神風特別攻撃隊の戦死者数

1944(昭和19)年10月25日(フイリピン)から終戦の1945(昭和20)年8月15日(沖縄)までの神風特攻の総戦死者数は、「海軍飛行専修予備学生誌」(1993年発行、生還者たちの編集による記録誌=全550頁)によると2483人とある。        死んでいったのは少年と学生たち    内訳は、予科練などの出身者は1715人(61%)、飛行予備学生は649人(26%)、海軍兵学校は119人(0.4%)だった。将校の約8割は予備学生。年齢はなんと17歳から25歳ぐらいまでの少年、青年たちで驚くべきもの。「死んでいったのは少年と学生たち」だった。        昔も今もキャリアは特権階級  下の表は学徒出陣で1948(昭和18)年8月に志願して、土浦、三重の両海軍航空隊に入隊した(5111人)第13期海軍飛行予備学生の出身校別の戦没者数で、早稲田を筆頭に日大、六大学がづらりと並んでいる。とりわけ師範学校(当時全国で80数校あった)出身の259人が際立っている。記入していないが、九つの旧帝国大学出身者はわずか33人、うち特攻死は5人。特記したのは別に他意はないが、自身も師範出身で、歯に衣着せぬ毒舌家の先輩は「昔も今もエリート・キャリアは特権階級、他は消耗品扱いなんだな!」と驚いていた。      神風特攻隊 初攻撃から70年  10月25日の東京新聞夕刊。共同通信の配信を受けて次のように報道している。  太平洋戦争で日本軍が神風特別攻撃隊を初めて編成し、レイ…

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神風特攻の第一陣は10月25日でない

昭和の戦争史(70年前のことともなれば、太平洋戦争はもう歴史の範疇に入る)をひもとけば、あの神風特別攻撃隊の第一陣は1944(昭和19)年10月25日の関行雄大尉率いる敷島隊とされ、大本営もそう発表、軍神としてあがめられたが実情はそうでなかった。     第一陣は海兵出身でなければ    敷島隊がフイリピンのマバラカット基地を飛びたったのは10月21日。それ以来同隊は、3度出撃したが索敵不能で引き返してきた。左写真(ニュース映画で当時大々的に上映されていた)はいつの日のものか判明しないが、25日4度目の離陸寸前、基地の司令官は関大尉に「もう帰ってくるな」と言い放ったという。   海軍飛行予備学生誌によると既に24日には大和隊の久能中尉がレイテ沖に突っ込んでいたという。軍司令部は軍神の第一号はどうしても海軍兵学校出身者でなければ面目が立たないということで、発表を遅らせ、前出の「帰ってくるな」という命令になったのだという。  年功序列、キャリア優先は今の日本でも通用、軍国日本は死に行くものにも順位をつけたという恐るべき慣わしになっていたのである。 【注】「敷島の大和心を人問わば 朝日ににおう 山桜かな」といえば、知る人ぞ知る本居宣長の一首。太平洋戦争の末期、1944年10月、神風特別攻撃隊の先陣を切った4隊のネーミングに使われた短歌。敷島、大和、朝日、山桜という美名に若者たちはあおられるように死地に。なお、私の兄は12月15日、フイリピンのセブ基地を飛び立ち帰らなかった。神風特…

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コラム「雲流れる」永井至正⑤

「自爆テロもとをたどれば特攻隊」という川柳をある新聞の文芸欄で見て思わず釘づけになりました。自爆テロと特攻隊は同義語としてさげすんだのか、それとも大儀に生きる人間のルーツは「日本にあり」と賞賛したいのでしょうか。  10月になると必ずといっていいほど思い出します。昭和の戦争史を振り返ってみましょう。フイリピンはレイテ湾に日本の未来を願い、若者たちが帰りの燃料がない戦闘機に乗り、特別攻撃隊の先駆けとして突っ込んでいった日が1944(昭和19)年10月25日でした▼あれから60年。歴史でいえば還暦です。その1年前の10月21日、昭和初期の世代の人なら忘れもしない神宮外苑でも雨の学徒出陣壮行会に参列した学生たちの何人が帰ってきたでしょうか▼私の兄も神風特別攻撃隊で戦死、21歳でした。手元に彼の同期生が戦後間もなく編集した遺文・遺稿集(「雲流るる果てに」)があります。ほとんどの遺文は、母をしたい、妻をいたわり、娘や息子を励まし、故郷を懐かしみ、この国の行く末を思いやるものばかり、心にせまります。 ▼読むほどに彼らの悲哀が伝わります。彼らの多くは気負いもなく、淡々として、当時の若者としては、ほかに選択肢のない道を進んでいったのです。ごくごく普通の人間として・・・。今、憲法を「改正」する動きが加速されていますが、「平和憲法」を守ることは残された者のやることの権利と義務なのではないでしょうか。なぜならそれが彼らの真の遺言だったからです。自爆テロと特攻隊は同列に論じてはなりません。(東京新聞・…

