山田和夫描く「特攻映画」②

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」ー特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫  (二) 私は特攻を「志願」した    1945年8月15日、私は岡山県倉敷海軍航空隊で水上特攻隊「震洋」の要員として敗戦を迎えた。17歳である。  前年四月、旧制中学四年終了で第14期海軍甲種飛行練習生として鳥取県美保海軍航空隊に入隊した。当時の学校教育とは社会環境のなかで、幼児から日本は神の国と教え込まれ、天皇のために命をささげることは日本人の名誉とされて成長、戦争の急迫がひしひしと感じられるようになって、ひたすら直線的に国のために少年航空兵を志願した。  入隊した海軍の生活は、今回新藤兼人監督が32歳で海軍に召集された体験を「陸に上がった軍艦」(監督・山本保博)に映画化した、あの通りの愚かなまでの野蛮な制裁と訓練の日日。それで日本の戦争と軍隊に疑問を抱く思考力さえ、当時の私たちは持ち得なかった。そして戦局が一層に悪化、少年航空兵の訓練は中止され、1944年末には特攻隊要員(「掌特攻兵」と呼ばれた)に志願せよと申し渡される「志願」とはいえ、「志願」以外に兵士にとって選択肢は事実上ない、いやそれ以外の選択肢を知らない環境にいた。「命令」におる強制と同じだ。  石原特攻映画で大西中将が「特攻は命令ですか?」と質問されたとき、「志願という名目の、命令でやるのだ」と答えるところがある。この偽瞞(ぎまん)に満ちた特攻美化映画でわずかに真実に近づいた部分、「一晩志願するかどうか、考えろ」と…

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山田和夫描く「特攻映画」①

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」ー特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫  (一) 最初の特攻突入シーンに拍手!    敗戦後半年たった1946年2月28日、戦後はじめて輸入されたアメリカ映画「春の序曲」と「キュリー夫人」が全国で公開された。配給は米占領軍が占領行政の一環として発足させた映画配給機関CMPE(セントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジ)。このCMPEは同時に本国のOWI(戦時情報局)が制作したニュース映画「ユナイテッド・ニュース」第一号を公開した。  復員後、旧制高知高校一年に転入していた私は、この「ユナイテッド・ニュース」第一号ではじめて特攻記機の突入シーンを記録実写で見た。  そのニュース映画は私たちがまったく知らなかった第二次世界大戦末期の様相をグローバルに見せた特集。そのすべてがいまでもまざまざと脳裏によみがえる。イタリアのミラノでは、反ナチ・パルチザンに捕えられたムッソリーニは愛人とともに処刑され、逆づりにされている。フイリッピンでは日本軍に虐殺された人たちの死体が掘り出される。ドイツの首都ベルリンでは、ライヒスターク(国会議事堂)の頂上に、ソ連兵が赤旗を掲げる。そして沖縄における日本軍特攻機の襲撃シーンが・・・。    それまで戦争中唯一のニュース映画(「日本ニュース」)では、1944年10月にはじまる特攻隊の出撃シーンは何度も映像にとらえられていた。しかし特攻機がどのような激しい米軍の対空砲火をくぐり抜け、その多く…

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山田和夫描く「特攻映画」序

四年前、映画評論家の山田和夫氏が雑誌・「前衛」(2007年9月)に書いた小論・「『その瞬間、彼らはまだ生きていた』-特攻を描いた日本映画の歩みー」を本ブログに全文掲載できることになった。兄を特攻で亡くし、「特攻とは何だったのか?」を終生のテーマとして問い続けてきた私。“満州っ子”の願いを、このほど山田和夫氏と「前衛」編集部がこころよくお認めいただいたからである。   ひとすじの曙光がさしてきた    21歳の若さで学徒出陣、1944(昭和19)年、フイリピンで神風特別攻撃隊の一員として逝った兄。戦後60余年を経てなお、あの特攻について「美化論」「無駄死論」が交差するなか、いずれにも組みし得ない私。これまで、この論文なかでもふれられている映画・「雲流るる果てに」を演出した家城巳代治氏の「主観的には純粋でありながら、客観的には無駄であった特攻隊の死。その矛盾をはっきりとらえられたとき、はじめてかなしさが無駄でなくなる」という言葉が唯一の心のよりどころだった。が、山田和夫氏の本論に接することによって、いま、死んでいった彼らの行為にひとすじの曙光が射してきた気がしてならない。  なお、本論は長文(73~83頁)なので7回にわたってシリーズでお送りし、6月中に完了する予定。文中の挿入写真は私が選ぶことをお許しいただきたい。                      <目次> ①最初の特攻突入シーンに拍手! ②私は特攻を「志願」した ③そのとき天皇は?・・・・・・「日本の…

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敷島の大和心を人問わば

「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜かな」といえば知る人ぞ知る一首。太平洋戦争の末期1944年10月神風特別攻撃隊の先陣を切った5隊のネーミングに使われた本居宣長の短歌である。今日5月7日(1789年)は宣長が松坂に生まれた日。敷島、大和、朝日、山桜という美名に当時の若者はあおられうように死地に旅立った。 ▼特攻第一陣といわれた敷島隊だが  通説では神風特攻の第一陣は1945(昭和19)年10月25日の関行雄大尉が率いる敷島隊といわれているが、実情はフィリピンのマバラカット基地を飛び立ったのは21日。同隊は3度出撃するも索敵不能で引き返して来た。写真は何時の日のものか判明しないが、4度目の離陸直前、基地司令官は関大尉に「もう帰ってくるな!」といったという。  消息通によると24日には大和隊の予備学生・久能中尉が既に突っ込んでいた。軍司令部は軍神の第一号は海軍兵学校出でなければ面目が立たないということで、発表を遅らせ、前出の「帰ってくるな」という指示になったのだという。

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「特攻隊の気分」って何だ!

