「神風特攻」 関連ブログ 一覧

 私のブログ「満洲っ子 平和をうたう」のメインテーマは「満洲公主嶺」、「東京大空襲」「憲法9条」に加えて「神風特攻」の四つである。とりわけ思いがこもったのは、20歳で特攻死した五兄・神島利則の生き様である。スタート以来今日ではその件数174、アクセス数は25588を数えるにいたった。     <ブログ「神風特攻」ベスト20> ①2732 淡谷のり子さんと特攻隊 ②1825 俺のことばに泣いた奴一人 ③1158 「雲ながるる果てに」 -序文ー ④1127 中村メイ子さんと特攻隊員 ⑤1087 「雲ながるる果てに」 ② ⑥1028 小森まどかさんの「切り絵」 特攻 ⑦ 692 ドイツにも特攻隊があった ⑧ 578 特攻隊員と川柳 ㊦ ⑨ 566 神風特攻隊員の言葉 世界に伝えたい ⑩ 551 「敷島の大和心を人問えば」  ⑪ 509 アメリカ側から見た特攻隊 ⑫ 484 神風特攻隊員の戦死者数 ⑬ 454 早乙女勝元さんと特攻隊員 ㊤ ⑭ 433 「雲ながるる果てに」号外 ⑮ 386 「雲ながるる果てに」 映画  ⑯ 347 「敷島の大和心を・・・」関行雄の秘話 ⑰ 305 さよなら 開聞岳 特攻機 ⑱ 294 書評 「不死身の特攻兵」 鴻池尚史著 ⑲ 283 早乙女勝元さんと特攻隊員 ㊤ ⑳ 278 学徒出陣 あれから66年  https://38300902.at.webry.info/theme/4d2c6dd9be.html

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ブログ「満洲っ子 平和をうたう」 12年目に

 私のブログ「満洲っ子 平和をうたう」がスタートしたのが2008年6月9日。今日、2019年6月9日で12年目に入る。思えば長い作業の連続だった。日数にすれば4016日。ページ数が5670だから一日平均1.41回の発信になる。よくもまあ!と驚く。ここまで続けられたのは、あの過酷で忌わしい戦争の体験を後世に伝えたい強い思いが私を鞭打ってきたからに違いない。 ■ブログ名称=満洲っ子 平和をうたう ■スタート=2008年6月9日 ■MESSAGE=「本日をもって本校を閉校とする」、ふりしぼるように校長が宣言した。時は、1945(昭和20)年8月10日。所は旧満州(現中国東北部)・新京(現長春)第一中学校の講堂でのこと。1年生、13歳だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っている最中である。前日のソ連参戦で市内は大混乱。70キロ南の生家・公主嶺(汽車通学していた)に向う列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無害貨物列車は関東軍の家族でいっぱい。武装した兵隊たちも同乗、退却しているのだ。  当時、満鉄(南満洲鉄道株式会社)・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、居丈高の憲兵の命令は、「軍関係者を優先して転進させろ!他(ほか)はどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態追いやられたことは周知の事実だ。    四兄(四郎)はシベリアに連れ去られ戦犯に。五兄(利則)は神風特別攻撃隊の一員としてフイリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だっ…

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中村メイコさんの「特攻隊慰問」

 東京新聞の夕刊に「この道」というコラムがある。著名人の起伏に富んだ半生記をつづったもので興味を引かれ好読み物である。以下は2009年3月ごろ俳優の中村メイコさんが書いた39回目のもの。題して「特攻隊慰問」。一度このブログで取り上げ、アクセス数もベスト14位(現在1120回)にランクされている。再録する。  「奈良には文化財がいっぱいあるから爆撃はないだろう」と考え、疎開先を決めた父のもくろみは見事に当たりました。  すぐそばの大阪にはぼんぼん空襲があるのですが私たちが暮らす富雄村はまだまだのどか。つらいといえばつらいけれど、それほど悲惨でもない日々を私は過ごしていました。  「特攻隊の慰問に行ってもらえませんか」そんな依頼が軍からあ舞い込んだのは、敗色も濃厚となった昭和20年に入ってからのことでした。  反戦主義の父は、幼い私を特攻隊の慰問に行かせるなんて大反対。対して、感激屋の母は、むしろ「お役に立つことなら」といったふうでした。いずれにしても、これは軍からの命令。他の仕事と違い、断ることは許されませんでした。  私の他に、若い女優さんとして美佐子姉ちゃまも慰問団に加入。「軍属待遇」だった私たちは戦闘機に乗せられ、戦地へと向いました。  飛行機はどこから飛び立ち、どこに降り立ったのか、行き先はアッツ島か。はたまたトラック島か。軍事機密保持という理由で、私たちは移動中ずっと目隠しをされており、行動はすべて軍の監視下にありました。  内地の鹿児島・知覧も含めて、少なくとも六回…

