「伊藤 聖さん」 関連ブログ 一覧

私のブログ「満洲っ子 平和をうたう」のなかの「テーマ伊藤 聖さん」の関連ブログ一覧です。「満洲・公主嶺会」の役員であり、「満洲・公主嶺『過ぎし40年の記録』」の主筆であられた伊藤 聖さんが描かれた流麗な記事を以下紹介しましょう。        <アクセス数ベスト10> ①193 公主嶺同窓会 第7章エピソード -19- ②174 写真集 「満洲・公主嶺」第1部 回想の公主嶺ー2- ③162 伊藤聖さんと「満洲・公主嶺」 土屋洸子 ④122           〃              ② ⑤ 78 「公主嶺小学校」 中国語訳 朝日新聞 ⑥ 76 座談会 回想の「満洲・公主嶺」 3部作① ⑦ 71 写真集 「満洲・公主嶺」第1部 回想の公主嶺-4- ⑧ 63 座談会 回想の「満洲・公主嶺」 3部作⑩ ⑨ 56 写真集 「満州・公主嶺」第1部 回想の公主嶺ー3-       ⑩ 50 あのころ 伊藤聖さん語る「満洲・公主嶺」 ⑥ 【追記】伊藤聖さん関連ブログのページ数は235、総アクセスは5784件を数えます。 https://38300902.at.webry.info/theme/9992a1edc8.html

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「神風特攻」 関連ブログ 一覧

 私のブログ「満洲っ子 平和をうたう」のメインテーマは「満洲公主嶺」、「東京大空襲」「憲法9条」に加えて「神風特攻」の四つである。とりわけ思いがこもったのは、20歳で特攻死した五兄・神島利則の生き様である。スタート以来今日ではその件数174、アクセス数は25588を数えるにいたった。     <ブログ「神風特攻」ベスト20> ①2732 淡谷のり子さんと特攻隊 ②1825 俺のことばに泣いた奴一人 ③1158 「雲ながるる果てに」 -序文ー ④1127 中村メイ子さんと特攻隊員 ⑤1087 「雲ながるる果てに」 ② ⑥1028 小森まどかさんの「切り絵」 特攻 ⑦ 692 ドイツにも特攻隊があった ⑧ 578 特攻隊員と川柳 ㊦ ⑨ 566 神風特攻隊員の言葉 世界に伝えたい ⑩ 551 「敷島の大和心を人問えば」  ⑪ 509 アメリカ側から見た特攻隊 ⑫ 484 神風特攻隊員の戦死者数 ⑬ 454 早乙女勝元さんと特攻隊員 ㊤ ⑭ 433 「雲ながるる果てに」号外 ⑮ 386 「雲ながるる果てに」 映画  ⑯ 347 「敷島の大和心を・・・」関行雄の秘話 ⑰ 305 さよなら 開聞岳 特攻機 ⑱ 294 書評 「不死身の特攻兵」 鴻池尚史著 ⑲ 283 早乙女勝元さんと特攻隊員 ㊤ ⑳ 278 学徒出陣 あれから66年  https://38300902.at.webry.info/theme/4d2c6dd9be.html

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土屋洸子さん 関連ブログ一覧

 旧満州・「公主嶺会」の事務局長にあった土屋洸子さん。あの「赤い夕陽の沈む満洲」。とりわけ南満州の分水嶺にあった小さな町、「公主嶺」の記憶を呼び戻すには欠かせない一人。彼女の協力を得て続けられているブログ「満洲っ子 平和をうたう」の一端をを紹介しましょう。 。       <アクセス・ランキング10> ①1089 雲ながるる果てに ② ② 775 満洲・公主嶺よ永遠に 井本稔さんが逝った ③ 423 土屋洸子さん「引き揚げ体験を語る」 新宿 ④ 328 2015年 「公主嶺会」での点描 ⑤ 256 満洲・公主嶺 小松光治の孫 川嶋信子さん ⑥ 232 井本稔さんをしのぶ ⑦ 230 革新的理想主義に生きる 井本稔 ⑧ 215 天皇のフイリピン訪問に思う 阿部孝雄さん ⑨ 208 あれから70年特攻死した兄をしのぶ ⑩ 200 若い世代にも「満洲・安東市」の場合 【注】 土屋さん関連のブログのページ数は556.総アクセス数は30115.上写真は戦後取材のため公主嶺に行った時の記念写真。なお、アドレスは次のとおり。  https://38300902.at.webry.info/theme/86fb75d94c.html