昨日、「『特攻隊の気分』一時帰宅の予行演習始まる」という見出しの産経新聞・電子版を見て、ついにあからさまに書いたな!と驚いた。それは今回の原発関連で被害阻止のため放射能危険地域に入る東電の作業員らを扱うマスコミ記事がその危険度を表現するのに「特攻隊」のようなという文言で形容、これまではそれとなく使われていたからだ。  サンケイ電子版を丹念に読みこむとこんなフレーズが目に入って「何と無知蒙昧な」と嘆き、哀しみさえ覚えた。曰く、「バスに乗り込む前、参加したある村の職員は『特攻隊の気分だが、住民がスムーズに帰宅するためにがんばりたいと』と語った」  この記事を書いた記者君はどれだけあの大戦末期の特攻隊員の生き様をご存知かと訊ねたい。よくよく読むと「一時帰宅者に随行する職員は防護服や線量計、マスクなどを身につけ」とあり、完全装備だ。それでは特攻隊員はどうだ。片道燃料で爆弾を抱え、落下傘すら身につけず、ただただ大君のためといって死ぬことだけが目的だったのだ。  だからといって随行員と特攻隊員を対比して前者がアマで後者がプロなどと矮小な上下関係を誇示しようなんて気はさらさらない。要はこの国がこのようなことを昔も今も若者に強いる要因を創りだしている愚かさ、いや蛮行を厳重に指摘しているのだ。    お願いだ!マスコミの記者諸君よ!かろがろしく特攻隊を引き合いに出してくれるな。選択肢のない道を逝くしかなかった悲しさ、無念さをおもんばかってくれ!  私の兄は神風特別攻撃隊の一人として21歳…

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アメリカ側がみた特攻隊㊦

手元に特攻死した兄の戦友たちが編纂した1993年発刊の記念誌(第13期海軍飛行予備学生誌)がある。戦後68年のこととて後世にこの事実を忠実に伝えたいとの思いで書かれたものであるが、随所に死んで行った同期生への哀惜こもる思いがつづられている。従って米側の特攻にたいする痛罵を避け、外国人の讃辞を紹介している。   特攻隊員へのある外国人の讃辞 ◆特攻機に対して外国人の研究で優れたものに、フランスのジャーナリスト、ベルナール・ミローの『神風』(邦訳内藤 一郎、早川書房)がある。その書の最後の一節にこうある。  「この行為に散華した若者たちの命は、あらゆる戦争におけると同様に無益であった。しかし、彼らの採った手段があまりにも恐ろしいものであったにしても、これら日本の英雄たちは、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは、1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れられてしまったことの使命を、取り出して見せつけてくれたのである」。 ◆フイリピン、マバラカットの町、元東飛行場隊門付近に「第二次大戦において日本神風特別攻撃隊の最初に飛び立った飛行場」と日本字で書かれた特攻の碑がある。  これはカミカゼ記念協会、アンヘルス市土木局、観光局、町長を先頭に町民の作業で建設された。左右に旭日旗、フイリピン旗の国旗が描かれている。その発起人ともいえるディソン氏は「祖国愛にもえて散華した、これら若い特攻隊員に思いをはせるとき、感激の涙を禁…

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アメリカ側がみた特攻隊㊥

昭和史研究の第一人者と言われる保阪正康氏は著書「『特攻』と日本人」の中で当時のアメリカ側が見た、「特攻隊」をアメリカ人の書いた著書(デニス・ウォーナー著「ドキュメント神風」)を引用し、赤裸裸に描いている。少しく長文になるがそれを再引用してみたい。(同書・209~210頁)  11月5日(昭和19年)にレイテ湾で大型空母レキシントンが、第三神風特別攻撃隊左近隊によって狙われている。この隊の特攻機は、アメリカ軍の空中哨戒隊から逃れて、レキシントンの上空に達すると四機のうち三機は撃墜されたが、しかし一機は鑑橋の一部に体当たりしてきた。そこでこのレキシントンに乗っていた乗員五十人を死亡させ、そして百三十二人に重傷を負わせることになったという。  このときに哨戒隊の隊長が基地に報告した内容は次のとおりである。  「このやろう(撃墜を免れた一機)が『レキシントン』に到着するまえに、われわれは彼に命中弾を浴びせた。彼の飛行機は燃えだしたが、かれはうまく降下して艦橋後端に体当たりした。・・・・・・われわれはこいつらをやっつけることに努力を集中し、わが軍の艦船に体当たりするまえに、こいつらを叩く、あるやり方をみつけなければならないーなぜなら、かれらの命は安く、彼らは命を捨てることなど問題にしていないからだ。彼らは飛行時間40ないし50時間ほどで、単独飛行を許可して一機をあたえる。彼らはこの種の任務を果たすには十分の技量をもっている」  とくにアメリカ軍を驚かせたのは、特攻隊員が一様にパラ…

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映画「TOKKO]リサ監督語る

既にこのブログ・「アメリカ側が見た特攻隊㊤」の中で紹介ずみですが、映画「TOKKO」のリサ・モリモト監督は2007年6月に来日、特別披露試写会で、この映画に込めた想いを語りました。その模様を「YAHOO/ニュース」が伝えています。  “神風特攻隊”のイメージを    変える映画が完成!     第二次世界大戦での神風特攻隊を鋭い視点で描いた映画『TOKKO/特攻』(07年7月21日より全国順次公開)の特別披露試写会が6月14日(木)に都内で行われ、リサ・モリモト監督とプロデューサーのリンダ・オーグランドが、映画に込めた想いを語った。   日本で公開する夢が叶った    本作は、アメリカで生まれ育った日系人のリサ監督と、日本で生まれ育ったアメリカ人のリンダの2人が、日米両国から捉えた神風特攻隊に関するリサーチをもとに制作したドキュメンタリー映画。   リサ監督は「日本で公開する夢が叶った。いろんな人に協力してもらって完成しました」と目に涙を溜めて挨拶。リンダも「予算ゼロから始まった。多くの方に応援してもらって本当に感謝しています」と涙ながらに話した。  また、劇中内で、日本側から撮った戦争の“白黒写真”と、アメリカ側から撮った戦争の“カラー写真”が登場し、試写を見た観客が「写真がとても衝撃でした。いろんな戦争映画を観た中で1番感動しました。自衛隊や遺族会の人に是非みてもらいたい!」と2人に熱く投げかける一面もあった。