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「大和」乗員を救助の元少年兵が手記

 太平洋戦争末期、74年前の4月7日、戦艦「大和」は沖縄に向う途中、米軍機の猛攻を受け、東シナ海に沈んだ。護衛した駆逐艦「雪風」の乗組員だった西崎信夫さん(92)=東京都西東京市=は、かんじょうから見届けた大和の最期や自らの戦争体験を、手記「『雪風』に乗った少年」(藤原書店)にまとめた。戦争のむごさ、理不尽さを、令和の時代に語り継ぐ(東京新聞6日付夕刊ー加藤行平) 【追記】昭和20年4月7日 戦艦「大和の最期  https://38300902.at.webry.info/201704/article_8.html

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「特攻へ新聞記者の美辞麗句」 特攻兵の川柳

 戦後74年、1945(昭和20)年の4月。沖縄で神風特攻死した4人の学徒出陣・海軍飛行予備学生。彼らは合作で「川柳」百句を作り飛立った。  6日と11日の両日、相連れ立って突っ込んで行き、帰らぬ人となった。彼らがどのような心情で作成したのか推し量る術もないが、読むほどに胸に迫る。  戦死した4人の若者たちの(奇しくも4人とも23歳)の「17文字の短詩」は川柳がもつ特性の「あてこすり」や「こっけい」を超えている。自らの宿命(さだめ)の理不尽さを内に秘めつつも淡々として書き連ね、むしろ虚空に向ってレジストしているように思われ、読むものをしていっそうの哀感を誘い、今に怒りを伝えてくれる。 【注】これまで何度かブログで書いている。ご参照下さい。  http://38300902.at.webry.info/201004/article_3.html http://38300902.at.webry.info/201004/article_4.html

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「もう帰ってくるな!」と基地司令官

 通説では神風特別攻撃隊の第一陣は、1944年10月25日、関行雄大尉率いる「敷島隊」といわれているが、実情は同隊がフイリピンのマバラカット基地を飛び立ったのは21日であった。3度出撃したが索敵不能でその都度引き返してきたという。  4度目の離陸の直前、なんと基地司令官は「もう帰って来るな」と言ったという。写真は何時の日か定かではないが、見る限りでは杯を重ねているところを見ると、どうやら一回目のものと思われる。  「第13期海軍飛行予備学生誌」によると24日には大和隊の予備学生・久能中尉が既に突っ込んでいた。軍司令部は軍神の第一号は海軍兵学校出身でなければ面目が立たないということで発表を遅らせ、前出の「帰ってくるな」という指示になったという。 【注】「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜かな」といえば”知る人ぞ知る”一首。太平洋戦争の末期1944年10月、神風特別攻撃隊の先陣を切った5隊のネーミングに使われた本居宣長の短歌である。敷島、大和、朝日、山桜という美名に当時の若者はあおられるように死地に旅立った。

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[資料]  雲ながるる果てに 終

 「庭に咲く桜はいつまでも 『反戦の花』を咲かせつづけよ」 特攻名簿にある84名のうち生き残りは私一人。あから私は、彼らを語り継ぐ寺坂吉衛門でありたい。(木名瀬信也元海軍大尉)

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[資料] 雲ながるる果てに ④

 「自爆テロとは異なる特攻隊 平和こそ彼らの真の遺言」 死んだ人々は、還って来ない以上 生き残った人々は 何が判ればいい -ジャン・タルジュー

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[資料] 雲ながるる果てに ③

 さまざまな想いがよみがえってきました。ちょうど60年前、昭和19年、フイリピンのネグロス島沖に神風特別攻撃隊の一員として突っ込んで行った当時20歳の愛唱歌のひとつが「別れのブルース」だったのです。(2008年2月20日制作)