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ブログ「満洲っ子 平和をうたう」 12年目に

 私のブログ「満洲っ子 平和をうたう」がスタートしたのが2008年6月9日。今日、2019年6月9日で12年目に入る。思えば長い作業の連続だった。日数にすれば4016日。ページ数が5670だから一日平均1.41回の発信になる。よくもまあ!と驚く。ここまで続けられたのは、あの過酷で忌わしい戦争の体験を後世に伝えたい強い思いが私を鞭打ってきたからに違いない。 ■ブログ名称=満洲っ子 平和をうたう ■スタート=2008年6月9日 ■MESSAGE=「本日をもって本校を閉校とする」、ふりしぼるように校長が宣言した。時は、1945(昭和20)年8月10日。所は旧満州(現中国東北部)・新京(現長春)第一中学校の講堂でのこと。1年生、13歳だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っている最中である。前日のソ連参戦で市内は大混乱。70キロ南の生家・公主嶺(汽車通学していた)に向う列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無害貨物列車は関東軍の家族でいっぱい。武装した兵隊たちも同乗、退却しているのだ。  当時、満鉄(南満洲鉄道株式会社)・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、居丈高の憲兵の命令は、「軍関係者を優先して転進させろ!他(ほか)はどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態追いやられたことは周知の事実だ。    四兄(四郎)はシベリアに連れ去られ戦犯に。五兄(利則)は神風特別攻撃隊の一員としてフイリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だっ…

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井本 稔さん 関連ブログ一覧

   満州・「公主嶺会」の重鎮だった井本稔さん(故人=上野ターミナルホテル元会長)関連ブログ2019年5月28日現在の総決算です。ブログ「満洲っ子 平和をうたう」に掲載されたもので、スタートは2014年10月26日、以来、今日まで件数で34回、総アクセス数は4904を数えます。以下そのベスト20を表示します。      <アクセス数 ベスト20>         ①775 14・10・26 「満州・公主嶺」よ永遠に 井本稔さんが逝った ②383 14・11・16     〃    はわがルーツ井本稔さん ③232 14・12・22 井本稔さんを忍ぶ 土屋洸子 ④230 15・ 2・14 革新的理想主義に生きる 井本稔さん ⑤224 15・ 4・11 随想 駅前旅館 井本稔 ㊤  ⑥197 14・12・ 7 「満洲・公主嶺」っ子 井本稔さんをしのぶ ⑦177 15・ 3・12 旧満州「公主嶺小学校37回生 ⑧174 14・12・10 夫の心には赤い夕日が・・・井本知子 ⑨170 15・ 3・10 上野ターミナルホテル前会長 井本稔さん ブログ ⑩168 14・12・ 2 「満洲・公主嶺」苦難の引き揚げ 井本稔さん ⑪164 14・12・14 「公主嶺っ子」永遠に 井本稔さんブログ ⑫142 15・ 2・20 旧満州「公主嶺っ子の井本稔さんブログ ⑬132 15・10・15 井本稔さん逝って1年 ブログで振り返る ⑭131 15・ 1・20…

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おふくろが口ずさんだ 「サーカスの唄」

 ♪「旅のつばくら 寂しいかないか おれもさみしい~」、頃は1937(昭和12)年、所は旧満州・公主嶺(現中国東北部)という小さな町。おふくろが内職の手を休めず、レコードからながれる歌にあわせて口ずさみます。哀調漂う「サ-カスの唄です。  夫とは別離状態。幼子3人を抱えて、いまでいう「母子家庭」。「大正」のはじめ、17歳。見合い写真で単身渡満(とまん)。親父はあのシベリア出兵に追従するなど、関東軍のご用商人。放埓無頼(ほうらつぶらい)で行方知れず。そんな女の異国の地でうたう歌は、いつもとぎれ、とぎれ、それも気分はハイ(高い)なとき。  蓄音機のゼンマイがきれかかって「ブーン・ウーン」と鳴り出すと、キット、こちらをみて、「ボヤーっとしないで巻きなさい」とせき立てます。  明治29(1897)年石川県金沢生まれ、戦争で息子2人を失い、壮絶な「昭和」を生き抜き「戦争だけはダメ」が口癖の、秘めた女の決意と憂いが今にせまります。(10年前、母の日に書く=写真)