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アメリカ側がみた特攻隊㊤

「『私たちは神風が怖かった。十人のうち七人は涙をもって迎え、あとの三人は憎しみをもってこれを撃ち落とした』とある米空母の搭乗員は語る」と神風特攻隊員の戦友が戦後編集した「飛行予備学生誌」には書かれているが、これはややひいき目の引用で、実はどうだったのか、07年に上映された映画・「TOKKO 特攻」が示唆にとんでいる。  特攻62年後、元隊員・米乗組員が対面   太平洋戦争末期の1945年5月、沖縄戦で特攻機の攻撃を受けて沈没した米駆逐艦も乗組員だった元米兵2人が、今月末に来日し、鹿児島市在住の浜園重義さん(83)ら元特攻兵と対面する。  同じ時代に、家族を愛する気持と、死の恐怖をともに感じながら戦った日米の元軍人。戦後62年を経て初めて対面することになったきっかけは、「特攻」をテーマに日系2世の女性監督がメガホンを握った映画にお互いが出演したことだった。  来日するのは、元米兵のユージン・ブリックさんとフレッド・ミッチェルさん(ともに81歳)。2人は、沖縄戦で特攻機に撃沈された駆逐艦「ドレックスラー」に乗船していたが、沈む寸前に海に飛び込んで一命を取り留めた。今月21日から日本で公開されるドキュメンタリー映画「TOKKO 特攻」に出演し、駆逐艦に特攻機が激突する瞬間を、「日の丸の鉢巻きが見え、死ぬほど怖かった」と振り返る。  映画では、2人を含む元米兵5人と浜園さんら元特攻隊員4人に、監督のリサ・モリモト(39)(ニューヨーク在住)がインタビュー。特攻隊機激突…

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特攻隊とはなんだったのか

先の大戦で兄を特攻隊の一員として亡くした者の戦後一貫して追及してきたテーマは「特攻隊とはなんだったのか」である。その疑問を一部解明してくれた著書が手元にある。「『特攻』と日本人」(保阪正康著)がそれだ。先ずはその、<あとがき>を紹介しよう。本書(新書版225頁)の全容を示唆してくれるからだ。   <あとがき>   特攻隊については、私自身少年期から複雑な感情をもっていた。昭和30年代初め、高校生のときに『きけわだつみのこえ』を手にとって読んでいるうちに、もし今この遺稿の青年たちが生存していたら、30代半ばであると気づいて無性に同情の念がわいた。なかでも慶応義塾大学の学生だった上原良司の遺稿は心にのこり、なぜこの「自由主義者」がこうした運命を受けいれなければならないのか、怒りがおさまらなったという記憶は今も続いている。  私の世代は、昭和30年代が高校生、大学生の時代であったが、いってみれば“政治の季節”でもあった。戦後教育を社会主義革命の教育と捉えているかのような教師も少なくなかったのだが、そういう影響を直戴に受けた世代といってもいいかもしれない。当然なことだが、私は太平洋戦争のシステムに怒りの感情ももっているし、特攻作戦を選択した指導者は弾劾されて然るべきと考えてきた。  この青年期のときから40余を経て私はそのころの反対、批判、怒りとはまったく別の感情ももつようになった。社会的生活をすごしてきて、そしてそれが終わる世代に達しての感情というのは、日本社会は、そして日本…

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今日は「ダンチョネ節」だ!

今日は12月15日だ。兄貴が1944(昭和19)年フイリピンで神風特別攻撃隊の一員として戦死した日だ。あれから66年、存命だったら86歳。まだまだ生きていてもいい年だ。身内は僕一人になった。供養するのは他にだれもいない。だから霊前に「ダンチョネ節」歌って手向けよう。お酒も少し入れて。   ダンチョネ節 沖の鴎と飛行機のりは どこで散るやらね はてるやら ダンチョネ おれが死ぬ時 ハンカチふって 友よ彼女(あのこ)よネ さようなら ダンチョネ 【クリックして】 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/9263/odisan/dancyone.html   少し酔いがまわってきたので「明日はお立ちか」も続けて歌おう。そう、いつだったか佐藤真子さんが歌ったダンチョネ節が良かったなあ。

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ああ祖国よ 恋人よきけ③

「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます。彼の後ろ姿ハ淋しいですが、心中満足で一杯です」、慶応大学出身、学徒出陣でペンを操縦棹に持ちかえて沖縄に突っ込んでいった上原良司少尉が出撃直前に書いた遺文の一つ「所感」を紹介しよう。  人の世は 別れるものと知りながら 別れはなどて かくもかなしき ▼戦災前の旧慶応大学三田の図書館   所  感     上原良治 大正11年9月27日生 第56振武隊 現住所 長野県南安曇郡有明村186 出身校 慶応義塾大学経済学部   栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊とも謂ふべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ実の光栄之に過ぐるものなきと痛感致して居ります。  思へば長き学生時代を通じて得た信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合これは或は自由主義者と謂われるかもしれませんが自由の勝利は明白な事だと思ひます。  人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく例へそれが抑へられて居る如く見えても底に於いてハ常に闘ひつゝ最後にハ必ず勝つと云う事ハ彼のイタリヤのクローチエも云って居る如く真理であると思ひます。権力主義全体主義の国家ハ一時的に隆盛であろうとも必ずや最後にハ敗れる事ハ明白な事実です。  我々ハその真理を今次世界大戦の枢軸国家に於いて見る事が出来ると思います。ファシズムのイタリヤは如何、ナチズムのドイツ亦既に敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如く次から次へと滅亡しつゝあります。真理の普遍さは今現実に依って証明…

