「佐藤真子さん」 関連ブログ 一覧

 2004年6月の「関東・東京高齢者集会」での歌唱が始まりだった。その時の「別れのブルース」がストンと胸に落ちた。特攻死した五兄の愛唱歌だったからだ。それから彼女のコンサートには足しげく通い、HP、ブログにも載せた。ページ数332、アクセスは47316を数えた。        <アクセス ベスト10> ①2732 淡谷のり子さんと特攻隊員 ② 870 佐藤真子さんと「満洲っ子」 ③ 741 映画・「無言館」の完成間近 ④ 733 5月24日は「らいてう忌」 ⑤ 709 佐藤真子と「無言館」の歌詞 ⑥ 566 夏 「禁じられた遊び」うたう ⑦ 480 CD 「らいてうをうたう」歌詞 ⑧ 427 佐藤真子さんと戸梶江史子さん ⑨ 412 佐藤真子さん「無言館」歌う ⑩ 402 佐藤真子 東京大空襲 歌う https://38300902.at.webry.info/theme/05fad21aee.html

続きを読む

「牛山れい子さん」 関連ブログ 一覧

 全国空襲被害者連絡会の役員として長年務められた牛山れい子さん。亡くなられたのは17年2月8日だった。以来「会」の中心部に穴が開いたような状態の回復は、容易ならず今日に至っている。本ブログでは彼女の功績を追ってこれまで157回に渡ってサイトにアップしてきた。以下はその足跡である。        <ブログランキング・ベスト12> ①314 「合唱団この灯」 20周年 演奏会① ②211 佐藤真子さん 信州で歌う ③184 愛と平和と感動の旅 ④169 平和な日本の明日へ 空襲連結成4年 ⑤153 魯迅「もともと地上に道はない」 ⑥132 心でつなぐ 陸前高田の絆 ⑦129 牛山れい子さん ブログ一覧 ⑧128 「合唱団この灯」 2016年演奏会 ⑨124 佐藤真子さん 過ぎ行く2011年を歌う ⑩123 西田美代子さん 歌って語る ⑪121 「この人と1時間」 牛山れい子さん ⑫120 Masako Sato's singing in 【注】アクセス総数は6988です。   https://38300902.at.webry.info/theme/bebe3cadb2.html

続きを読む

6月19日 「ひめゆり学徒隊」 集団自決

   1945年4~6月の沖縄戦。追い詰められた日本軍は6月23日、牛島満中将の自決で組織的抵抗は終わった。それより先、女子学生らは看護婦として徴用され、負傷者への看護に献身していたが、4日前の19日、集団自決した。彼女らが卒業式に歌い、戦後も歌い継がれてきた歌に『別れの曲』がある。かつてあるコンサートで始めて聞き、その哀調を帯びたメロディーに涙したことがある。 ■別れの曲(想思樹のうた)

続きを読む

おふくろが口ずさんだ 「サーカスの唄」

 ♪「旅のつばくら 寂しいかないか おれもさみしい~」、頃は1937(昭和12)年、所は旧満州・公主嶺(現中国東北部)という小さな町。おふくろが内職の手を休めず、レコードからながれる歌にあわせて口ずさみます。哀調漂う「サ-カスの唄です。  夫とは別離状態。幼子3人を抱えて、いまでいう「母子家庭」。「大正」のはじめ、17歳。見合い写真で単身渡満(とまん)。親父はあのシベリア出兵に追従するなど、関東軍のご用商人。放埓無頼(ほうらつぶらい)で行方知れず。そんな女の異国の地でうたう歌は、いつもとぎれ、とぎれ、それも気分はハイ(高い)なとき。  蓄音機のゼンマイがきれかかって「ブーン・ウーン」と鳴り出すと、キット、こちらをみて、「ボヤーっとしないで巻きなさい」とせき立てます。  明治29(1897)年石川県金沢生まれ、戦争で息子2人を失い、壮絶な「昭和」を生き抜き「戦争だけはダメ」が口癖の、秘めた女の決意と憂いが今にせまります。(10年前、母の日に書く=写真)