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特攻隊員の言葉 世界に伝えたい

一昨日(2月5日付)の東京新聞朝刊が、二面に南九州市が知覧特攻平和会館に所蔵されている特攻隊員の遺書333点を、世界記憶遺産に登録、申請したことを報じている。全文を紹介しよう。 ▼知覧平和会館で特攻隊員の遺書に見入る来場者          特攻隊員の遺書         世界記憶遺産に             南九州市、ユネスコに申請  鹿児島県南九州市は4日、市立知覧特攻平和会館に収蔵する特攻隊員の遺書=写真(下掲)、知覧特効平和会館提供=など333点の世界記憶遺産登録に向け、国連教育科学文化機関(ユネスコ)本部に申請書を郵送した  平和会館は特攻隊員の遺書や写真1万4000点を収蔵。うち本人名や部隊名が書かれ、直筆と確認できた家族宛ての手紙などを申請する。会見した霜出(しもいで)勘平市長は「明日、命はないという極限の状況で隊員が残した真実の言葉を保存・継承し、世界に戦争の悲惨さを伝えたい」と話した。 【注】世界記憶遺産は世界の人々の記憶にとどめておくべき重要な文書、絵画などの保護と振興を目的にユネスコが創設。フランスの「人権宣言」やオランダの「アンネの日記」など299件が登録されている。 【追記】 ●先の大戦末期、鹿児島県の陸軍・知覧基地から若者が搭乗した数多くの特攻機が飛び立った。彼らはすぐ目の前の開聞岳・薩摩富士に手を振りながら旋回し、日本に別れを告げて逝った。 ●私が知覧の「平和記念館」に行ったのはちょうど15年前、館内には、15~2…

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兄・神島利則中尉特攻死

昭和19年12月15日は兄・神島利則中尉が特攻死した日だ。この日神風特別攻撃隊・第7金剛隊の一員としてフイリピン・ネグロス島近辺で突っ込んでいった。21歳だった。彼の郷里は当時日本の植民地であった満洲・公種嶺市。母神島トミが利則戦死の通知を受けたのは23日のことだっった。  公主嶺市役所から知らせ)がしんだんだっt)を受けた母の狼狽ぶりといったらなかった。「トンちゃん(利則の愛称)が死んだんだって」「なぜ」「どうして」と泣き叫ぶ彼女をどうしたらいいのかわからなかった。  国民学校(小学校)6年生の僕。その時の記憶は68年たったいまでも鮮明だ。これは後で知ったことだが、情報を総合すると次のようになる。  「1944(昭和19)年12月15日、0630(午前6時30分)、フイリピン・セブ基地発進。250キロで爆装のゼロ戦3機、直援機2機、ネグロス島、周辺の敵輸送船団を攻撃するも戦果不明、全機未帰還」。戦後彼が部下に託した遺な こうあった。「誰のためでもない、俺はいくしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後を告いでくれ」と。     公主嶺小学校校歌  濃緑(こみどり)の 野は晴れて  黎明(あけ)の空 光のどか  すがすがし 学舎(まなびや) 公主嶺  我等 日々 ここに集ひ学ぶ  高きおせへ守れ   素直(すなお)に のびやかに    右写真は僕が卒業した小学校。当時は国民学校といい、現中国・吉林省・公主嶺、鉄道北(満鉄)にあった。広大な土地に…

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神風特攻第1号は10月25日でない

昭和の戦争史(69年前の出来ごとともなれば、太平洋戦争はもう歴史の範疇に入る)をひもとけば、あの神風特別攻撃隊の第一陣は1944(昭和19)年10月25日の関行雄大尉率いる敷島隊とされ、大本営もそう発表、軍神として讃えたが実情はそうでなかった。     第一陣は海兵出身でなければ    敷島隊がフイリピンのルソン島マバラカット基地を飛びたったのは10月21日。同隊は3度出撃したが索敵不能でその都度引き返してきた。左の写真(ニュース映画で当時大々的に上映されていた)はいつの日のものか判明しないが、4度目の離陸直前、基地の司令官は関大尉に「もう帰ってくるな!」と言い放ったという。  消息通によると既に24日には大和隊の予備飛行学生・久能中尉がレイテ沖に突っ込んでいた。軍司令部は軍神の第1号は海軍兵学校出身でなければ面目が立たないということで、発表を遅らせ、前出の「帰ってくるな」という命令になったのだという。 【解説】「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う 山桜かな」といえば、知る人ぞ知る本居宣長の一首。太平洋戦争のの末期、1944年10月、神風特別攻撃隊の先陣を切った4隊のネーミングに使われた短歌。敷島、大和、朝日、山桜という美名に当時の若者はあおられるように死地に旅立って行った。

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バタヤン(田端義夫さん)が亡くなった

テレビが田端義夫さんの訃報を報じている。94歳だったという。特攻隊で戦死した兄貴の愛唱歌が「別れ船」だったから懐かしさがこみあげてくる。このブログでも再三取り上げてきたが、一昨年の記事をリンクしよう。兄も存命だったら89歳になる。       「別れ船」と「帰り船」    田端義夫さんが戦前(昭和15年)に歌った「別れ船」と、戦後間もなくヒットした「帰り船」(昭和21年)の明暗がくっきりしている。「別れ」は出征した兵士の帰還を望んでいた思いがかなわず、という失意の歌。「帰り」は待ち望んでいた兵士たちが帰ってきた、という安堵の歌だった。 【注】1938年、三重県松坂市で行われた新人歌手コンクールで優勝。翌年上京し、ポリドールから「島の船歌」でデビュー。続く「大利根月夜」、40年の「別れ船」がヒットした。「別れ船」はその叙情的な内容に軍部からクレームがついた(毎日新聞・電子版) 【リンク】「別れ船」と「帰り船」   http://38300902.at.webry.info/201109/article_37.html 【関連ブログ】http://38300902.at.webry.info/201006/article_7.html