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特攻の最期、73年経て特定

 鹿児島県の鹿屋基地から零式艦上戦闘機(ゼロ戦)で出撃した特攻隊員の西口徳次中尉=当時(23)=が1945年4月、沖縄近海で米軍の駆逐艦ヘイゼルウッドにと突入した直後に同艦が体破、炎上している状況を記録した約2分半の映像が見つかった。27日、京都市内で開かれた慰霊祭で上映された、遺族らが73年を経て最期の様子を目にした。(東京新聞5月28日付) 【注】西口徳次海軍中尉は第13期海軍飛行予備学生で、フイリピンで特攻死した私の兄・神島利則中尉と同期生。大阪市出身、関西大卒。

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沖縄で特攻死した学徒兵の川柳

 学徒出陣、神風特別攻撃隊の一員だった及川肇、遠山義雄、福知貴一、伊熊二郎海軍中尉(奇しくも全員23歳)。合作で生前、川柳を書き残して、昭和20年4月6日、11日に沖縄・南西諸島に飛び立ち帰らなかった。    哀感を誘われ 今に怒りを覚える    「川柳辞典」には「川柳とは季節や切れ字などの制約はなく、口語を用い、滑稽、風刺、機知などを特色とした17文字の短詩」とあるが、ここに紹介する神風特別攻撃隊で戦死した若者4人の川柳は、「あてこすり」や「こっけい」を超えています。自らの運命(さだめ)の理不尽さを内に秘めつつも、淡々として書き連ね、むしろ虚空に向ってレジストしているように思われ、見るものをして一層の哀をが誘われ、今に怒りを伝えます。 【リンク】http://38300902.at.webry.info/201004/article_3.html 

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書評 「不死身の特攻兵」 鴻池尚史著

 しんぶん「赤旗」は毎日曜日(2月4日)、話題の本について「読書室」に書評を載せているが、今回は纐纈 厚山口大学教授が書いた、「不死身意の特攻兵」。「『戦果』よりも『死ぬこと』を強要する『命令した側』の責任を厳しく追及する」とする氏の言葉に強く共感する。     命令した側の責任を厳しく追及  (前略)戦争を継続する戦力も底をついた現実を直視しない上官たち。一部の例外を除き、己の面目のために、特攻兵に死を強要し続ける。著者は、「特攻はムダ死にだったのか?」と問う。だがその問自体が戦死者への冒涜だとする。戦死者を深く記憶し、冥福を祈り続ける行為こそ大切だと説く。その上で、「戦果」よりも「死ぬこと」を強要する「命令した側」の責任を厳しく追及する。  現在、再び戦争の危機の時代を迎えようとしている。愛国主義の喧伝(けんでん)のなか、再び狡猾(こうかつ)な言葉で国家に殉ずることを美徳としかねない言説が振りまかれている。その流れを断ち切るためにも、本書は生かされるべきであろう。

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兄特攻死 ㊦ 「別れ船」は反戦歌

 1944(昭和19)年12月、フイリピンで特攻死した兄が、学徒出陣の「別れの宴」でうたった歌が田端義夫の「別れ船」だった。その田畑義夫が惜しまれて亡くなった。東京新聞が「筆洗」(2013・4・27)で、彼の歌声は昭和の記念碑だったと書いた。 ▼「別れ船」の歌詞  その歌声そのものが、昭和の記念碑だった。きのう94歳で亡くなったバタやんこと田端義夫さんの歌には、戦争と再出発という時代の喜怒哀楽が、封じ込められていた▼♪名残りつきない 果てしない 別れ出船の銅鑼(どら)が鳴る 思いなおして あきらめて 夢は汐路に捨てていく・・・。デビューの翌年、1940年に出した「別れ船」には、戦地に赴く兵士の心が刻まれた▼敗戦翌年のヒット曲「かえり船」は、傷ついた兵士を迎える歌になった。♪波の背の背に ゆられてゆれて つきの潮路の 帰り船 霞(かす)む故国よ 小島の沖じゃ 夢もわびしく よみがえる・・・ ▼田端さんは、復員兵を乗せた列車が到着する大阪駅のスピーカーからこの歌が流れるのに居合わせた。皆じっと聞き入り、、涙を流す人もいた。その時、歌手になって本当によかったと思った、と自伝「オース!オース!オース!」に書いている、(以下略) 【別れ船】 http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-wakarebune.html