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満洲公主嶺小学校 37回生 第40回同期会

 昨5月20日、旧満州の公主嶺小学校37回生の40回目「同期会」(終戦時 同校卒業)が開かれました。場所は上野のターミナルホテル地下の「水車」。8人が集い、1年ぶりとあって握手、ハイタッチがあちこちで見られ、食事を取りながら談笑の場となりました。  37回生同期会がスタートしたのは確か1973年。あれから58年。58年間で40回目の開催。ほとんど欠かすことなく毎年のように開かれたのは、いかに同期生の団結ぶりが強いかを示すもの。敗戦の混乱期をともに生きながらえたからの心情が重なるからにちがいありません。北は岩手県から、また新潟県から駆けつけ、子ども時代に還って、話が延々と続き懐かしさあふれる同窓会になりました。 【写真】左から特別参加「満州の記憶研究会」の甲賀真広、稲垣玲子、田口恵敏、鹿子嶋 悦、土屋洸子、永井至正、栗林重夫、長浜自明(敬称略)

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ブログ 満洲・テーマ「公主嶺」 一覧

 ブログ「満洲っ子 平和をうたう」のうち、テーマ「公主嶺」のアクセス数などベスト13を、以下表示します。 ◆期 間=2016~2019年 ◆ページ数=630 ◆アクセス数=42693   【注】全テーマ数(66)の中、ページ数は3番目にランクされています。      <テーマ「公主嶺」ベスト13> ①1089 「雲ながるる果てに」 ② ② 774 公主嶺よ永遠に井本さんが逝った ③ 493 「雲ながるる果てに」 号外 ④ 423 土屋洸子さん「引揚体験記」 新宿 ⑤ 393 中国残留婦人の一人として ⑥ 383 公主嶺は我がルーツ 井本稔 ⑦ 333 校歌をたずねて何百里 ⑧ 328 2016年 「公主嶺会」での点描 ⑨ 308 中国残留婦人 栗原優子さんの娘として ⑩ 248 今日歌おう 「何日君在来」 ⑪ 230 革新的理想に生きる 井本稔 ⑫ 204 あれから73年 特攻死した兄偲ぶ ⑬ 176 旧満州公主嶺小学校37回生  https://38300902.at.webry.info/theme/6d4c4dc274.html

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戦後74年 「満洲・公主嶺小」 37回生のあの頃

 この5月20日、満洲・公主嶺小学校37回生の40回目の同期会が上野のターミナルホテル地下(「水車」)開かれる。。集う同期生は、もう米寿に近いが、傍から見れば誰が見てもそうは思われないほど元気いっぱい。  この小学校が設立されたのが1907(明治40)年というから、今年は創立113年。37回生はちょうど敗戦の年の1945(昭和20)年3月に同校を卒業した面々。12~13歳の少年、少女たち。その連中が戦後74年たっても同期会を開くというのだからいまどき稀有な存在だ。  そこであのころの集団記念写真が同期生の田口恵敏君から提供されたので、ここにご披露する。 ①昭和16年 3年男子組 大西学級。楠木正成銅像の前で ②昭和17年 4年男子組 福原学級 国旗掲揚塔の前で ③昭和18年 5年男子組 倉垣学級 小学校正面で ④昭和18年 5年男女 奉天・撫順修学旅行 ⑤昭和20年3月 6年男女 卒業記念写真 後ろの黒板に各自が一言メッセージ 【追記】黒板に書かれた一言は今から思えば恐ろしい文言が勢ぞろい。「米英撃滅」「尽忠報国」「一億一心」「大和魂」「我往かん南海の果て」「さらば元気で」「神州不滅」などなど。  