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小森まどかさん きり絵「原画」展

しんぶん「赤旗」(4月12日付)の「くらしの情報」で小森まどかさんの”きり絵「原画」展が開かれることを知りました。これまでも、何回か機会を得ながら体調不良で行くこと叶わずじまいでしたが、万障繰り合わせて行くことにします。以下お知らせ版です。 ▼小森香子作、小森まどか画       小森まどか 切り絵「原画」展 ■と き:4月22日(月)~26日(金)       午前10時~午後4時 ■ところ:千葉民医連事務センタービル1Fロビー       (JR幕張駅南口から徒歩15分、千葉健生病院        専用無料巡回バスをご利用ください)。 ■入場料:無料  なお、24日(水)は休みです。   <主催>小森まどかきり絵記念会  080(1078)1591ー本田さん 【小森まどかさん略歴】1958年東京都生まれ。母・小森香子(詩人)、兄・小森陽一(東大教授・9条の会事務局長)。小学5年生からきり絵を始める。この世界では知らぬ人なく、将来を嘱望されていたが、1980年、黒部別山にて転落死(21歳)。  http://38300902.at.webry.info/201109/article_21.html

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4月6日 沖縄と「満州っ子」

1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸して以来、沖縄・南西諸島では陸・海・空で死闘が繰り広げられていた。そうしたなか、戦艦大和が沖縄戦最後の切り札として呉軍港を出港したのが4月6日。そしてこの日出撃して帰らなかった特攻機は420機。      死んでいった仲間の代弁者として    「戦中派」の世代の生き残ったことで存在を認められるものではない。本来ならば戦争に殉死すべきものであり、たまたま死にそこなったとしても、生きて戦後の社会をわが眼で見たことに意味があるのではなく、散華した仲間の代弁者として生き残ることによって、初めてその存在を認められるのである」と、吉田満が「戦艦大和」の最後に書いているのを読んでいたく感動したことがある。      この日多くの若者が特攻死した    不沈戦艦といわれた「大和」は6日、沖縄をめざし、片道燃料で特攻出撃、乗員3332人もろとも翌7日、奄美大島東方海上で撃沈された。護衛の駆逐艦「夕風」に乗り、撃沈され海中に放り出された知人が、戦後ことあるごとにその時の壮絶な様を語ってくれた。海上を漂流すること6時間、かろうじて救出された彼は、その後情報の漏洩を防ぐため、佐世保の某所に数週間隔離されていたという。この戦闘での生存者は記録によると276人だった。     特攻へ新聞記者の美辞麗句    6日はまた、この日だけで特攻機は陸・海軍併せて524機が九州南部の基地から出撃した。海軍飛行予備学生の遺稿集・「雲ながるる果てに」…

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特攻 若者を死なせてはいけない

昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊の第一陣といわれている関行雄大尉率いる「敷島隊」がフイリピンのレイテ湾に突っ込んだ日だ。あれから68年、いまでは「知る人ぞ知る」と言ってよく、ほとんど歴史の彼方に消え去ろうとしている出来事になっている。若くして逝った隊員の遺族としてはやりきれない思いでいっぱいだ。  このブログではこれまで「神風特攻」というテーマで136ページにわたって書き込んできた。今回は少し角度を変えて、「外道の統率」といわれた「特攻作戦」採用の裏話を紹介しよう。以下は「できればやりたくな」といいながら踏み切った大西滝治郎海軍中将(特攻の創始者といわれた)と淑恵夫人との会話の一部である。     若者を死なせてはいけない    大西(滝治郎中将)が一航艦司令長官として赴任の直前、私と雑談をしていたとき、話の途中で大西は、突然「いついかなる場合でも、前途有為な若者たちを死なせてはいけない」と言うのです。私もその時まだ若かったものですから、それを聞いてちょっとおかしいと思いましてね。だって現実に、お国では若い人たちをどんどん前線におくり出しているわけでございましょう。そのことを大西に申しましたら、私の顔をキッと見据えましたね、それっきり黙りこんでしまったんです。私としては、その頃にどうもいたたまれない想いでした。  こんな大西が、幸か不幸か海軍で「神風特別攻撃隊の生みの親」と申されるようになろうとは、ただただ時代の勢いのままならさを感ぜずにはいられません。あの時の大西…

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山田和夫さんが逝かれた

山田和夫さんが亡くなられたお知らせを受けてもう10日余りになる。映画評論家としての卓越した評論もさることながら、私自身は個人的なふれ合いもあって死の衝撃は言葉にならない。「日本映画がいい」と題して講演された江東区高齢者集会でのこと、ブログに論文の掲載をご家族から快くご承諾をいただいたことは忘れられない。 ▼江東高齢者集会で講演=03年10月  2007年、「前衛」9月号に山田和夫さんが「その瞬間、彼らはまだ生きていた」という小論を書かれた。日本映画に特攻隊員がどのように描かれていたかがテーマ。死んで逝った若者の心情を包み込むようにしのび、彼らを殺したものの罪悪性を完膚なきまでに告発した一文に胸を強くうたれた。  その山田和夫さんが逝かれたことを知り残念、無念。特攻で死んだ兄への鎮魂歌として書き連ねた私のブログ一覧をぜひともお読みください。山田さんへの私の追悼の言葉とさせていただきます。  【リンク】山田和夫さんに捧げる私のブログ一覧   http://38300902.at.webry.info/theme/30eec664a9.html ◆しんぶん「赤旗の訃報→