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兄特攻死 ㊥ 「ダンチョネ節」を歌おう

 今日は12月15日。子どものころから目をかけてくれ、可愛がってくれた五兄(利則)が、1944(昭和19)年、フイリピンで神風等別攻撃隊の一員として、20歳で死んだ日だ。あれから73年。身内はもう僕一人になった。供養する家族はもう他に誰もいなくなった。      遺影の前で「沖の鴎(かもめ)」をうたおう      だから、今晩は遺影に一輪の菊の花を手向けて、彼や特攻隊員が生前自らを「カモメ」になぞらえ好んで歌った「ダンチョネ節」をそっと歌おう。飲んではいけない酒も少し入れて・・・。ひと時も経たずに酔いが回ってくるので、「明日はお立ちか」を口ずさみながら眠りに入っていくはずだ。 【沖のかもめ】   この歌は戦時中、特攻隊員が出撃の前夜、送別の小宴で決まってうたった歌という。そろそろ酔いがまわりかかったころ、故郷の山や川をおふくろの涙を、そして彼女の眼差しを思い出し、眼をしばたたきながら半ば虚ろ気味でうたった「さよなら」の唄。  神奈川県三浦岬の民謡が元歌。替え歌として飛行気乗りの悲哀を歌詞しにした。特攻隊節として知られている。「ダンチョネ」とは『断腸の思い』を模したものとされている。  【神島利則】   兄・神島利則(かみしま・としのり)大正13年1月3日、旧満州・公主嶺生まれ。公主嶺小学校(28回生)卒業後、新京第一中学校を経て拓殖大学に進む。1943(昭和18)年9月、第13期海軍飛行予備学生として土浦海軍航空隊に入隊。  1944(昭和19)年10月、台湾…

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兄特攻死 ㊤ 「海ゆかば」は反戦歌

 「海ゆかば」という歌があった。戦争を体験した人なら誰もがこの歌を聞いて身を締め付けられるような不思議な感情に襲われ、歌って涙したものです。万葉の歌人大伴家持(おおとものやかもち)の詞に信時 潔(のぶとききよし)が曲をつけました。 太平洋戦争の末期、ラジオのニュース放送の冒頭にこの曲がながされると、いつも襟を正し、座り直したものです。それは悲しい知らせだったからです。アッツ島に始まったサイパン、テニアンなど玉砕(全滅)の報道でした。その対極にあったのは、「軍艦マーチ」「抜刀隊の歌」でした。大本営による初戦の大勝利の戦果発表はともかく、昭和19年いごはそのほとんどが虚報でしたが、、奏でられる威風堂々(当時の小国民は皆そう思った)の調べに欣喜雀躍して拳を突き上げていたものです。      今はもう反戦の歌に聞こえてしまう    戦後72年、あの時代を今に重ね合わせると複雑な思いにかられます。戦争を知らない世代が今、戦争を語り始めています。若い「知たり顔」の国会議員が、行け行けどんどん、のノリで北朝鮮、国際貢献を語り、憲法「改正」を語るに及んでは、「戦争を頭で考えたらいけない、体で感じないと、あの恐ろしさは分からない」の思いを強く持つのは私だけではないでしょう。再び繰り返してはならない「歌」それは「海ゆかば」です。 【追記】 ① 右写真は昭和18年12月21日、神宮外苑競技場で行われた「学徒出陣壮行会」。分列行進曲のあと、最期に会場いっぱいに合唱したのが「海ゆかば」と聞く。 …

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だから もう 「別れ船」は歌わない

 神風特攻隊の一員として21歳で戦死した兄、利則。彼が学徒出陣で海軍に入隊する前夜、ギターをつま弾きながらうたった歌が「分れ船」だった。あの田端義夫の持ち歌で、戦後、復員兵たちが船のなかで聞き、涙した「帰り船」とともに一世を風靡した。  望みはるかな波の背に  誓う心は 君故に  せめて時節の 来る迄は  故郷(くに)で便りを  待つがいい  「別れ船」(昭和15年)と、「帰り船」(昭和21年)の明暗はくっきりしている。「別れ」は出征した兵士の帰還がかなわず、という失意の歌。「帰り」は待ち望んでいた兵士たちが帰って来たという歓喜の歌だ。彼は自らの来るであろう運命(さだめ)を言葉にできず、歌に託したのだろうか。それかあらぬか、八十八で他界したおふくろがしばしば口ずさんでいたのが「別れ船」の一節、「故郷で便りを待つがいい」だった。そう、だから、もう僕は「別れ船」は歌わない。