続きを読む

「石碑の誓い」 炭になって 永井和子

 連休中のこと、突如電話が鳴った。「私、作曲をしている○○と申します。実は『東京大空襲・戦災資料センターを介して、永井和子さんの『炭になって』という詩を見ました。今、東京大空襲、沖縄、広島、長崎の四つをテーマに組曲を考慮中ですが、永井和子さんの「迫ってくる至極のことば」を曲に組み入れたいと思い、お願いを・・・」という内容だった。  小生、許諾を云々する立場にはないが、すぐさまOKを出してしまった。帰宅した息子に伝えると「ホー、いい話だ」と頷(うなず)く顔に、こちらは「オー」。 【注】「炭になって」は1976年8月15日発行の「写真集ー石碑の誓い(9P)」に所載の詞

続きを読む

「この道」 加藤登紀子 -2-

 日本が敗戦へと転げ落ちそうな時、満州ではまだ、平和な平和なひびが続いていた。ところが八月九日のソ連参戦と終戦を迎えて事態は一変した。それからは加藤登紀子の「遠い祖国・日本」への苦難の逃避行がはじまる。      遠 い 祖 国   終戦からの一年が過ぎ母の洋裁の仕事で、どうにか生活の目処が立ってきた頃、満州にいる170万人もの日本人を日本に返そう。という引き揚げ協定が結ばれた。  母は大好きなハウビンから離れたくなかったので悩んだそうだ。でももし母になにかあれば子供たちは孤児になってしまう。結局1946年9月、引き揚げ列車に乗って、日本に向うことになった。  石炭を運ぶ大きな無蓋貨車に詰め込まれ、ゴトンと動き出した列車は、途中で止まったり雨に降られたり、いつどこに着くのかさっぱりわからない究極の旅。  「ただ生きている、ということしかない不思議な時間。人間は生きるためなら、どんなひどいことも超えていける、凄い経験だった」と母は言う。

続きを読む

「この道」 加藤登紀子 -1-

 東京新聞の夕刊の1面下。「この道」という各界で大活躍の著名人の「半生記」が掲載されている。シリーズでその人のこれまでの来し方がよどみなくつづられ、同紙の名物「読みもの」となっている。そこに今回はシンガーソングライターの加藤登紀子さんか登場だ。  第1回目(4月8日)の書き出しは「去年12月27日、私は三回目の25歳を向かえた。いうなれば人生四幕目も開幕だ」。つまり3×25=75。加藤登紀子さんは自分の年齢を婉曲に公表した。  生まれは、戦争真っ盛りの1943(昭和18)年。旧満州(現中国東北部)・ハルビン市。  「この道」は、生まれた時の由来と、当時、「東洋のパリ」と言われた帝政ロシアの風情連なる町々の描写を母の言葉を借りて思い出し、そして、あの年の8月9日、ソ連の参戦で大混乱、引き揚げ時の苦渋の逃避行の描写から始まって行く。

続きを読む

弥生3月 「別れの歌」 うたう

 弥生3月は別れの月だ。「別れ」は悲しくて辛いものだと相場は決まっているようだが、「出会い」よりはまだいい。それは、「出会い」は必ずその先に「別れ」が待ってるが、「別れ」はいつか新しい「出会い」という夢と希望が向こうにあるかもしれないからだ。だから「別れ」ということばはぞくぞくさせてくれる。  長い人生、これまでに数知れないほど「別れの歌」をうたってきた。ときにそれらの歌に居場所を失うほどに天を仰ぎ、そしてまた、流れくるメロデイーに我を忘れ、癒されてきたことか。  20歳の若さで戦死した兄が生前好んでギターをつま弾きながらうたった「別れ船」(田端義夫)と「別れのブルース」(淡谷のり子)など。   さようならよの 一言は  男なりゃこそ 強くいう  肩をたたいて にっこりと  泣くのじゃないよは 胸のうち            (別れ船)   ともに2005年、女性歌手が「江東区高齢者集会」で歌って来場者の涙を誘った「惜別の歌」などがよみがえる。そう、今年は2019年。ほとんど50年前の1970年、レコード大賞を受賞した「今日でお別れね、もう・・・」菅原洋一がうたったあの歌も聞いてみたい。