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ああ祖国よ 恋人よきけ②

慶応義塾大学日吉キャンパス内の来往舎でかって(04年10月)一週間、「平和のための戦争展」開催されたことがあった。そこには鹿児島の知覧から飛び立って戦死した上原良司のコーナーが置かれていた。とりわけ「きけ わだつものこえ」の巻頭を飾った遺文に引用されていたクローチエとのかかわりが来場者の注目を集めていた。 ▼上原良司大尉の碑  平和のための戦争展で  上原良司の遺品が展示   上原良司の最後の遺書や愛しい人への気持ちを暗号のようにつづった「クローチェ」の実物が展示され、ひときわ目を引いていた。三通残した遺書のうち最後のものは出撃前夜に書かれたものといわれ、その几帳面で美しい文字、書き直したり、書き換えたりした部分が一切ない状態には人々の注目が集まっていた。  羽仁五郎訳の「クローチェ」は、良司が恋人に届かぬ思いを暗号としてしたためた本。1ページに1文字か2文字ずつペンで○印がつけてあり、それを辿っていくと「・・・それでも君を愛している」という文になり、来館の女性たちは目を輝かせていた。 【注】ベネデット・クローチェ(1866~1952)イタリアの思想家、歴史家。独裁者ムッソリーニに敢然と抗した。

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ああ祖国よ 恋人よきけ①

「かにかくに 有明村は恋しかりけり 思い出の山 思い出の川」、慶応義塾大学経済学部出身の上原良司は学徒出陣で入隊するまえ、遺本「クローチェ」の見返しに書いた遺書のなかに、この歌を残している。先の本ブログに掲載した宅島徳光海軍中尉とともに慶応同窓の二人が戦後の国民へ贈ったメッセージの第二段である。  上原良司(陸軍少尉)が有明(長野県)の故郷に無言の帰還をしたのは、1946(昭和21)年4月26日のこと、特攻隊員ときまり、最後の別れを告げに帰郷した20年4月から一年経ってからであった。 ▼母のいるふるさとに「さようなら」を告げた乳房橋  最後に帰郷した際、良司は母親には別れの言葉を言えなかった。部隊にかえるとき、家を出て遥か離れた乳房橋の上で立ち戻り、「さようなら」とこれまで聞いたことのない大きな声で三度も言うわが子を見て、母親は「良司は死ぬ気でいるんだな」と思ったという。その辺りは、兄の龍男が「アンズの花よ 乳房(川の名前)の流れよ 橋の上までくると我が家の赤い屋根が見えてくる。  その橋を一年後、小さな骨壺に納まって帰還する良司だった。1946(昭和21)年5月15日、有明村は良司を含めた十一柱の村出身の戦死者の村葬を行った。ちなみに良司の戒名は「特攻院殉空良治大居士」という。  軍隊生活の体験を通して上原良司は、実証的に天皇制国家、全体主義の欠陥を見抜き、その敗北と自由主義の勝利を確信していく。特攻出撃の前夜書いた遺書と所感は、このまったく孤独な思想闘争の成果…

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俺の言葉に泣いた奴が一人

「俺の言葉に泣いた奴が一人/俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人・・・」と胸に抱いて雲流るる果てに逝った慶應義塾大学出身の学徒飛行兵。宅島徳光が訓練の合い間に書いた手記・「くちなしの花」がある。この手記に感動した作曲家の遠藤実が曲をつけ、渡哲也が唄い大ヒットした『くちなしの花』を紹介しよう。  ▼慶応大学・三田、「丘の上」に立つ学徒出陣像  私の故郷、博多の奈良屋小学校の同級生で親友でもあった宅島徳光君のことについてどうしても戦争を知らない若い人たちに言い遺したいことがある。  彼の家は私の生家の近所で、地方の素封家と呼ばれる「旧式な厳格な家風」をもった裕福な家であった。なぜか私と気があって何回も彼の家に出入りした仲であったし、彼の家族の方々からも可愛がられた。  彼は福岡中学校から慶応義塾大学法学部に進み、昭和18年9月、第13期海軍飛行科予備学生として三重海軍航空隊に入隊、20年4月9日、松島基地を一式陸上攻撃機(一式陸攻)の機長として、同乗者7名とともに発進し、宮城県牡鹿郡金崋山沖に出動したまま行方を絶った。おそらく遭難死(殉職)したのだろう。  彼はすごくハンサムであった。頭も良かったし、とくに文章がうまかった。彼には八重子という恋人がいて、その若い彼女から、昭和19年6月、結婚の申し込みを受けたが、いつ果てるか明日の身もわからぬ、さだかならぬさだめを思い、自分のほうから断ったという。  また、達筆家で綿密に訓練中の日誌を遺している。題して『く…