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仰天! 日中友好新聞に零戦が

日中友好新聞、7月5日号をみて驚いた。5面に「中国この日」というコラムに7月6日は、ゼロ戦が試験飛行を行った日として書かれている。そして同機が中国侵略のために作られた戦闘機であるとして忘れてはいけないと結んでいる。しかし同機が大戦末期に特攻機として多くの学徒兵と共に消え去った事は一言もない。全文を引用しよう。 ▼学徒兵が〇戦に搭乗、突っ込んでいった        <中国 この日>        零戦(ぜろせん)    73年前の1939年のこの日、日本海軍が零戦(零式艦上戦闘機)の初の試験飛行を行った。零戦はアジア太平洋戦争初期に戦闘機能、航続力、運動性能で「世界最強の戦闘機」と言われ、第2次世界大戦期の戦闘機として喧伝されている。しかし、零戦は37年に開発着手、40年7月に初めて実戦に出動、同年9月に重慶上空で2倍のソ連製中国軍戦闘機27機全期を撃墜し軍用機としての優秀性が証明され、敗戦までに1万425機が生産された。事実は、日本の中国侵略のために開発された中国侵略戦争で戦闘機として評価された兵器である。戦艦と並ぶ日本の最新兵器が中国侵略のために開発された歴史を忘れてはならない。(佐) 【追記】先ず前半部分に付け加えよう。零戦の実戦出動は1940(昭和15)年ではあるが、ここで問題にしたいのは零戦の命名の由来である。40年は昭和15年だが、当時は紀元2600年(神武天皇即位から)といって皇道の栄を国民に押し付けた。零戦はその〇年を記念して〇戦と命名した。軍部は三菱重工に命…

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中村メイ子さんと特攻隊員 続

作家だった父、中村正常(まさつね)は「戦争文学を書くのが嫌いだった」と戦争中に筆を折りました。文化財が多いから空襲を受けないだろうと考え、私が子どものころ一家で奈良に疎開しました。平和そうな村で電車を降りて、「三人で暮らせる家はありませんか」とメガホンで叫び、家を探しました。  私は二歳半で映画デビュー。戦争中には特攻隊を慰問しました。七歳か八歳のころでした。兵隊さんたちは「子どもに会いたい」「抱きしめたい」と願ったそうです。死ぬのは「子どもたちの世代の礎となるため」と納得したかったのでしょう。  目隠しをされ、母と軍用機に乗りました。今も(戦地が)どこだったのか分りません。「内地に帰ったら、ポストに入れてください」と何通も手紙を託されましたから、海外だったのでしょう。父から軍歌ではなく、心を込めて「夕焼小焼」などの童謡を歌うように言われていました。兵隊さんたちは涙も見せずに、りりしかった。今も思い出すと泣けてきます。(東京新聞・6月3日付「生活欄」) 【リンク】http://38300902.at.webry.info/200903/article_33.html

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早乙女勝元さんと特攻隊員㊦

作家の早乙女勝元さんが「きけわだつみのこえ記念館」を訪ね、先の大戦で学徒出陣として、戦死した彼らの遺文、遺稿に痛恨の思いを寄せた。前回、そのなかで慶応大学出身、特攻で逝った上原良司少尉が恋人に宛てた手紙を紹介したが、戦後母校で開かれた彼の遺品展示会を見てみよう。  出撃前の上原良司少尉    「それでも君を愛している」    慶応義塾大学日吉キャンパス内の来往舎で04年10月の1週間、「平和のための戦争展」が開催された。  そこには展示とともに上原良司コーナーが置かれ、「きけわだつみのこえ」の巻頭を飾った上原良司の最後の遺書や愛しい人への気持ちを暗号のようにつづった「クローチエ」の実物が展示され、ひときわ目をひいていた。  3通残した遺書のうち最後のものは出撃前夜に書かれたものといわれ、その几帳面で美しい文字、書き直したり、書き替えたりした部分が一切ない状態には来場者の注目が集まっていた。  羽仁五郎訳の「クローチエ」は、良司が恋人に届かぬ思いを暗号としてしたためた本。1ページに1文字か2文字ずつペンで○印がつけてあり、それをたどっていくと「・・・それでも君を愛している」という文になり、来館の女性たちは目をうるませていた。  【注】ベネデット・クローチェ(1866~1952)イタリアの思想家、歴史家。独裁者ムッソリーニに敢然と抗した。

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早乙女勝元さんと特攻隊員㊤

早乙女勝元さんといえば東京大空襲。その早乙女さんが「『わだつみの声』を聞こう」と題して、学徒出陣、若くして特攻で死んだ上原良司少尉のことを書いた。今の学生たちに先輩たちの苦悩と痛恨の思いを知ってほしいとつづる。(東京新聞・4・21-「東京どんぶらこー本郷」から)      「わだつみのこえ記念館」    「学徒出陣とは何か」の問いに「学生たちがバリケードから出て行くこと」と、答えた学生がいたという。  そういう人たちのために、「きけわだつみのこえ」(岩波文庫)と、「わだつみのこえ記念館」がある。アジア太平洋戦争における日本の戦没学生を中心に、内外の戦争犠牲者関係の資料を収集、展示して「ペンを銃に持ちかえてはならじ」の誓いを、次世代に継承する施設だ。  月水金の午後しか開いていない(団体は別)のだが、近くに所用があって、開館日にうまく時間がとれた。地下鉄の本郷三丁目駅から、東京大学の赤門へと向かって十分ばかり。書店や喫茶店、しゃれたレストランなどが並ぶ歩道は、さすがに学生たちであふれている。  赤門前では、記念写真をとる若者の笑い声がはじけている。赤門のほぼ斜め前あたりに看板が出ていたので、すぐわかった。マンションの一室で、一階は受付に書架・文書コーナー、二階がこじんまりした展示室で、戦没学生たちの遺稿・遺品などをみることができる。隙なく並んだ遺影の一つに注目した。   学徒飛行兵 上原良司戦死    昭和20年5月11日、特攻隊員として愛機もろとも米機…