続きを読む

弥生3月は「別れの月」 卒業式に「海ゆかば」

 矢用3月は「別れの月」。そして卯月は「出会いの月」。誰しもが回想するのは、子どものころの卒業式で何を歌ったのでしょう。僕が小学校(当時は国民学校)を卒業したのは、あの戦争の最終年・1945(唱和20)年の3月。ところは旧満洲(現中国東北部)の公主嶺という小さな町でした。その卒業式で歌ったのは、校歌はともかく、なんと「海ゆかば」でした。  「海ゆかば」といえば、知る人ぞ知る、戦争末期、南方戦線で日本軍が玉砕(全滅)したときに、ラジオニュース放送の初めに流された曲、天皇のおそばで死のう、わが身を振り返ることはない。という歌詞だった。  あの頃、軍国少年だった僕が、仲間とともに校長に直談判。「卒業すれば、もう誰にも会えなくなるかもしれないから『海ゆかば』を歌わせてください」と懇願した。  その時の校長の顔が思い出されます。困惑した顔で少し間をおいて、僕たちを見渡すようにして、むしろ上気した趣で「いいだろう」と一言。前年、小さな町では知れ渡っていた僕の兄(同窓生)の特攻死が校長の頭をよぎったのかも知れません。思えば恐ろしくも辛く悲しい時代でした。あれから74年。戦争の足音が忍び寄ってくる今、あのおうな「別れ」の時代を繰り返してはなりません。 【注】「仰げば尊し」「蛍の光」はスコットランド民謡。敵性曲は歌唱禁止になっていた。

続きを読む

「海ゆかば」はノー 平和をつくる歌声を

 2004年9月4日「江東うたごえ交流会」に参加した作詞者・吉村ミヱさんの一文です。「海ゆかば」は先の大戦末期、日本軍が玉砕(全滅)する度にラジオからながされた痛恨の歌です。今でも聞けば、涙しますが、このような歌を再び呼び戻してはなりません。  学校で習い、戦死者が出た時にうたった。戦争の歌しかうたわなかった。70歳を過ぎた方たちが歌いながら涙する。  8月15日の夜、テレビに映るその方々の歌声と涙を本当に理解することはむずかしいけれど、戦争の歌しかうたえない次代にタイムスリップさせてはいけないことだけはたしかに伝わってきた。あの戦争で、この江東区も焦土と化し、今も家族は行方を探している。  「あー、この歌声に出会えてよかった」  タイムスリップさせないための力の一つに今日の会場で出会った。歌声、朗読、演奏、踊りは平和之喜びを。明日への希望と戦いへの力を私たちにあたえてくれた。戦争を呼ぶ歌ではなく、平和をつくり続ける歌をうたい続けたい。

続きを読む

あの時歌った 「マロニエの木陰」

 戦後打ちひしがれた日本人を明るく励ましてくれた歌は何といっても並木路子の「リンゴの唄」であることは誰しもが認めるところだが、当時年ごろの僕がのめりこんだのはこの「マロニエの木陰」だ。    空は暮れて丘の果てに  かがやくは星の瞳よ  なつかしのマロニエの木陰で  風は想い出の夢をゆすりて  今日も返らぬ唱を歌うよ    歌手にほれこんだ。松島詩子さんがいい。年上好みにとっては、今風にいえば素敵な「アラフオー」だ。調べてみたら彼女は山口の出身という。夕方テレビのBS4チャンネルで著名な合唱団「フォレスタ」がマロニエをコーラスしていた。申し訳ないが、やはり、ソロの方がぴったりだ。松島詩子が頭をよぎった。フォレスタさん、SORRYです。  作詞の坂口淳氏が「小鹿のバンビ」を、作曲の細川潤一氏はあの「古城」を作ったと死って「やはり」な、と思わず感嘆することしきり。