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「満洲公主嶺~私の故郷~」 土屋洸子さん

 新宿の「平和祈念展示資料館」が主宰の「次の世代に伝えたい、戦争体験者のおはなし」。2019年の「GW 特別イベント」として企画した「お話の会」に「満洲公主嶺会」の土屋洸子さんが、「満洲公主嶺は私の故郷」と題して縦横にお話します。 ◆と き:2019年5月3日(金・祝)       14時ー60分 ◆ところ:平和祈念展示資料館       新宿区住友ビル33階       03-5323-8709    「GW特別イベント」では土屋洸子さんの他に、6人の方がそれぞれの貴重な戦争体験を語るようです。兄を特攻隊でなくし、もう一人の兄が戦犯としてシベリアに抑留され、あの年の8月15日、公主嶺から引き揚げの途中、北朝鮮の平壌駅構内にいた僕としてはいずれも避けて通れない戦争秘話である。これらのお話、全て聞きたいと思うが体調が許さないので無理かもしれない。  いずれにしても僕の場合は、ブログ「満洲っ子 平和をうたう」に網羅しているので、参考にしていただければありがたいと思います。

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満州・「公主嶺」の体験談を語って5年間

 「私が新宿の平和祈念展示資料館で引き揚げの体験談を語る場をいただいて5年になります。ところがこの4月20日の『お話し会』は、大きく様変わりしていました。参加者がなんと若い女性30数人(ミス・グランド・ジャパン19に所属)が会場に着席しているではないですか!」、昨日、満洲・公主嶺会の土屋洸子さんからのメールです。  「全くの驚きでした。私は、竹林のなかのお地蔵さんの状態でした」。メールが続きます。「私が一番印象的で気に止まったのは、約1時間のお話会の間に一人も眠らず、全員がノートをとる姿でした。話しが終わった時は『ありがとうございました』と、笑顔のあいさつです。  また「国共内戦」(昭和21年から始まった国府軍と共産軍との戦い)を5分ほど話しましたが、参加者の一人の祖父が関係者だったとの感想が寄せられて、ご苦労の大変さと生命の繋がりを想像しました。  世界の人々が抱える問題を知ることは、世界の場に足を運ぶ場合、大切なことなのだと、私の方が強く実感した一日でした」 【ミス・グランド・ジャパン19とは】   国連は、2015年に、平和と公正を全ての人にお届けする社会作りなどを2030年までに達成すべき17の目標として「持続可能な開発目標」を採択した。この趣旨そって、平和の使者を目指す女性の発掘と育成を目的とした「ミス・グランド・ジャパン」は、2013年に発足して今年で7年目。全国から選ばれた約30名は、難民のためのチャリティー活動、老人ホームや小学校の訪問、募金活動などを行い、世界8…

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「満洲」に祖父をたずねて何百里」 ブログ一覧

 昭和20年、満州・公主嶺で現地召集され、その後の消息不明の祖義父の行方をたずねて2017年2月、「公主嶺会」へ寄せたメールがスタートでした。長崎県の坪井久美さんからの「坪井家のルーツ」を明らかにしたい、心情あふれるものでした。  依頼をうけて「公主嶺会」では事務局長・土屋洸子を先頭に調査を開始。相当部分絞り込めたものの未だ確定は出来ていません。しかし、その間の交流の次第を永井至正が「ブログ」でアップしてきました。総数で10本、総アクセス数は450になりました。以下表示します。 ●36 17・02・04 満州に 祖父を訪ねて何百里 ① ●27 17・02・15        〃           ② ●36 17・02・16        〃           ③ ●53 17・02・20        〃           補 ●36 17・02・27        〃           ④ ●57 17・03・04        〃           補2 ●53 17・05・06        〃           ⑤ ●49 17・09・05        〃           ⑥ ●43 18・01・03 年賀状 満洲公主嶺よみがえる ●60 18・10・14 祖父をたずねて何百里 坪井久美 【注】数字はアクセス数、日付。写真上は長崎県五島の風景明媚な海岸と島々をアレンジ。下は東京上野ターミナルホテル。公主嶺会が常用の会場。挿入写真は公主…