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「敷島の大和心を~」関隊長の秘話

「敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂う 山桜かな」,1780年5月7日、この日生まれた国学者・本居宣長の一首である。知る人ぞ知る、先の大戦で神風特攻の先陣を切った敷島隊ほか4隊のネーミングに使われた。これは敷島隊長・関行雄大尉の知られざる秘話である。    関行雄大尉激昂、拳が飛んだ   1945(昭和19)年10月25日、神風特別攻撃隊「敷島隊」がフイリピンの基地から飛び立ち還らなかった。その前日、その直援(突入機を護衛する)を命ぜられた零戦隊の隊員の一人に西沢広義飛行兵曹長(24)がいた。西沢は予科練出身で選りすぐりのパイロットで撃墜王(それまで87機撃墜)といわれていた。  その日若い特攻隊員を前に西沢は軽い調子で言った「おれが来たからには心配ない。死地まで確実に送ってやるから安心しろ」。死が日常だった歴戦の雄・西沢だからこそ出た言葉だろう。  しかし、この場ではきわめて非常な言葉になった。敷島隊は、当初、10月20日の特攻を予定していたが果たせず (下記ブログ参照)、その後3回出撃していずれも米艦を発見できずに帰還していた。必ず来る死を待ちながら苦悶の5日間を過していたのである。    敷島隊の関行雄隊長はこの話を聞いて激昂した。「貴様、安心して死ねとはどういう意味だ」。直立した西沢の頬に拳が何度も飛んだ。頬をはらせた西沢は夕刻、関を訪ねて自分の軽率さをわびている。そして翌朝、敷島隊の直援として飛びたった。  敷島隊の突撃を確認、自らは迎撃のグラマンを二機撃…

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小森まどかさん 没後31年

小森まどかさん 4月27日、この日、黒部山中で亡くなってから今年で31年。切り絵作家として将来を嘱望されていただけに遺族や後援者の方々にとっては無念の思いがつのるでしょう。私も未だ生の作品を目にしたわけでもないのに同じ思いでいっぱいです。 ▼幼い時のまどかさんでしょうか  昨年の11月の私のブログ<続 小森まどかさん>に以下のようなコメントが寄せられました。    小森まどかさんについてのブログでご紹介いただきありがとうございます。4月27日は彼女の命日になります。黒部別山で命を絶って31回目の命日です。その日に彼女の原画展を計画しています。日にちと場所が決まりましたら連絡させていただきます。(まどかさん応援団)  あれ以来、ずーっと待ち続けていますがご連絡ありません。計画が変更になったのでしょうか。お知らせお待ちしています。連絡先は私のホーム・ページ宛てお願いします。⇒http://www.nagai-yoshi.jp/です。

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4月6日 沖縄戦と誕生日

昭和20年4月1日、米軍が沖縄に上陸して以来、沖縄・南西諸島近海では空、海で死闘がくりひろげられていた。そうしたなか、戦艦大和が沖縄戦最後の切り札、水上特攻として呉軍港を出港したのが4月6日。そしてこの日出撃して帰らなかった特攻機は420機。「満州っ子」が生まれた日も4月6日(昭和7年)。奇しくも同月同日が生死の別れ目だったとは・・・。    死んで行った仲間の代弁者として     「戦中派」の世代の生き残ったことで存在を認められるものではない。本来ならば戦争に殉死すべきものであり、たまたま死に損なったとしても、生きて戦後の社会をわが眼で見たことに意味があるのではなく、散華した仲間の代弁者として生き残ることによって、初めてその存在を認められるのである」と、吉田 満の「戦艦大和の最後」の前書きに書かれているのを読んでひどく感動したことがある。   あの年の4月6日 多くの若者たちが特攻死した    不沈戦艦といわれた「大和」は6日呉軍港を出撃、乗員3332人もろとも翌7日、奄美大島東方海上で撃沈された。護衛駆逐艦「夕風」に乗り、海中に放り出された知人が、戦後事あるごとにその時の壮絶な様を語っていた。海上をさまようこと6時間、かろうじて救出された彼はその後情報の漏洩を防ぐため佐世保の某所に数週間隔離されていたという。この戦闘での生存者は記録によると276人だった。  6日はまた、この日だけで特攻機は陸海合わせて524機が出撃した。遺稿集・「雲ながるる果てに」に掲載され…

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「今語り継がないと」 高倉健さん

片道だけの燃料の飛行機で敵艦に突っ込む特別攻撃隊(特攻)は、敗戦間近の日本軍国主義の無謀な戦略でした。犠牲者の多くは青年たち。今度の映画化の出発は、「今、語り継がないと忘れ去られてしまうようなことも映画なら残していける」という高倉健さんの思いでした。   映画「ホタル」ー降旗康男監督に聞く    「健さんから、映画にと話がでて、プロデューサーたちがともかく知覧の特攻平和会館に行こうと。そこに、僕が十歳のころ、郷里(長野県)の家の隣にあった旅館に宿泊していた四人の兵隊さんの写真がありました。55年ぶりに出会ってしまった、と言いましょうか。そろそろこちらも映画をつくるのが打ち上げ近くになってきたし、天から与えられたしごとかな、因縁かなという気もして、やらなきゃいけないのかな、と」  当時、降旗少年に兵士たちは、『戦争はもう負けだ。少年飛行兵なぞ志願したら許さん。外交官や科学者になって国を再興しろ』と説いたといいます。映画「ホタル」は、日本兵として死んでいった朝鮮人の特攻兵士に大きな光を当てています。    「健さんが出るのならやっぱり主人公にして、生き残った人の話にしよう、となりました。55年前の事実を描くよりも、今生きている人が、その55年をどう考え受けとめ、行動するのかということを描かなくちゃいけない。特攻で亡くなった人、あるいは戦争で死んでいった人の無念さを描くには、どうしてもその当時、植民地支配されていた朝鮮人の無念さのなかに、戦争でしんでいく無念さが、一番普遍的に…