続きを読む

第26回 江東うたごえ交流会

 今年も「江東うたごえ交流会」が開かれます。「歌あり、朗読あり ダンスや楽器もあります」が呼びかけの言葉。コーラス大好きの僕。先頃スマホの着信メロディーに「アメージング・グレース」を入れたばかり。リクエストしようかと思っている。

続きを読む

「海ゆかば」はもう歌わない

 「海ゆかば」という歌がありました。戦争を体験した人なら誰もが、この歌を聞いて身を締めつけられるような不思議な感情におそわれ、歌って涙したものです。  万葉の歌人大伴家持(おおとものやかもち)の詞に信時 清(のぶとききよし)が曲をつけました。  太平洋戦争の末期、ラジオのニュース放送の冒頭にこの曲がながされると、常に襟を正し、座り直したものです。それは悲しい知らせだったからです。アッツ島にはじまったサイパン、テニアンなどの玉砕の報道、特攻隊員の戦死の全軍への布告でした。  その対極にあったのは「軍艦マーチ」「抜刀隊」でした。大本営による緒戦の大勝利の際はともかく、昭和19年以後はそのほとんどが虚報でしたが、奏でられる”威風堂々”の調べに欣喜雀躍して拳を突き上げていたものです。  戦後73年、あの時代を今に重ねると複雑な思いに駆られます。戦争を知らない世代が戦争を語り始めています。若年の国会議員らが、”行け行けどんどん”のノリで北朝鮮、国際貢献などをひけらかし、憲法「改正」を強調するに及んでは、「戦争を頭だけで考えたらいけない、体験者の願いを強く感じないと、あの恐ろしさは分からない」の思いを強く持つのは私だけでしょうか。  昭和20年3月、旧満州の公主嶺小学校の卒業式では校歌を歌ったあと「仰げば尊し」「蛍の光」に替わって『海ゆかば』を歌ったことがよみがえります。再び繰り返してはならない戦争。そして、「海ゆかば」はもう歌いません。

続きを読む

秋の気配を歌と花にもとめて㊦ DOCU

 「秋の花」(七草) 春の七草は「かゆ」にして食べるなど。「食」を楽しむものですが、秋の七草は花を「見る」ことを楽しむもののようです。万葉の時代に山上憶良が詠んだことから選ばれたもので、暑い夏を過ぎて私たちも心を癒すやさしい秋の草花です。  「秋の歌」 猛暑、酷暑の今年の夏。思わず「早く来い 秋よ来い」などと口ずさんでしまう。秋の歌といえば小学唱歌の数々だが、9月を謳った歌はやはり文字通り、セプテンバー・ソング。映画「旅愁」(September Affair)の主題歌で、確か、「コットンとフォンテーンが飛行場にいて」・・・などとストーリーは定かではないが、メロディーはしっかり。「旅愁」はとくれば中年の胸を<ときめかした>西崎みどりのあの声。当時、こっそりSPを懐にしのばせていたもの。それに詞が片桐和子さんと分かってジーン。リリー・マルレーンの訳詞者のひとりだからなおさら。 【七草の花ことば】  萩ー想い すすきー活力 ききょうー気品 なでしこー純愛 くずーきづかい ふじばかまーためらい おみなえしー美人

続きを読む

映画音楽 「禁じられた遊び」

 戦後間もなく見た映画で、今でも記憶に残っているものを10本挙げろといわれれば、すらすらと出てくる。それは「風とともに去りぬ」を始めとして、「戦争と平和」「今ひとたびの」「戦火のかなた」「自転車泥棒」「鉄道員」「第三の男」、そして「禁じられた遊び」などである。  敗戦の混乱期とあって、やはりあの戦争は何だったのかが一大テーマになったのは自然の成り行きだったが、洪水のように日本に入り込んだハリウッド映画はともかくとして、イタリアン・ネオリアリズムの潮流には圧倒された。  また、何といっても映画音楽には酔わされた。とりわけ「禁じられた遊び」で流される「哀愁」「はかなさ」「初々しさ」をかきたてるギターの調べには吸い寄せられた。「禁じられた遊び」は1952年にフランスで制作された映画。バックに流れる曲は「愛のロマンス」という題名のスペイン民謡である。