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叶わぬ 満州への「謝罪と鎮魂の旅」

 1945(昭和20)年8月、敗戦。同時にあの傀儡(かいらい)「満州国」は崩壊した。その時、僕は新京(現長春)中学の一年生だった。1932(昭和7)年、新京から70キロ南の公主嶺に生まれた。そこはいわば我が故郷。あれから74年たった。ここにきて、未だ望郷の思いをつのらすとともに、中国人に対する一人の日本人として自責の念がよみがえる。  旧制新京中学は昭和7年に創立された。「満州国」設立の年でもある。延べ建坪4180坪、鉄筋コンクリート3階立て、20教室。講堂(映写室付)、体育館、テニスコートなど完備。当時のこと神社(第一陣神社)まであった。さらに各教室にはウオーキング・クロークが設けられほどの極めて豪奢(ごうしゃ)そのものだった。  1945(昭和20)年4月に入学して、先ず驚いたのは校庭の広さ。上級生がグライダーを滑走さえていた。敷地を一周すると1.4キロ。この校庭は恐らく満洲事変前のドサクサにまぎれて、現地農民の土地を買い叩いて入手したものと思われる。  加えて公主嶺小在学中は、日の丸を背に馬車(マーチョ)のただ乗り、マクワ瓜やクワズルなどの露店でのかっぱらいなどやりたい放題だった。  敗戦の日まで、中国人を、子どもでありながら足蹴にしてきた事実に謝罪すらしていない。そして昭和17年、公主嶺満鉄病院で病に倒れた兄。未だあの地に眠る日本人墓地の参拝も果たしていない。  齢、米寿を前にして、「謝罪と鎮魂の旅」は果たせなくなった。夢見るだけになった。

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弥生3月は「別れの月」 卒業式に「海ゆかば」

 矢用3月は「別れの月」。そして卯月は「出会いの月」。誰しもが回想するのは、子どものころの卒業式で何を歌ったのでしょう。僕が小学校(当時は国民学校)を卒業したのは、あの戦争の最終年・1945(唱和20)年の3月。ところは旧満洲(現中国東北部)の公主嶺という小さな町でした。その卒業式で歌ったのは、校歌はともかく、なんと「海ゆかば」でした。  「海ゆかば」といえば、知る人ぞ知る、戦争末期、南方戦線で日本軍が玉砕(全滅)したときに、ラジオニュース放送の初めに流された曲、天皇のおそばで死のう、わが身を振り返ることはない。という歌詞だった。  あの頃、軍国少年だった僕が、仲間とともに校長に直談判。「卒業すれば、もう誰にも会えなくなるかもしれないから『海ゆかば』を歌わせてください」と懇願した。  その時の校長の顔が思い出されます。困惑した顔で少し間をおいて、僕たちを見渡すようにして、むしろ上気した趣で「いいだろう」と一言。前年、小さな町では知れ渡っていた僕の兄(同窓生)の特攻死が校長の頭をよぎったのかも知れません。思えば恐ろしくも辛く悲しい時代でした。あれから74年。戦争の足音が忍び寄ってくる今、あのおうな「別れ」の時代を繰り返してはなりません。 【注】「仰げば尊し」「蛍の光」はスコットランド民謡。敵性曲は歌唱禁止になっていた。

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旧満州・公主嶺小37回生の同期会を開きます

 平成が終わり、新元号が決まる頃となりましたが、皆様にはお元気のことと存じます。さて下記のように第40回同期会を開きますので、皆さまのご参加をお待ち申し上げます。 ◆日時:2019年5月20日(月) 12:00~ ◆場所:東京・上野ターミナルホテル      地階「水車」で      東京都台東区東上野2-21-11      電話:03-3835-3414 ◆会費:4,000円(予定) 【注】ご返事は4月30日までにお願いします。 【幹事】栗林重夫、土屋洸子(042-410-3855) ←上野ターミナルホテル 「水車」 ■公主嶺小学校37回生同期会(2015年)。上野ターミナルホテルで。