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戦死した兄の遺影に出会い 涙こぼれる

 昨日、故あってここ20数年来、疎遠を余儀なくされていた長兄(神島一男)の娘(姪=瑛子)から、特攻死した五兄の遺影と経歴が送られてきた。驚きとともに見入るほどに胸に迫り、涙さえこぼれてきた。21歳で神風特攻撃隊の一員として還らぬ人になった神島利則海軍中尉の凜とした眼差しに吸い込まれるよう、72年目の再会だ。 ■神島利則(かみしま としのり) ・戦線      海軍比島方面作戦 ・戦死年月日 昭和19年12月15日 ・隊名     第7金剛隊 ・階級     中尉(戦死時の階級) ・年齢     21歳 ・出生年    大正13年1月3日生 ・出身地    旧満洲 公主嶺市 花園町 ・出身期別  第13期海軍飛行予備学生 ・出身学校  拓殖大学 ・出撃基地  セブ島 ・出撃機種  零式艦上戦闘機 ・戦死場所  ナソ角90度45浬  ・辞世の句  たまちりて おほみ心に かなひなば 何惜しからん 我が命かも   【追記】同封で一枚の写真が入っていた。それには「12月15日午前、スルー海を航行する護衛空母艦をめがけて急降下態勢につく零戦。5インチ砲弾、40ミリ砲弾が襲った。」(米軍撮影)との解説がある。15日出撃した零戦は19機、もしや兄利則の搭乗機ではないだろうか?と思い、しばし釘付けになった。  私のブログには「神風特攻」をテーマで、これまで155頁にわたって書き続けてきたが、彼の写真が一枚も添付されてなかっただけに思いが募ってくる。 【神風特攻…

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昭和20年4月7日 戦艦「大和の最期」

 1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸して以来、沖縄・南西諸島では陸・海・空で死闘が繰り広げられていた。そうした中、戦艦「大和」が沖縄戦最期の切り札として、呉軍港を出航したのが4月6日。そしてこの日出撃して帰らなかった特攻機は陸海あわせて420機だった。          この日 多くの若者が特攻死した   不沈戦艦といわれた「大和」は6日、沖縄をめざし、片道燃料で呉軍港を出航、乗員3332人もろとも翌7日、奄美大島東方海上で撃沈された。護衛の駆逐艦「夕風」にのり、撃沈され海中に放り出された知人(村上旭平さん)が勤め先の昼休みなどでその時の壮絶な模様を語ってくれた。海上を漂流すること8時間、かろうじて救出された彼は、その後秘密の漏洩を防ぐため、佐世保の某所に数週間、隔離されたという。この戦闘の生存者は記録によると二百数十人だった。 【注】 「戦艦大和の最期」を読んで  「『戦中派』の世代の生き残ったことで存在を認められてものではない。本来ならば戦争に殉死すべきものであり、たまたま死に損なったとしても、生きて戦後の社会をわが眼で見たことに意味があるのではなく、散華した仲間の代弁者として生き残ることによって、初めてその存在を認められるのである」と、吉田満が「戦艦大和の最期」に書いているのを読んでいたく感動したことがある。

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「もう、帰ってくるな!」 と、基地司令官

 「敷島の大和心を人問えば朝日に匂う山桜かな」といえば知る人ぞ知る一首。太平洋戦争の末期、1944(昭和19)年10月、神風特別攻撃隊の先陣を切った4隊のネーミングに使われた本居宣長の短歌である。若者は敷島、大和、朝日、山桜という美名に煽られて死地に飛び立った。    恐るべし 「もう、帰ってくるな!」     通説では神風特攻の第一陣は1945(昭和19)年10月25日、関行雄大尉(海兵70期)率いる「敷島隊」(写真)と言われているが、実情は敷島隊がフイリピン・ルソン島のマバラカット基地を出撃したのは21日。同隊はその日から三度(みたび)出撃するも、悪天候のため索敵できずその都度帰投した。4度目の出撃は25日。そのとき基地の司令官が隊員たちに言い渡したのが、恐るべし、「もう、帰ってくるな!」だったという。 【注】消息通によると24日には、大和隊の飛行予備学生・久能中尉がすでに突っ込んでいた。軍司令部は、軍神の第1号は海軍兵学校出でなければ面目が立たないということで、発表を遅らせ、前出の「帰って来るな」という指示になったという。  右は昭和19年10月29日の朝日新聞、「神鷲の忠烈萬世に燦たり」との見出しが躍っている。