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神風特別攻隊の戦没者数

1944(昭和19)年10月25日(フイリピン・敷島隊)から終戦の年、1945(昭和20)年8月15日(沖縄・宇垣特攻)までの神風特別攻撃隊員の総戦没者数は2483人(推定)といわれている。内訳は予科練などの出身者は1715人、飛行予備学生は649人、海軍兵学校出身者は119人でした。  エリート、キャリアは特権階級   年齢はなんと17歳から25歳ぐらいまでの少年、青年たち。とりわけ17~19歳の今でいう未成年者がその大半を占めており驚くべきものです。下の表は1943年(昭和18)年9月に志願して、土浦、三重両海軍航空隊入隊した(総数5111人)第13期海軍飛行予備学生の出身校別戦死者数で師範学校(教員養成の専門校で全国で80数校)の252が際立っています。記入してはいませんが、九つの旧帝国大学出身者は僅か33人、内特攻死は5人です。  特記したのは別に他意はありませんが、自分自身も師範学校出身であの戦争で重傷を負い南方から生還を果たした先輩に話したところ「昔も今もエリート、キャリアは特権階級。他は消耗品扱いだよ!」と天を仰ぎました。 〔注〕左ー遺稿集「雲流れる果てに」の名簿 右ー第13期海軍飛行予備学生誌からカウントしたもの。                

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映画 「雲流るる果てに」㊦

日本の文化人・三大「山田」(山田洋次、山田太一、山田和夫)と云われ尊敬の念を持って多くの人に受け入れられている一人山田和夫さん(映画評論家)が江東区の高齢者集会に来られ、映画・「今日本映画がいい」と題して講演されたことがありました。その時、この「雲流れる果てに」について触れられました。   「雲流るる果てに」    戦後日本映画は今日まで反戦平和をたゆむことなく訴え続けてきた。そのなかでとくに記憶したいのは、特攻の悲劇と向い合った作品群である。  学徒出陣で戦場にかり出された学徒たちの手記を集めた『雲流るる果てに』が家城巳代治監督によって映画化(1953年)され、学徒出陣によって海軍予備学生になり、特攻隊員と死んだ若者たちの遺書がドラマに再現された。特攻を描いた最初の劇映画作品である。  「きけわだつみの声」もそうだが、「雲流るる果てに」でも、1943年10月の徴兵猶予打ち切りで学園から出征した学徒兵たちは陸軍士官学校や海軍兵学校を出たエリート職業軍人から、露骨な差別と屈辱を受けた。「雲流るる果てに」の学徒出身兵たちもそのなかで、優先的に特攻隊に送り込まれた。彼らは複雑な矛盾をはらみつつ、死への出発日を待った。出撃予定日が悪天候で日一日と延びる。「特攻待機」と呼ばれるこの耐えがたい日日の隊員の日常が映画の大部分を占める。「何のために死ぬのか?」、もう知識人の訓練を受けていた彼らには、思い悩むことは絶えない。家族への思い、妻や恋人への愛情、故郷の山河への郷愁。家城監督は自分…

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映画 「雲流るる果てに」㊤

戦後数々の特攻を描いた映画のなかでも秀作の一つ。「雲流るる果てに」は1953年、レッドパージで東宝を追われた家城巳代治が手がけた。制作段階では、脚本はもとより構成にまで紙一重で生還した同期生(第13期飛行予備学生)、遺族の体験や意見を取り入れ独立プロ・重宗プロが制作、大映により配給され感動を呼んだ。    南国の空の涯に散った特攻隊員、  彼らの胸に去来するものは・・・     一度出撃したら生きては帰れない特攻兵。若くして南国の空のはてに散っていった学徒航空兵の遺族によってまとめられた手記「雲流るる果てに」のタイトルをかりて作られた反戦映画の名作。今日限りの命を懸命に生きる彼らの青春群像があざやかに描き出され、と同時に残酷な戦争への激しい憤りを感じずにはいられない。  昭和20年春。日本軍の勝利を信じて疑わぬ典型的な軍人、大滝中尉(鶴田浩二)と命を大切にする深見中尉(木村功)は友人であった。愛する人と別れて出撃して死ぬ者、飛行中の事故で死ぬ者、若い命が次々と失われていく。そして全員が敵の艦隊に突入する最後の朝がやってきた。飛びたつた彼らは2度ともどらないのだった。  “主観的には純粋でありながら、客観的には無駄であった特攻隊の死。その矛盾をはっきりとらえられたとき、はじめてかなしさが無駄でなくなる”という家城監督の言葉に導かれ、鶴田浩二、木村功らが追いつめられた人間の心理を名演。脚本は直居欣哉が自らの体験をもとに八木保太郎、家城監督と共同執筆した。ほかに「異母兄弟」「裸…

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特攻隊と映画人の名言三つ

あれから67年。1944(昭和19)年神風特別攻撃隊の一員として死んでいった(正確には殺されていった)兄の命日(12月15日)が近づくと思いだす凄烈な事実。癒され励まされるのは以下に紹介する映画人の名言の数々。紙一重で生還した戦友たちも90歳になんなんとしている。伝えなくてはという思いがこみ上がる。 家城巳代治 主観的には純粋でありながら、客観的には無駄であった特攻隊の死。その矛盾をはっきりとらえられたとき、はじめてかなしさが無駄でなくなる。(映画ー1953年作品・「雲流るる果てに」の監督) 毛利 恒之 戦争美談にも、特攻隊は無駄死にという意見にもくみしない、等身大の姿を描きたかった(映画ー1993年作品「月光の夏」の原作・脚本家) 山田 和夫  映画を見て私は一瞬息を呑んだ。記録フイルムで特攻隊の突入シーンがくり返し映し出される。そして最後に一機が米空母に突入する瞬間、画面は動きを止めた。そこへテロップが入る。「その瞬間、彼らはまだ生きていた」。死を強制された若者たちの命を惜しむ熱い思い、それをこれほど感じた映像表現はない。(映画評論家ー雑誌「前衛」07年9月号) 【解説】家城巳代治氏と山田和夫氏とは面識がある。 家城氏は当時あの東宝争議でレッドパージ、独立プロで「雲流るる果てに」制作に意欲を燃やしていた。クランクアップ後遺族の一人として呼ばれ意見を求められた。氏とは旧制中学(現・両国高校)の同窓であることもあって懇談したことを記憶している。山田和夫…