続きを読む

波乱の昭和を生き抜いた 母

 ♪「山の淋しい湖に ひとり来たのも 悲しい心・・・」 頃は1940(昭和15)年、所は旧満州・公主嶺(現中国東北部)。おふくろが内職の手を休めずにレコードから流れる曲に合わせて口ずさみます。哀感ただよう「湖畔の宿」です。  幼子2人を抱えた今でいう「母子家庭」。大正の初め17歳のとき、写真見合い結婚で単身満州に渡った。親父はシベリア出兵に追従するなど関東軍の御用商人。放埓無頼で居住地定まらず、事実上の離婚状態。  そんな女の異国の地でひとりうたう歌は、いつもとぎれとぎれ、それも気分がハイのとき。  蓄音機のゼンマイが切れかかって「ウーン、ウーン」と鳴り出すと、「キッ」とした顔でこちらを見て、「ボヤボヤしないで巻きなさい」とせきたてます。  明治29年生まれ。存命ならば124歳。戦争で息子2人を失い、波乱の昭和を生き抜き「戦争だけはダメ」が口ぐせの、秘めた女の憂いとしたたかさが今に迫ります。

続きを読む

秋の気配を歌と花にもとめて ㊤

  「薄紅の秋桜が 秋の日の 何気ない 陽溜りに 揺れている」(「秋桜」コスモス)。 猛暑、酷暑の今年の夏。思わずなぜだ、どうして。  「秋よ来い、早く来い」などと言ってしまいます。 せめて、童謡を口ずさんで待ちましょう。

続きを読む

「平和への想い」 あの日この歌 ラジオ深夜便 ⑳

 視聴者の根強い人気があるNHK「ラジオ深夜便」。作家の五木寛之さんの語りをもとにした、『わが人生の歌がたり 昭和の哀歌』を手にしました。昭和の流行歌とともに半生をつづった異色の自叙伝です。誇り込めた思いを聞きました。 ●愛国行進曲 ●勘太郎月夜船 ●雨のブルース ●雨に咲く花

続きを読む

「八月になると思い出す」 満洲っ子の記憶㊦

 八月になると思い出されるのは1945(昭和20)年の夏のエレジー、2004年6月10日、浅草公会堂で「関東甲信越高齢者集会」でのこと。そこでうたう歌手の懐かしのメロディーの調べに呼び戻されて書きとめた「満洲っ子の記憶」(「難民生活三週間 南へ」)である。

続きを読む

「八月になると思い出す」 満洲っ子の記憶㊥

 八月になると必ず思い出されるのは1945(昭和20)年の夏のエレジー。2004年6月10日、浅草公会堂で「関東甲信越高齢者集会」でのこと。そこでうたう歌手の懐かしのメロディーの調べに呼び戻されて書きとめた「満洲っ子の記憶」(「弾き語りで、遺し言葉」)である。

続きを読む

「八月になると思いだす」 満洲っ子の記憶 ㊤

 八月になると必ず思いだされるのは1945(昭和20)年の夏のエレジー。、2004年6月10日、浅草公会堂で「関東甲信越高齢者集会」でのこと。そこでうたう歌手の懐かしのメロディーの調べに呼び戻されて書きとめた「満洲っ子の記憶」(「赤い夕日と『別れ』の歌」)である。

続きを読む

「平和への想い」 あの日この歌 「美空ひばり」⑫

 「美空ひばりは三曲の反戦歌を歌っている」といわれています。この曲(白い勲章)と「一本の鉛筆」「八月五日の夜だった」です。「白い勲章」は昭和51年に東京の中野サンプラザで行われた芸能生活30周年記念リサイタルのために制作された新曲です。

続きを読む