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「10月になると思い出す」 学徒出陣

 今日は10月21日。1943(昭和18)年のこの日、昭和初期の世代の人なら忘れもしない小雨降る神宮外苑での「学徒出陣壮行会」。参列した学生たちのうち何人がふるさとに帰ってきたでしょうか。紙一重で生還を果した人たちも、生きながらえていれば90歳を過ぎ、もうほとんどの人が黄泉の世界に逝ったことでしょう。    彼らの願い、思い 語り伝えたい    10月になると必ずといっていいほど思い出します。昭和の戦争史を振り返ってみましょう。フイリピンはレイテ湾方面に日本の未来を思い、若者たちが帰りの燃料のないゼロ戦に搭乗、特別攻撃隊のさきがけととして突っ込んでいったのが1944(昭和19)年10月25日と言われています。学徒出陣から1年目のことです。  私の兄、利則も同年12月15日、神風特別攻撃隊・第七金剛隊の一員として戦死。21歳でした。      死ぬことだけが唯一の選択肢   手元に彼の同期生(昭和18年8月、113期海軍飛行予備学生として志願、土浦・三重航空隊に入隊)たちが、戦後間もなく編集・発行した遺文・遺稿集(「雲ながるる果てに」)があります。ほとんどの遺文は母を慕い、妻をいたわり、子たちをはげまし、この国を行く末を思いやるものばかり、心に迫ります。  詠むほどに彼らの悲哀が伝わります。彼らの多くは気負いもなく、淡々として、当時の若者としては死ぬことだけが唯一の道、ほかに選択肢のない道程を踏んで言ったのです。ごくごく普通の一人の男として・・・。  若者がたどっ…

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甦る 兄の戦友からの年賀状

「明けましておめでとうございます。いつの間にか。80代最後の正月を迎えることになりました。多くの戦友知己に先立たれ、哀しさを感じています」。これまでの年賀状を整理していたら、こんな文面のものに思わず釘づけになった。それは木名瀬信也先輩の手書きの賀状だった。    ざわわ・ざわわと    大きな悲しみ運んでくる  今年は念願の沖縄・「平和の礎」参詣の旅に、ご遺族とともに参加する予定です。私自身も加わるはずであった特攻筑波隊の面々が、憶い出されてなりません。「さとうきび畑」の歌がざわわ・ざわわと、大きな悲しみを運んでくるのです。あなたに、穏やかな希望の光が充ちあふれ、元気でお過ごしになるようお祈り申し上げます。平成21年 元旦 木名瀬 信也。 【追記】木名瀬さんが96歳で亡くなられた。。木名瀬信也元海軍大尉は、昭和19年12月、フイリピンで特攻死した兄の戦友。第13期海軍飛行予備学生に志願して土浦海軍航空隊に入隊したとき、同じ分隊、班に属し、入隊の説明会には兄の隣席にいたという戦友中の戦友だった。  彼は抜群の成績ゆえ教官として本土に残り、敗戦まで、とりわけ沖縄戦で多くの戦友を見送ったという。奇しくも東京府立3中出身の彼は大先輩(僕は都立3中)で、同窓会では兄の話で持ちっきりだったことが思い出される。その彼が逝った。もう「特攻隊」は歴史上の一つの逸話として消えていくのかも知れない。 (後列左から3人目木名瀬信也さん)

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新 満州・公主嶺小同窓誌 エピソード -14-

昭和20年4月、私は特別幹部候補生として千葉の騎兵学校に在学中、病気のため千葉陸軍病院に入院、そこで「とんちゃん」こと神島利則君が神風特攻隊の一員として戦死したことを知った。(437頁上段)        神島利則君をしのぶ             三村 勉(28回生)    同じ公主嶺に生まれ育ち、小学校まで過ごした。私とは全く対照的な性格の持ち主であったが、何となく気があって、よく一緒に行動した。  彼は新京一中へと進み、汽車通学をしていたが、よく車中で私の所へやって来て数学の質問をしてきた。商業科目が余り好きではなかった私にとって、彼と数学をやることは大変楽しいひとときだった。  彼は小柄ではあったが、からだ一杯にあふれるような精気に満ちていて、その独特な身構えが実に見事であった。その生き方も憎めない暴れん坊といった調子であった。  中学4年の終わりごろ、その大暴れが原因となって、中学を退校処分となる騒ぎとなった。私は単身、中学に乗り込んで説得した。学校側との話し合いで、彼は中学4年修了の資格で拓大の3年制予科の1年に入学した。昭和15年の春のことであった。 【注】三村 勉さん(右写真)は小学校は公主嶺小学校では同窓だたが中学は新京商業。しかし、無二の親友だったという。戦後は音楽の道に進み、日本ハープ音楽院長をつとめた。1995年6月4日に旧友から惜しまれ71歳で没。

