓 高取) 82歳  公主嶺生まれ。1946(昭和21)年7月22日に公主嶺を出発し、24日錦州に着く。31日コロ島から乗船し、博多港に入港、8月7日に上陸。9日に本籍地の岡山に到着する。 【追記】この頁を見て木村晃子さんから土屋洸子さんにメール。  「『満洲っ子 平和をうたう』で私の原稿や則次美弥子さんの分をみました。私の文章を印刷して、娘たちにに読んでもらいました。パソコンで続きを見るよ…

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NHKドラマ「どこにもない国」を見て ⑤

 「NHK・TVドラマ『どこにもない国』の放送日時を旧満州・公主嶺の同窓生150人ほどに知らせたところ、ドラマを見た感想が続々届いていて、嬉しい毎日を過ごしています」と、土屋洸子さん(公主嶺会・事務局長)からのお便りです。      よく敢行されたと思う    私は1946(昭和21)年1月から10月にかけて、母方の祖父母や叔母たち親族8人を満洲・安東(現在 丹東)で失いました。終戦の混乱の中、人々の窮状を見て、民間人の丸山氏らが、よく敢行されたと思います。よほど知力、能力、胆力のあった方々なのでしょう。国の指導者は、方針を誤って、他国や自国民に迷惑をかけないように、苦しみをもたらさないように、願うばかりです。(本多啓一) 【注】本多啓一さん 祖父は、1940(昭和15)年から20年春まで公主嶺農事試験場長を勤められた満田隆一氏。1945(昭和20)年8月13日、公主嶺から南下して北朝鮮の南市着。安東に戻り、4人が病死、安東から船で脱出するが、沈没して4人が命を落とす。

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NHKのドラマ「どこにもない国」を見て ①

 3月24日、NHK特集ドラマ「どこにもない国」(前編)。73年前の終戦の日を、大連市で迎えた私の原体験をタイムスリップするような画面が続いた。(しんぶん「赤旗」-4月2日付・「みんなのアンテナ」)    戦争しない国へ 改めて決意した            長崎市 黒崎晴生(83)  終戦から祖国への引き揚げまでの出来事。引き揚げ後の困難な生活。これらはすべて、軍国主義「日本」が生み出したもの。旧「満洲(現中国東北部)に残された日本人の帰国に寄与された丸山邦雄さんの活動に感謝しながら、戦争をしない国「日本」をと、決意している。 [注]FBでアップした後篇のお知らせ

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「どこにもない国」(後編) 31日 NHK放送

 ポール・邦明・丸山原作によるテレビドラマ「どこにもない国」。今日(31日)NHKで午後9時からその後編が放映される。「150万同胞の引き揚げ実現に命を賭けて奔走する男たち!満洲で待つ妻と子との再会の日は来るか?」  旧満州(現中国東北部)から帰国した丸山(内野聖陽)らは、占領下の日本政府に権限も力もないことに憤りながら、世論を盛り上げるキャンペーンを繰り広げ、引き揚げの実現を訴える。一方、大連に残された万里子=木村佳乃)とマツ(蓮佛美沙子)は、夫の丸山、新甫(原田泰造)の消息が分からない中、必死に子供たちを守っていた。やがて、丸山のラジオ演説が大連に届き、無事を知った万里子は歓喜する。(東京新聞・3月31日ー「今日の番組から」)

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今年は 与謝野晶子生誕140年

 桜の季節が巡ってきました。月の光に浮かび上がる花の妖艶さを、歌人・与謝野晶子はこう詠みました。<清水(きよずみ)へ祇園(ぎおん)をよぎる桜月夜こよひ逢(あふ)う人みなうつくしき>(しんぶん「赤旗」3月24日付ー「潮流」) ▼今年は晶子生誕140年にあたります。師・与謝野鉄幹へのほとばしる恋の熱情を高らかに歌い上げた第一歌集『みだれ髪』は1901年、20世紀の幕開けに刊行され、文学の新時代を切り開きました。晶子22歳▼<春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ>。移ろう世の中に、この力みなぎる乳房こそが確かなものだと歌う自己肯定は、個々の人間をかけがえのない存在として尊重する姿勢につながっています▼日露戦争に召集された弟に送った反戦詩「君死にたまふことなかれ」では、国家のために人を殺し殺されるために、親は手塩にかけて子を育てたわけではないと断じます。この詩への批判に対して、(まことの心うたはぬ歌に、何のねうちが候べき)と反論しました▼家計を支えながら、鉄幹との間に5男6女を産み育てた晶子は、完全な個人を目指し、女性の自立を訴えるとともに、家庭責任をないがしろにする男性を批判しました。『青鞜』(せいとう)創刊号に寄せた詩「そぞろごと」は、<山の動く日来る>で始まり、、すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる><われは女ぞ。一人称にてのみ物書かばや>と宣言します▼<歌はどうして作る。じっと観(み)、じっと愛し、じっと抱きしめて作る。何を。真実を>晶子の言葉は、今の社会を鋭…

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「どこにもない国」 今日NHKが放送

 引き揚げ船で日本が見えた感激シーンから始まる。敗戦後、旧満州に残された日本人約105万人の引き揚げが1946年にどう実現したのかを描く。脚本・大森寿美男、演出・木村隆文による骨太な実話ドラマだ。(しんぶん「赤旗」3月24日付ー「テレビ・ラジオ欄」)

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「満洲 奇跡の脱出」 NHKがドラマ化

 日本が敗戦後、満州(現中国東北部)からの引き揚げに尽力した3人の男たちがいた事実が初めてドラマ化されました。NHK特集ドラマ「どこにもない国」(24日、31日 後9・0)で私・内野聖陽は主役の丸山邦雄を演じます。(3月10日「赤旗」-休憩室)

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