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10月になると甦るこの哀しさ

10月が来れば甦るのは21日の「学徒出陣壮行会」と25日の「神風特別攻撃隊出撃第一陣」のことだ。兄を亡くした「満州っ子」にとっては嘆き、悲しみ、怒りを越えて平和運動に邁進してきたが、喜寿にもなれば、もうこの痛恨の事柄を如何に後世に伝えられるかが一大テーマになってきている。  ▼神風特攻の第一陣といわれる「敷島隊」  日本海軍の連合艦隊が事実上壊滅した昭和19年10月のレイテ沖海戦。このとき、だれもが予想だにしなかった戦法が初めて採用された。飛行機による必死の体当たり攻撃。250キロ爆弾を搭載した零戦で敵鑑へ突入するという特攻作戦である。  10月25日、関行雄大尉指揮する”敷島隊”が実行部隊の第一陣といわれている。このとき新聞各紙は“神鷲の忠烈 万世に燦たり””身を捨て国を救ふ 崇高の極致”“中外に比類なき攻撃隊”などと称えた。国民の多くも、もちろん彼らの雄姿を涙ながらに称えた。そして、敗色の濃くなっていくのを心のうちに思い、非人間的な戦術に疑問を抱きながらも、“聖戦遂行”への士気を高めさせられていった。  特攻隊員の遺書が手元にある。このなかには“母上様””母を思う”という言葉とともに“美しいこの国を護る”と淡々として出撃して逝ったという。 【追記】髪一重で生き残った戦友たちも今や90歳に近く、兄を特攻として失ったものの責務は重い。“語り部”の一人として一層の努力が求められている。 

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若い命を奪った「学徒出陣」

“征け学徒、勝利は兄弟の鉄腕に”“眉あげて仇敵撃たむ”“滾(たぎ)る滅亡敵の血潮”“進め悠久大義の道”“もとより生還を期せず”“我等の屍(しかばね)越えて諸君も続け”。1943(昭和18)年10月21日の東京各紙夕刊は、一斉にこのような見出しが躍っていたという。明治神宮外苑競技場における出陣学徒壮行会の記事である。 ▼「壮行会」で行進する学徒たち  昭和16年12月の開戦以来2年。昭和18年になると太平洋の各地で敗色濃厚の軍部は即戦力としての学徒の徴兵に踏み切りました。この日は東京のみならず全国各地で、更に外地と呼ばれていた満州(ハルビン)、台湾(台北)、中国(上海)で「壮行会」が一斉に行われました。これを機にして出陣学徒の総数は推定10万人以上といわれています。  兵力を補うため、あるいは幹部士官の不足のために学舎を去ることを余儀なくされた学徒たち。一人ひとりは、どのような想いで戦場へ立って行ったのでしょう。そして、それが不帰の旅となった学徒の数は何人だったのでしょう。私の兄もその中の一人だった。10月21日という日は決して忘れない。 万死に一生 第一期学徒出陣兵の手記 (徳間文庫)徳間書店柳井 乃武夫ユーザレビュー:極限戦争という自らの ...Amazonアソシエイト by

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「雲流るる果てに」-57-

神林睦夫 [かんばやし・むつお] 東京第三師範ー東京都出身、昭和20年3月18日南九州上空で迎撃戦のなか戦死。搭乗機・零戦 22歳。(「雲流るる果てに」208~212頁)     死生の問の願ひ  父上のお風邪は如何ですか。重曹もなかなか手に入らず、栄養食とて思ふに任せぬ状勢故、充分御注意下さる様お願ひ致します。例年にない大雪であったとか、今日此頃は如何ですか。海域一年の冬が懐かしく偲ばれます。進出の二日前、真理ちゃんから父上のお心を伺ひ、現在としては只日毎の軍務に精励致して居ります。それにつきまして、今日は、私の現在の心境を語らせて下さい。  進出前に一回でよいから家へ帰れたらと思ひましたが、それも適はず遂にお暇乞ひもせずに参ってしまひました。今これから申上げること、何卒誤解のないやうくれぐれもお願ひいたします。如何なる時に、如何なる場所に、如何なる境涯に在っても、父上が育てられた睦夫は他の睦夫ではありません。この点は確かと信じて頂きたうございます。或は父上に叱られるかも知れません。しかし現在の心境としては、このまま胸に秘めただけでは居られないのであります。  前にも申したやうに、お会ひ出来れば何事もありませんが、現下の状勢に在っては、再び懐しい我家の門を潜ることも難く、我が身はただ祖国にのみ捧げるのではないかと思われます故、父上のお気持ちをお聞きしたのに更に申上げるは誠に心苦しいのでありますが、この辺りは御寛容くださるやうお願ひいたします。  (つづく)

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「雲流るる果てに」-56-

三宅精策 [みやけ・せいさく] 神戸高等工業学校ー東京都出身ー昭和20年1月6日、神風特別攻撃隊旭日隊、フィリピン、リンガエンへ向け北上中の空母を攻撃中戦死。搭乗機彗星。22歳。     母   上へ    17・10・26(手紙)  お母様お風邪をお召しになったさうですが、もう宜しゅうございますか。お忙しい時に僕が行くのでお気をお使ひになったからですね。不断は手紙を出さなかったり、時々憂鬱になるだけで好い子の積りなんですが、お母様の御側へ行くと駄々っ子になってしまふのです。これから段々に寒くなる一方ですから御無理をなさらぬやう随分御注意下さい。  今夜から秋宗さんへ行く時だけ衿を着ることにしました。部屋の内はそれでも未だ暖かなので、衿は比較的長い間着きますから、家では当分「セル」を着てゐます。護の方は円満に解決が附きました。  高工生活は充分意義があると思ひます。  「あの我儘が何を云ふか解りはしない」とおっしゃるかも知れませんが、お母様のお側にゐると全く駄目なのです。  では今日は、これで。充分御身体お大切に。  母上様               精策  二伸  風邪ももうすっかり癒りました。   18・9・27 (葉書)  御気嫌如何、私は至って元気。適性検査合格愈々海鷲の卵と決定。引きつゞき当隊に在隊。当分面会謝絶。小包は一切送って下さいますな。時節柄御身お大切に。    19・5・20 (葉書)    前略 …