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昨日は兄貴が死んだ日 「ダンチョネ節」歌う

昨日は12月15日。子どものころ可愛がってくれた兄貴が、1944(昭和19)年、フイリピンで神風特別攻撃隊の一員として、21歳で死んだ日だ。あれから71年、身内はもう俺一人になった。供養する家族は他に誰もいない。  だから、昨晩は遺影に一輪の花を手向けて、彼が生前好んで歌った「ダンチョネ節」をそっと歌った。飲めない酒も入れて・・・。        ダンチョネ節  沖の鴎と飛行機乗りは  どこで散るやらね  はてるやら ダンチョネ  おれが死ぬとき ハンカチふって  友よ彼女(あのこ)よね  さようなら だんちょね      だいぶ酔いが回ってきたので、「明日はお立ちか」を口ずさみながら眠りに入っていった。

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あのとき歌った この歌 -30-

日本の敗色が濃くなった1944(昭和19)年、中央大学の学生たちも勤労動員に駆り出され、軍需工場で働いていた。これらの動員学徒にも、次々と召集令状が舞い込み、毎日のように誰かが入隊していった。  1945(昭和20)年3月、応召する中央大学生の見送りに際して、同じ工場で働いていた東京女高師(現お茶の水大)の女子学生から、一篇の詩が贈られた。     2.別れと言えば 昔より    この人の世の常なるを    流るる水を 眺むれば    夢はずかしき 涙かな    それは島崎藤村の詩(若菜集)の一部を変えたもの、情感あふれる藤村の詩は、灰色の濃い雲間から射す陽光のように中大生の胸をうち一年生の藤江英輔が曲をつけた。以後仲間を送り出す際、友情と別離の思いをこめ、この歌がうたわれるようになった。  兄は中大出身ではないが学徒出陣でフィィリピンへ、特攻隊の一員として出撃する際の情景とこの歌が重なる。

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あれから70年 特攻死した兄をしのぶ㊦

昭和62年に旧満州 公主嶺小学校の同窓会が発刊した「満州 公主嶺過ぎし40年」という記念誌がある。そのなかには特別に紙面が割かれ、少年時代の同窓生が書いた兄・神島利則への追悼文が2篇掲載されている。いずれも友の死を悲しみ、追憶の言葉で刻まれている。       豪快に生きた神島君    敗色濃い太平洋戦争末期のころ、海軍の予備学生として横須賀対潜学校で猛訓練をうけていた私は、公主嶺から「神島利則君、特攻隊員として戦死」の通知を受けた。「ヤッタカ!」。走馬灯のように在りし日々が思い出され、当夜は一睡もできなかった。  彼とは小学校1年から6年まで、一緒に育った親友だった。駅の東、泰平橋を渡って鮫島通り左側に彼の家、トミヤ洋品店があり、そばの公園でよく遊んだものである。彼もまた菊池町のわが家に来てくれた記憶も浮かんでくる。  新京一中時代も豪快な少年であった。小柄だったが、気性は激しく、確か柔道部の黒帯だったと思う。硬派でスタイリストのたえか、数人の上級生ににらまれ、鉄拳制裁をうけ、顔面変形しながらも、翌朝堂々と登校し、制裁を加えた連中の前に立って、目をむきだしたときは、驚き、あきれた。  昭和17年夏、新宿の街角で、羽織袴に高下駄、腰に手拭の拓大スタイルの彼と出会った。物資不足の折柄、盃を重ねることもなく別れたが、豪快な態度が、いまもなお脳裏にに焼き付いている。(小佐井 守=同期生)        神島利則君をしのぶ    昭和20年4月、私は特別幹部候補生と…