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12月15日 兄神島利則 特攻死

 兄・神島利則(かみしま・としのり-大正13年1月生まれ)は旧満州・公主嶺小学校(28回生)卒業後、新京(現中国東北部・長春)中学に入学、その後拓殖大学に進んだ。1943(昭和18)年9月、第13期飛行予備学生として土浦海軍航空隊に入隊、飛行訓練を受けた。昭和19年10月、台湾の台南海軍航空隊を経てフイリピン・セブ基地に移動。  1944(昭和19)年12月15日、午前6時30分、神風特別攻撃隊・第7金剛隊の一員として、250キロ爆装のゼロ戦に搭乗発進した。目標はレイテ島の北西部・ネグロス島近海の米輸送船団。戦果は不明である。直援機を含めて全機未帰還。神島中尉もついに帰らなかった。享年20歳。  ときが経ち、あれから74年。私・永井至正(旧姓・神島ー86歳)も残り時間が少なくなった。兄が「おふくろを頼む」「後を頼む」と言い残した言葉を受け継いで、日本の未来を信じながら痛恨の思いで逝った特攻隊員たち、若者たちの思いをしっかり次の世代に伝えたい。       神島中尉    特攻出撃     1987(昭和62)年11月18日、旧満州・公主嶺小学校の同窓会誌(「満州・公主嶺 過ぎし40年の記録」)が発刊された。明治40年創立の同校の歴史をつづったものである。その中にフイリピンで神風特別攻撃隊の一員として特攻死した神島利則海軍中尉が同校出身であることから2ページを割いて、(P409~410)生い立ちから学徒出陣、死に至るまでの経緯が詳しく書かれている。弟、至正の同期生(37回生)で…

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あの年の12月8日と満洲・公主嶺

 「昭和16年12月8日は月曜日、私は5年生でした。その朝、ラジオは軍艦マーチに続いて『本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』のニュースです」。今から77年前の今日、当時12歳だった千葉淑子(旧姓有川・)さんがその時の様子を以下のように書いています。(『満洲 公主嶺』ー過ぎし40年の記録 P426)

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「満洲の記憶」研究会と「公主嶺会」の交流

 「今年もあと一月をきりました。嬉しいことをお知らせします」。満洲・公主嶺会の土屋洸子さんからのお手紙をいただいた。ここ2年あまり一橋大学の少壮学究たち(「満洲の記憶」研究会)との交流の成果が上がりつつあるという微笑ましくも確かなレポートの数々です。  「満州の記憶」研究会から「満州の記憶 第5号が、先週末に出ました。「編集後記」に大石 茜さんが書いているように、この号は公主嶺を大きく取り上げています。  「公主嶺教育関連写真目録」の「解題」(写真資料が語るもの -公主嶺小学校同窓会写真アルバムよりー P64~68)は大石 茜さん、「追記」(学年別クラス写真について追記 P69~73)は私土屋が、目録の「編集・整理」(P74~101)を甲賀真広さんが書いています。  さらに、甲賀真広さんが「公主嶺調査記」(P125~129)と題して、「調査の経緯、戦前期の公主嶺、現在の公主嶺」を書いています。これは、研究会のメンバー4人が今年(2018年)8月下旬に旧満州へ研究旅行に行って、8月22日に訪れたものです。    「学年別クラス写真」のアルバム9冊は、同窓会事務局の私宅で預かっていましたが、万が一のことが近いにつけ、行く先を思い悩んでいました。  写真が集まったいきさつやプリント作業については上記の「追記」にある通りですが、400枚を超す写真を整理し、番号をつけ、提供者の氏名や撮影場所を記録し、担任の名前を確定し、一覧表を作ったのは、伊藤 聖さん(33回生)でした。私は一覧表をワープロ…