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「雲流るる果てに」-55-

土屋 浩 [つちや・ひろし] 拓殖大学ー岡山県出身ー神風特別攻撃隊第26金剛隊、昭和20年1月9日、フィリピンのリンガエン湾にて戦死、22歳。搭乗機・零戦。(「雲流るる果てに」262~264頁)    櫻花を贈られて    前略 母上よりのお手紙実に嬉しく拝見致しました。めったに筆を持たれぬお母さんよりの便りだけに、それを読む時の喜び、到底筆舌に尽し得ません。  父上も相変らずの御多忙で殆んど家に居らるゝ事なき由、益々母上の務め頻繁となり、さぞお疲れの事でせう。  文二兄さんの入隊による母上のお喜び、さぞ大変なものだったことと思ひます。兄弟四人、皇国に生を享けし感激に応へ奉るべく、大いに奮闘致す日もさほど遠くないことなれば、私はこの日を唯々楽しみに致して居ります。  同封の櫻花、母上の真心こもるものだけに心より嬉しく思ひました。  私もこの櫻花の如くありがたいとは、学生時代より常日頃思ってゐただけに、今、家の庭の櫻花も手にし、感慨一入なるものがあります。     佐久良東雄先生の歌にも    ことしあらばわが大君のおほみため    人もかくこそ散るべかりけれ といふのがありますが、何といっても良いのは櫻花です。  この贈物は、今後、私の良き師良き友となることでありませう。  城山の櫻も、今年は不順のため少し遅れたらしいですが、こちらは、寒いといっても九州だけに十日程前が満開でありました。今頃あちこちの櫻が潔く散りつゝあります・・・・・・  …

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「雲流るる果てに」-54-

矢野 昇 [やの・のぼる] 中央大学ー長崎県出身ー昭和20年4月23日、沖縄方面にて戦死。25歳。搭乗機・零戦。(「雲流るる果てに」259~261頁)     お母様の眼    お母様、先日御出で下さいましたのに何等お話も出来ませず失礼いたしました。淋しいお心持のまゝお帰りだった事だらうと想像いたし、なぜもっとやさしく応対しなかったか、今更後悔して居ります。  平素御便りに申しました通り、国内も雲行が悪くなって参り、日と共に我々同志の者も次々に飛び立ってゐます。同期の者を見送るとき、いつになったら自分もあの感激が味はえるのかと、先立つ友を恨む気になるのです。しかし待つ甲斐あって、私にもいよいよ飛躍する秋が刻一刻と近づいてまゐりました。日曜日にお出下さる約束でしたが、それもはや不必要と存じます。すでに飛んだ後かと思ひますので、この便りを認める次第です。  お母様だけなりと飛び立つ我々の勇姿を一目みていたゞきたかった。それも今となってはかなひますまい。むしろ見送って下さらぬ方がいゝかとも思ひます。  お母様、考へてみますに、今日まで何一つ御恩返しのまねごとすら出来ず、不幸ばかりの数々・・・・・・お許し下さい。苦労して大学を卒へようとする私の信念に母さんは敗けて、私の学資の事については一切関係しないと固く云はれた母さんでしたけれど、上京してみると不安をいだいてゐた私に細々としたお心づくし、在学中に病気を知らせれば早速上京、夜を徹しての看護に、あゝ、母さんなればこそと、嬉し…

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「雲流るる果てに」-53-

清水正義 [しみず・まさよし] 慶応義塾大学ー東京都出身神風特別攻撃隊第三御楯隊員として菊水一号作戦に参加、昭和20年4月6日、直援機・零戦に乗って出撃、南西諸島にて戦死。24歳(「雲流るる果てに」256~259頁)    海軍志願のこと  七月三十一日発五十九信拝見しました。五十八信に同封の写真ではとても健康さうで、大部若返ったやうですね。福知山へ行く前と同じやうだとお母さんも云って喜んでをります。当方一同相変わらず元気ですが、兄さんが廣島に転任になってから丁度一月、大部慣れて来ましたが、毎日淋しいです。  昨日お父さんの手紙と一緒に来た便りに依ると、愈々待望の窓口へ出られるやうになったとか、本格的な銀行員になった訳ですね。張り切って刻苦勉励してゐることと思ひます。  前便でお知らせしました海軍予備学生志望の件ですがこれは主計志望でなく(勿論経理の予備学生もありますが・・・・・・)、兵科を志望したものです。  先月(七月)二十六日、越中島の高等商船学校で身体検査並びに口頭試問を受けましたが、  第一志望 航   空 B合格  第二志望 一般兵科 B合格 となりました。  飛行適といふことになってをりますから、多分採用されるだらうと思ってゐますが、飛行適の者は九月中旬にもう一度、身体の精密検査及び性能検査を受け、これに不合格の者は一般兵科に廻され、十月一日に入校することになるやうです。  お母さんは飛行機などと云って心配しえゐますが、死ぬ時はどんなこ…