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小森まどかさんの切り絵

しんぶん「赤旗」地方版の下欄に「くらしの情報」というのがある。さまざまな団体が各地で催すイベントの案内である。その多くは「命、平和、暮しなど差し迫つている諸問題」がテーマだ。毎回丁寧に見て重宝しているが今日はまた一段と興味をそそられた。それは小森まどかさんに関わることだったからだ。 。▼まどかさんのお母さん  小森まどか没後30年記念    「きり絵・原画展」 9月23日(金)~25日(日)午前10時       はなのわ広場 (千葉市花見川区花園1-6-7、JR新検見川駅から5分)     小森まどか略歴 1958年東京都生まれ。母・小森香子(詩人)、兄・小森陽一(東大教授・九条の会事務局長)。小学5年生の時から、きり絵を始める。1980年、黒部別山にて転落死(21歳)。 同時企画=25日(日)午後1時半、「まどかの歩んだ道」小森香子。入場無料。<主催>小森まどか記念会(準)。 <問い合わせ>080(1078)1591本田さん 【注】雪山で亡くなった娘さんがお母さん(小森香子)の詩をギターで弾き語っていたといいます。「青葉の歌」(クリック) 【追記1】小森まどかさんの名前は少し知っていた。それは彼女が特攻隊関連の「きり絵」もつくられていたと聞いていたからである。兄を特攻で亡くした満州っ子にとっては、まどかさんがどんな想いで特攻隊を題材にされたのか興味深いし、現物をなんとしても目にしたい。それにかって私が区議会に立候補したとき、お母さん(小森香子)が…

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「満州っ子」英文で表示②

「満州っ子 平和をうたう」のうちテーマ「雲ながるる果てに」が英文に翻訳されています。前回①のように逐条記述します.今回は08年10月に掲載した「神風特攻隊の戦死者数」です。どなたが訳されたのか不明ですが、固有名詞、軍隊用語、日本語特有の言い回しについては私が若干の修正を加えました。 満州っ子 平和をうたう Singing for peace Mansyuuko 神風特攻隊の戦死者数 The number of casualties Kamikaze  1944年(昭和19)年10月25日(フイリピン・敷島隊)から終戦の1945(昭和20)年8月15日(沖縄・宇垣特攻)までの総戦死者数は2483人。内訳は予科練等の出身者は1715人、飛行予備学生は649人、海軍兵学校は119人でした。年齢はなんと17歳から25歳ぐらいまでの少年、青年たちで驚くべきものです。「死んでいったのは少年と青年たち」 October 25,1944 (Shikisima Corps philippines), August 15, 1945 from the war (suicide Ugaki Okinawa) to the total body count is 2483 people. The breakdown came from like Yokaren 1715,649 students who pre-flight,the Naval Academy had 119. Boys …

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「満州っ子」英文で表示①

昨日、私の「満州っ子 平和をうたう」にとっては驚くべき現象がネット上に表示されていました。それはテーマ「雲ながるる果てに」がすべて英文に訳されていたことです。ここで、2009年12月15日に、「兄、神島利則中尉特攻死」として配信したものを逐条的に転写、掲載しましょう。 「満州っ子」 平和をうたう Singing for peace Tsu子Manchuria 兄、神島利則中尉特攻死 Toshinori Kamishima brother Lieutenant suicide death 兄、神島利則(かみしま・としのり)海軍中尉(1923~1944)12月15日、この日神風特別攻撃隊・第七金剛隊の一員としてフィリピン・ネグロス島近辺で特攻死、21歳だった。彼の郷里は当時日本が支配していた満州・公主嶺市。母神島トミが、利則戦死の通知を受けたのは同月23日のことだった。 Toshinori Kamishima brother [Lide you to God]Navy Lt.(1923-1944),December 15, near the Philippine island of Negros in the suicide death as a member of Team Kamikaze Special Attack Corps Kongo seventh day.He was 21. His hometown Gonzhuling was ruled …

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「若菜集」から惜別の唄

八月といえば、あのとき、あの人と別れたことをしみじみと思う月。今年は太平洋戦争に突入してから70年。敗戦までの4年間、学徒出陣で逝った学生は何人いることか。送った人を偲ぶ歌、藤村の「若菜集」からとった「惜別の歌」をうたってみよう。今日8月22日(1943年)は島崎藤村が大磯で死んだ日でもある。       惜別の唄  (クリック)     日本の敗色が濃くなった1944(昭和19)年、中央大学の学生たちも勤労動員で狩りだされ、軍需工場で働いていた。これら動員学徒にも、次々と召集令状が舞い込み、毎日のように誰かが入隊していった。  1945(昭和20)年3月、応召する中央大生の見送りに際して、同じ工場で働いていた東京女高師(現お茶代)の女子学生から、一篇の詩が送られた。  それは、島崎藤村の詩・「若菜集」の一部を変えたもの、情感あふれる藤村の詩は、灰色の濃い雲間から射す陽光のように中大生の胸をうち、一年生の藤江英輔が曲をつけた。以後仲間を送り出す際、友情と別離の想いをこめ、この歌が歌われるようになった。 【追記】中央大出身・穴沢少尉「知覧」から飛び立つ。  http://www.interq.or.jp/classic/jupiter/sekibetsu/