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公主嶺会に「今年も参加できて良かった」

 2018年度の満洲・公主嶺会に「参加できてよかった」と、小学校では2年先輩の則次美弥子さんから寄稿していただいた。現在彼女は岡山県在住、私の姉教子と同級生だった。あのころを振り返り、今の自分を確認しながら,哀感を誘い流れるように語る。しかし、満州は私たちが「真実を語り継ぐ」限りいつまでも風化しない。  「引揚げ」この言葉も、その意味も近い将来忘れられるのではないかと思えてならない。原爆投下や焼土と化した都市は、国やその地域が様々な形で受け継いでいる今、これから先変わるとは思えない。  でも、引揚は違う。親世代はすでに彼岸に。私たちがこの世から消える頃、引揚の文字は薄れ、その言葉の生まれた背景すら捏造(ねつぞう)されて伝わるのではと嘆かわしく思っているのは私だけだろうか。公主嶺は一つの点でしかない。会は絶えても、渡満は国策の一つであったことを、歪曲することなく後世に伝えてほしいものだ。こういうのを老婆心と言うのだろうかと苦笑しながらも書かずにはおられない。  多くの人に見てもらいたい冊子やブログの発信、聞いてほしい実体験など・・・。我々世代は、どうも宣伝が下手で歯がゆいことだ。誰に問うこともなく自分が情けなく、悔しさに近いものを覚える。  10月12日の公主嶺会当日、世話人の交替があった。また、「満州の記憶」研究会の若者の公主嶺の写真の紹介もあって(実写は会終了後別室で)、時代の流れを実感するのに十分だった。また、私に出来ることは何? 思いあぐねても答えは出ない。  会は、いつも…

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北から南から35人 今年の 「公主嶺会」 

 「ひときわ冷え込むころとなりましたが、その後お変わりなくお過ごしのこととお慶びも仕上げます。」満州公主嶺会の事務局(土屋洸子さん)からお手紙を頂きました。以下その全文を紹介(写真を含む)します。    公主嶺会にご参加の皆様へ    先日の2018年度公主嶺会(10月12日、上野ターミナルホテル「水車」)にご参加下さいましてありがとうございました。北は宮城県、南は熊本県から35名が集まって、楽しいひとときを過ごしました。会員の高齢化がすすむ中で、30歳代の若い方々:「『満洲の記憶』研究会」会員4名が参加されて、満州の記憶を記録することをお願いする道筋が出来ました。(「研究会」については次回に特集) 公主嶺会の懇親会会場と宿泊についてはこれまでと同様に、故井本 稔さん(39回生)のご遺志を受け継ぎ、井本理恵 社長(長女)、知子 稔氏夫人(女将)、美穂 副社長(次女)、染谷紘一 「水車」支配人、田村 優 公主嶺会担当をはじめ、同ホテルの皆さまのご配慮をいtだきましたことに、お礼申し上げます。(敬称略で失礼いたします)  来年も皆様にお目にかかれることを、楽しみにしております。ご多用の年末年始を、ご自愛の上お過ごしください ■当日ご参加のみなさん(敬称略)。()内数字は公主嶺小学校「回生」)   ▲左から 相原博子 相原憲二(35) 土屋洸子(37) 永井至正(37) 長浜自明(37) 戸井義衛(33) 則次美弥子(35) 田中 勇(33) 小林千栄子(37) 田切恒…

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没後4年 井本稔さんをしのぶ 10月20日

2014年10月20日、上野ターミナルホテルの会長 井本稔さん(80)が逝かれた。満洲公主嶺に生まれ、こよなくあの大地を、そこに住む人を愛した男。戦後はホテルを満洲公主嶺の人々の寄り集うたまり場として提供してきた、かけがえのない存在だっただけに、関係者はその死に強い衝撃をうけた。そのとき寄せた永井至正、土屋洸子の追悼の言葉をご紹介する。         ■永井至正         ■土屋洸子

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2018年度 「満洲公主嶺会」 開く

 2018年度「満洲・公主嶺会」が12日午後6時から、上野ターミナルホテル、地下「水車」で開かれました。これには北は福島から南は熊本までの37人(大正15~昭和14年生まれ)が参加。旧交を温めました。  冒頭あいさつにたった戸井義衛(90)さんは「公主嶺会」も今回で59回目。私も今年90歳になり、後身に会長職を譲りたいと思います。これまで続けられたのは、何よりも当ホテルで「会」の役員だった故井本稔さんのご配慮によるもの。あらためて感謝の意を表したいとおもいます」の述べた。ついで、遺族である井本氏の長女理恵さん、次女の美保さん(下写真左)が「父が愛した『公主嶺』。皆さんとこうして毎年お会いできることにこの上もない喜びを感じています」とあいさつしました。 【追記】今回の「会」には、一ツ橋大学「満州の記憶」研究会の4人が特別参加。彼らがこの8月、公主嶺に趣き、ビデオ撮影、会場で披露しました。町の殆どの場所が再開発、近代都市に生まれ変わっている光景に参加者は目を見張り、感嘆の声をあげていました。 ■あいさつする井本美穂(左)と理恵さん