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「雲流るる果てに」-52-

鹿野 茂ー中央大学予科ー栃木県出身、神風特別攻撃隊草薙隊、昭和20年4月28日、沖縄方面にて戦死。22歳。(「雲流るる果てに」254~255頁)    寸   言 四月十一日  朝   明朝出撃と決定  俺の名前も出た  何をする間もない  心残りは面会せず休暇もなくして出撃すること  家の人は恐らくこれ以上であらう  然しこれが戦ひの姿である  父上、母上、兄上  ここまで書くと涙が出る  姉上、妹、弟  皆元気でやれ 四月十一日  午前八時    後でトランク、荷物が届くと思ふ  今それを作ってゐる 【注】「雲流るる果てに」(戦没飛行予備学生の手記)も本稿で52篇となり、後7編(総59)で完結します。10月21日(学徒出陣の壮行会記念日)迄に終了する予定でなお続けます。

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「雲流るる果てに」-51-

岸 文一 [きし・ぶんいち] ー新潟第二師範ー新潟県出身、昭和19年10月24日、台湾沖航空戦にて戦死。22歳搭乗機・月光(二座)。(「雲流るる果てに」252~253頁)    帰子待喜    秋も深くなり裏庭で鳴く虫の音は今も変わらぬ事と思ひます。皆さんと一緒に物語った夜の数々の追憶で胸一杯になる事もあります。  屹度、御両親様始め妹弟も嘸かし私の事を片時もお忘れなく御心配下さる事と推察いたします。  五月帰省の折、妹から次の話を聞かされました。  「お母さんは兄さんの入隊以来、毎日写真の前に陰膳を供え、自分ではお茶を断ち毎晩鎮守様へ武運長久のお祈りに参拝していらっしゃる」と、私は有難くて返事が出来ませんでした。  噫、申訳ありません。私の生れる時は難産で医大で生れ、お母さんを苦しめ其の後の入院で御両親様オテルの三人で徹夜で看護下され其の慈愛の力で危機を脱し得ました。幼児入学以来土浦航空隊入隊まで家に在っても離れてゐた時もほんとに細かい処までよく手を尽し心を込めてお育て下された事が次から次と思ひ浮び、昼の訓練に疲かれ床の中で明日の仕事を考へながらも感謝の念は糸を手繰るが如くつきません。  我儘な私を今日まで骨身を削りお育て下された大恩の一片も、遂にお返し出来ず散華すると思へば、断腸の感禁ずる能はずで御座います。殊に入隊出発の前夜は歓送の宴で非常にお母さんには疲労なされてをられたのに、翌日の準備で一睡もとられず、私の打ち振る国旗のサインに「帰子待喜」と署名下され…

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「雲流るる果てに」-50-

飯沼 孟ー横浜専門学校ー神奈川県出身、神風特別攻撃隊第二魁隊、昭和20年5月11日、南西諸島・沖縄方面で戦死。24歳。 搭乗機・零式水上偵察機。(「雲流るる果てに」245~249頁)    憶ひ出の記 (4月12日)    本日朝、佐波大尉他○○○名の特別攻撃隊申渡しあり、私もその一員として加へられた。遂に正式に特攻隊員ちなったのだ。もはや何ものも無だ。何も考へるまい。純一無雑で突入しよう。沖縄ではかうしてゐる間にも、幾つかの生命が敵空母と運命を共にしてゐるのだ。  日本にだけしかない特攻隊、日本は今余裕が欲しいのだ。比島レイテ、硫黄島、西南諸島と相続いての死闘に、日本はいま疲労してゐる。この疲れを取り返すためには、西南諸島方面の敵艦船を全滅さすことだ。  午後、幾組かの飛行機○○基地へ向け進出す。館山から一緒だった高木少尉、渡辺功男一飛曹も出た。遠からず俺達も出る事だらう。人生五十年、その半分の二十五年を無事に生き抜いたことも思へば不思議なくらゐだ。子供の頃が思ひ出される。三月十七日三浦君と会ったが、これが最後であらう。三浦君も遠からず行くであらう。  突っ込む時は、どんなものであらうか?  さっぱりした何とも云へぬ気持ちだらうと思ふのだが、何となく気に掛かる。  横須賀も四月七日に帰ったのが終わりとなるかも知れない。それにしても、もう一度両親と兄弟姉妹に会ひたい。先日は母がゐないのでがっかりした。一番不憫に思はれるのは滋雄だ。あまりにもおとなし過ぎる…

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「雲流るる果てに」-49-

本川譲治 [もとかわ・じょうじ] 慶応義塾大学ー東京都出身ー神風特別攻撃隊菊水雷櫻隊、昭和20年5月11日、南西諸島にて戦死、25歳。搭乗機「天山」。    聖書を抱きて  回春の候新緑漸く萌さんとして四囲輝きを増します。  然し人の子の世界は戦乱に渦巻いて今正に、暗雲天を蔽ふかの如くであります。  先日は母上様より詳しく我が家の状況並びに都のことなどお知らせ戴き感謝に堪へません。戦局正に筆舌に尽し難く、我々も愈々最後の御奉公を致す時が参りました。幸福なる国に生れ、幸福なる家に育ち、幸福なる希望に生くる感激感謝は限りなくあります。  我らは今こそ此国のために切に祈らねばなりません。日本の隆盛、然り、天父の嘉し給ふ隆盛を切願します。「イザヤ」「エレミヤ」の言々切々たる正義の声を思ふにつけても我らは祈らねばなりません。  顧みれば私のために極めて大なる辛苦を以て色々御養育下され、唯々感謝あるのみであります。特に霊的方面に於て我が家は祝福せられあるを思ひ、如何なる外的のものも毀つ能はざる平安を感じます。  常々御両親様も仰せられし如く、私こそ幸福者の一人であると泌々思ふ次第であります。色々此時に幼かりし日の楽しき思ひ出を懐かしみます。これは人の子として当然の姿であり、決して安価な感傷に非ざることを信じます。私の恩師、多くの先生方、親戚、朋友、知人等一人一人の顔が浮びます。  一人一人御禮を書く暇もありません。呉々も何かの機会によろしくお伝へ下さい。 …

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