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1945年8月10日の記憶

これは66年前軍国少年だった「満州っ子」の忘れられないメモリーの一つである。前の年の12月にフイリピンで零戦に搭乗、特攻死した兄の戦友たちが遠く大陸に飛来、その数日の間におきた悲しくも辛いエピソードだ。内山光雄海軍中尉ほか五人の若者の顔がいまでも忘れられない。     神戸の灯を見たのは3人だけ    1945(昭和20)年8月10日、前日のソ連参戦で満州も危険地域になったとして、私の住んでいたあの大陸では有数の陸軍飛行場から海軍の一式陸上攻撃機が3機飛び立った。  内山光雄中尉以下6人の第13期海軍飛行予備学生(兄も土浦で同期)が率いる23名、南満州・公主嶺市の私の家の上空を顔が見えるほどの超低空で豪音を響かせながら三度旋回(通常なら絶対に許されない)、機上では挙手の敬礼、下ではおふくろをはじめ在住の家族、多くの日本人は手をあげ、日の丸を振り死地に赴く彼らに「さよなら」を絶叫していた。期せずして空陸あげての「惜別の会」になっていた。  それより先、沖縄が陥ち、ひしひしと米軍が本土に迫ってくる7月、本土決戦に備え残こされていた海軍機は比較的安全と思われる満州に退避していた。明日おも知れない彼らの行動は尋常ではなかった。酒が唯一のよりどころ、外出禁止命令などは問題外。この街につくやいなや繰り出したのは日本人街にある「カフエー」だった。  せまい街、それも当地出身の顔見知りの神島利則中尉のこと、しかも特攻で戦死したということは知れ渡っていた。 女給の一人が「この町…

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「満州っ子」石の上にも3年

ブログ「満州っ子・平和をうたう」がスタートしたのが08年の6月9日。あれから丸3年、大病の後とて懸念しながらも続けることができました。これもこのブログを「お気に入り」に登録されるなど、多くの人の励ましとお心遣いがあってこそと思います。ありがとうございました。このスタイルでの表示は6月で終わり、新しいフォームで再スタートする予定です。 ▼乱雑極まる「満州っ子」のPCルーム      <アクセス数 ベスト20> ①517 1011 映画・「無言館」の完成間近 ②441 0904 3・10早乙女勝元講演(6) ③382 0908 狩野光男画 東京大空襲㊦ ④379 0911 「坂の上の雲」何が問題㊤ ⑤351 0908 狩野光男画 東京大空襲㊥ ⑥334 0908       〃        ㊤ ⑦316 1103 遠藤未希さん いま何処に ⑧314 0808 淡谷のり子さんと特攻隊 ⑨311 0912 「雲流るる果てに」 序分 ⑩291 0903 東京大空襲に1200人 ⑪287 0911 来年の「赤旗」カレンダー ⑫263 0811 ドイツにも特攻隊があった ⑬261 0904 あの東京大空襲と私 ⑭257 0909 佐藤真子さんのリサイタル ⑮255 0908 佐藤真子素晴らしき日曜日 ⑯248 0905 ニ〇歳になった高齢者集会 ⑰242 0808 「雲流るる果てに」 ② ⑱241 0809 佐藤真子さん 心をうたう ⑲238 09…

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山田和夫描く「特攻映画」⑦

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」-特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫 (七) 新しい境地へ進む特攻映画を    日本特攻映画史は続く。独立プロで多くの力作を生んだ神山征二郎監督に「二つのハーモニカ」(1976年)がある。特攻基地の若い隊員と近くに住む少年とが、ハーモニカを通して美しい友情を結ぶ物語で、親と子のよい映画を見る運動(親子映画運動)で好評を得た作品だが、特攻を扱った映画では「月光の夏」(1993年)が全国的に大きな反響をまき起こした。   音楽学校出身の特攻隊員が、基地近くの小学校でピアノを弾くことをたのしみにしていた。出撃のときが来た。彼は小学校の生徒たちにベートーヴェンの「月光」を置き土産に出撃した。ここまでは「ニつのハーモニカ」の延長と言えるし、特攻映画の一つのパターンである。しかし「月光の夏」はさらに一歩踏み込んだ。特攻出撃した隊員たちが機の故障などで引き返したとき、突入するまで出撃をくり返すが、それでも成功しないと「振武寮」と言う隔離施設に軟禁されて、軍人精神の修養を命じられる。最近その状況の研究が発表されたが、この映画ははじめて特攻のもう一つの暗い側面を明るみに出した。    特攻は死ぬまで解放されないおそるべき“死刑執行”と言えた。そのおそろしさに踏み込んだ作品である。  降旗康男監督の「ホタル」(2001年)はさらに特攻の持つ、忘れてはならない側面にメスを入れた。特攻の死はあまりに痛ましい。従って特攻を描くとき、どうしても…

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山田和夫描く「特攻映画」⑥

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」-特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫  もう一つの「ベストシーン」を含む特攻映画がある。「人間魚雷回天」と同じ須崎勝弥がシナリオを書き、東映任侠映画の巨匠と呼ばれた中島貞夫監督の「あゝ同期の桜」(1967年)である。中島監督の他の作品から(失礼ながら)まさかこれほど鮮烈な反戦映画をつくられようとは、本当に想像が出来なかった。私はこの映画のラストシーンをめぐって、かなりの葛藤(かっとう)があったことを聞き、そのことを拙著『日本映画の現代史』(新日本出版社)などに書いた。しかし、2004年に出た中島貞夫著『遊撃の美学・映画監督中島貞夫』(ワイズ出版)を読むと、この作品に一章を割き、「ラストシーンでの会社との攻防」がくわしく語られている。伝聞による私のかっての記述は単純化していたうらみがあった。  映画は任侠映画の路線で企画され、松方弘樹、千葉真一、夏八木勲、高倉健、鶴田浩二、藤純子、佐久間良子ら、東映ヤクザ映映画おなじみのスター総出演だから、あるいはとんでもない特攻映画が出来ていたかも知れないが、結果は大きく違った。中島監督は「戦争における死は、すべて惨死であり、犬死にである」とする断固とした考えの持ち主。そして映画の原作「あゝ同期の桜」は、海軍14期予備学生の遺稿集で、第14期の生き残りたちは同僚の須崎勝弥をシナリオライターに押し、映画化の条件にした。  須崎は中島の戦争観に同意した。会社側の意図したカッコいい戦争物としての特攻映…