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あれから70年 特攻死した兄をしのぶ㊥

1944年12月15日、満洲・公主嶺小学校出身の神島利則海軍中尉がフイリピンで特攻死した。あれから70年、1962年に発刊された「同窓会誌・満洲・公主嶺 過ぎし40年の記録」に2ページを割いて彼の生き様が記述されている。以下紹介する。なお、同記事は土屋洸子さんが執筆したものと聞いている。  神島利則と第七金剛隊    神島利則(かみしま・としのり=28回生)は、公主嶺小学校を卒業後、新京一中に入学し、その後拓殖大学に進んだ。昭和18年9月、第13期飛行科予備学生として土浦海軍航空隊に入隊し、飛行訓練を受けた。19年10月ごろ台湾の台南海軍航空隊に移り、台湾航空戦に参加した。その後、フイリピンの第一航空艦隊第201航空隊に配属され、19年12月11日、連合艦隊布告第85号により、神風特別攻撃隊第七金剛隊に命ぜられた。    第七金剛隊には、澤本裕嗣中尉(金沢出身)を指揮官として、神島中尉、織田真伉中尉(いずれも第201航空隊付・13期予備学生)、若林良茂上等飛行兵曹(戦闘第302飛行隊付)、佐藤国一上等飛行兵曹(戦闘第316飛行隊付)の5人の名前がある。  昭和19年12月15日午前6時30分、第七金剛隊は、特別攻撃隊として戦闘爆撃機6機、直援機として艦上戦闘機4機の編成でセブ島の飛行場を発進した。目標はレイテ湾のアメリカ軍中型輸送船であったが、戦果は不明である。未帰還機は7機。神島も遂に帰らなかった。享年21.20年5月、中尉から少佐に二階級特進された。  雲雀孝…

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あれから70年 特攻死した兄をしのぶ㊤

兄・神島利則(かみしま・としのり)海軍中尉(1923~1944)昭和19年12月15日、この日神風特別攻撃隊・第七金剛隊の一員としてフイリピンで突っ込んでいった。享年21歳。彼の故郷は当時日本の支配下にあった旧満州・公主嶺。母神島トミが利則戦死の通知を受けたのは同月23日のことだった。      利則が死んだ どうして なぜ  市公所(市役所)から知らせを受けた母の衝撃は尋常でなかった。「トンちゃん(利則の愛称)が死んだんだって」「なぜ」「どうして」と問い正すように空の一点をにらむ彼女。その母をどうしたらいいのか分からなかった国民学校(小学校)の6年生の僕。後に養父になる永井時三郎氏(戦後母と再婚)はポロリと涙を一滴、いたたまれずその場を外した。彼は生前「後を願います」という兄との固い約束をしていたという。そのときの記憶は70年もたった今でも鮮明だ。  情報は新聞紙上に掲載された大本営海軍部の発表だけ、「軍神」に続けと大書してあるだけ。これは後で知ったことだが情報を綜合すると次のようになる。     俺は行くしかない おふくろを頼む    「1944(昭和19)年12月10日、0630(午前6時30分)、フィリピン・セブ海軍航空隊基地出撃。250キロで爆装のゼロ戦3機、直援戦闘機2機、ネグロス島周辺のアメリカ輸送船団を攻撃するも戦果不明、前期未帰還」。前夜彼が部下(整備兵)に託した僕宛の書置きにはこうあった「誰のためでもない、俺は行くしかないんだ、。お前は男だからお…

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コラム「雲流れる」永井至正⑩

1940(昭和15)年、世は戦時色にあふれていた。8歳の小学生の私は兄に手をとられて九段坂を上っていた。「いつか、きっとここで会えるからからなあ・・・」。よく覚えていてくれと言われていた。 ▼1946(昭和21)年の春、あたりは焼け野原、そんな中で、靖国神社をたずねた。だがそこには兄はいなかった。「~春の梢に咲いて会おう」(同期の桜)を本殿で歌う同期生とその遺族の目はうるみ、うちふるえていた▼毎年10月になるとさまざまな思いがよみがえって来る。1943(昭和18)年10月21日、雨ふりしきる神宮外苑での学徒出陣壮行会。翌年の10月25日は、神風特別攻撃隊の先陣がフイリピンで突っ込んでいった。以後、終戦まで、3千人を超える若者たちが帰らぬ空に飛び立っていった。その中に兄もいた ▼鹿児島県知覧町の「知覧特攻平和会館」で若き兵士たちの遺影を前に立ちすくみ涙した小泉首相。「ああ同期の桜」という第14期海軍飛行予備学生の遺稿集に感動し、鎮魂の想いで首相は靖国にいくという。「いろいろ」口癖のコイズミ首相。靖国への思いは一つでなくていい。ただ一つ同じでなくてはならないもの、それは、本当に「もう二度と戦争はしない」だ。先の大戦で多くの日本人は肉親をなくし、日本軍は数多くのアジア人を殺し、傷つけた▼今月末にも出されるであろう自民党の新憲法草案には、憲法9条にある「戦争の放棄」について「武力行使」が可能になるような文言が入ってこないだろうか。仮にもそのようなことがあれば「靖国の英霊」たちは何と言う…

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