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山田和夫描く「特攻映画」⑤

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」ー特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫 (五) 「雲流るる果てに」と「人間魚雷回天」     戦後日本映画は、62年たった今日まで反戦平和をたゆむことなく訴え続けてきた。そのなかでとくに記憶したいのは、特攻の悲劇と向い合った作品群であった。前期「日本の悲劇」は公開こそおくらされたけれど、特攻の本質に鋭く迫り、天皇の戦争責任にまで目を向けた最初の作品だった。  その後、東大協同組合出版部は全国の戦没学生の手記をあつめて「きけわだつみのこえ」を編み、それが映画『きけわだつみの声』(1950年、監督関川秀雄)となり、続いて学徒出陣で戦場にかり出された学徒たいの手記をあつめた『雲流るる果てに』が家城巳代治監督によって映画化(1953年)され、学徒出陣によって海軍予備学生になり、特攻隊員として死んだ若者たちの遺書がドラマに再現だれた。特攻を描いた最初の劇映画作品である。  「きけわだつみの声」もそうだが、「雲流るる果てに」でも、1943年10月の徴兵猶予打ち切りで学園から出征した学徒兵たちは陸軍士官学校や海軍兵学校を出たエリート職業軍人から、露骨な差別と屈辱を受けた。「雲流るる果てに」の学徒出身兵たちもそのなかで、優先的に特攻隊に送り込まれた。彼らは複雑な矛盾をはらみつつ、死への出発日を待った。  出撃予定日が悪天候で日一日と延びる。「特攻待機」と呼ばれるこの耐えがたい日日の隊員の日常が映画の大部分を占める。「何のために死ぬの…

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山田和夫描く「特攻映画」④

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」-特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫 ▼知覧特攻平和会館の前庭  (四) 隊員の三分の一は迷っていた    たしかに昭和天皇の責任は逃れるべくもなかったが、それを口実にして敗戦のその日まで、多くの若者たちに死を制した日本軍部の犯罪的行為は、絶対に許すことは出来ない。    1945年5月下旬、陸軍航空本部は「特攻隊員の取り扱いに適性をを期すため」、陸軍特攻の知覧基地(あの石原特攻映画の舞台)で「特攻隊員の心理調査」を実施した。調査担当者は戦後社会心理学者として活躍した望月衛技師。その調査結果は、現在の隊員の三分の一は、「最初から希望してはいなかった」と率直に述べている(生田惇著『陸軍航空特別航空隊史』<ビジネス社>。そして「人生最後の重大問題について疑問を持ち、その解決に苦しむ者がある」とも書いている。特攻に「志願」したはずの多くの人びとが、出撃の時間までどれだけ苦しみ悩んだかの一端が、軍の心理調査でさえ明らかにされている。  にもかかわらず、同じ頃1945年5月20日、軍中央は世にも恐るべき特攻の威力増大策を平然と語っていた(大本営海軍第一部長より海軍省などへの要望書)。  ①特攻攻撃により爆弾を(飛行機とそして搭乗員もろとも)敵艦船の水線下に確実に命中させる方法。②特攻機突撃時、攻撃機の翼を切断し速力を急増、敵の防禦砲火と戦闘機による被害を局限し併せて撃速を増大し命中効果を大にする。③頭部V爆弾(炸裂威力増大のため…

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山田和夫描く「特攻映画」③

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」ー特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫 (三) そのとき天皇は?・・・・・・「日本の悲劇」と      「TOKKO 特攻」   「戦争と平和」の亀井文夫監督は、その前に日本映画社で中編記録映画「日本の悲劇」(1946年)をつくった。日本映画社は戦時統制によりすべてのニュース映画社を統合して誕生した国策会社。戦中は厳重な検閲のもと、大本営発表の映画版と言える「日本ニュース」を製作した。敗戦後、戦前からの進歩的な映画評論家・岩崎昶が政策局長になり、「民主化宣言」を出し、自らのプロデュース、吉見泰シナリオ、亀井文夫監督で、「日本の悲劇」を製作、「日本ニュース」の素材を活用して逆に戦争の勃発から敗戦までの真実をあばいた。そのなかに戦中「日本ニュース」が撮影した特攻隊出撃の状況が映像に記録されていた。  出撃する特攻隊員を前に、指揮官が訓示をする。手帳を取り出し、「畏きあたりより(つまり天皇より)、特攻隊にお言葉を賜った。『特攻隊はよくやった』とのこと」を伝える。この昭和天皇の言葉は、いくつかの文献に記録されている。   1944年10月25日、フイリッピンで関行男大尉らの最初の特攻隊が突入した直後及川古志郎海軍軍令部総長は天皇に特攻隊について上奏した。「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」。これが天皇の言葉である。米内光政海軍大臣の報告には「かくまでやらせなければならぬことは遺憾であるが、しかしながら、よ…

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