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祖父をたずねて何百里 長崎の坪井久美さん

 12日、長崎県の上五島から坪井久美さんが来京。これは当日東京・上野で開かれる「満洲・公主嶺会」に合わせて駆けつけたものです。事情により、会の始まる前の小一時間でしたが、会の事務局長・土屋洸子さんと懇談しました。表題のように、彼女の義祖父が昭和20年、満洲・公主嶺で絶った消息をたずねるひたむきな訪問の旅でした。(写真右、詳細は後日)

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テーマ「満洲・公主嶺」関連のブログ 一覧

 この12日に開かれる2018年度の「公主嶺会」を前にして、私のブログ・テーマ「満州・公主嶺」のページ数、アクセス数などの一覧を以下表示します。 ◆期 間=2008年3月16日            ~201810月11日 ◆ページ数=615 ◆アクセス数=35396      <アクセスランキング ベスト10> ①2288 120320 なかにし礼の「赤い月」を見て ②1071 080505 「雲ながるる果てに」 ② ③ 865 100607 佐藤真子さんと満洲っ子 ④ 762 141026 公主嶺よ永遠に 井本稔逝く ⑤ 699 110621 「満洲っ子」HP GO! ⑥ 422 150804 土屋洸子さん「引揚体験」語る ⑦ 416 100406 「雲ながるる果てに」 ④ ⑧ 382 111212 中国残留婦人の娘として ⑨ 369 141116 「公主嶺」亡き妹に 井本稔 ⑩ 332 080316 校歌を訪ねて何百里 ① 【注】上記数字はアクセス数、次いでUP時の年月日。080505は2008年5月5日のこと。 【アドレス】  https://38300902.at.webry.info/theme/6d4c4dc274.html

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ブログが取り持つ絆 ますます 公主嶺

 私がブログを立ち上げて10年になりました。その間、、「ブログを読んで」の感想や質問が多数寄せられています。その地域は、鹿児島、長崎、広島、高知、岡山、大阪、長野、新潟、東京、群馬、埼玉、千葉、岩手、北海道など広範囲で、その後、直接のお会い、メール、お手紙、電話などで親密な交流が続き、親近感を強くしております。  今回はこの9月、満洲・公主嶺会の土屋洸子さんに千葉の若い男性の電話があり、その経緯が土屋さんからお手紙でお知らせいただきました。以下紹介します。 【写真】▼2018年9月17日、山本佳典(37)さんと。新宿・平和祈念展示資料館で.       永井至正様   2018年9月27日   先日お話しました「羊(ひつじ)の研究をしている山本佳典様(やまもとけいすけ)様に9月17日にお目にかかりましたので、その報告をお知らせします。ブログ「満洲っ子 平和をうたう」の思いがけない読者の一人でした山本氏からの手紙にも、「満洲っ子・・・」に感謝するとありました。 ①9月15日、電話がかかってきました。  「8月15日付けのブログ『満洲っ子 平和をうたう』・・・2018年度『公主嶺会』のお知らせ・・・に土屋さんの電話番号があり、電話させてもらった。羊の研究をしている、旧満州・公主嶺の農事試験場で羊の研究がされていたことを知って、お話をうかがいたい」 ②私の返事   明治末に出版された羊に関する本『羊と山羊』の筆者は祖父小谷武治(おだにたけじ)で、これを紹介するブログ「現…

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「海ゆかば」はもう歌わない

 「海ゆかば」という歌がありました。戦争を体験した人なら誰もが、この歌を聞いて身を締めつけられるような不思議な感情におそわれ、歌って涙したものです。  万葉の歌人大伴家持(おおとものやかもち)の詞に信時 清(のぶとききよし)が曲をつけました。  太平洋戦争の末期、ラジオのニュース放送の冒頭にこの曲がながされると、常に襟を正し、座り直したものです。それは悲しい知らせだったからです。アッツ島にはじまったサイパン、テニアンなどの玉砕の報道、特攻隊員の戦死の全軍への布告でした。  その対極にあったのは「軍艦マーチ」「抜刀隊」でした。大本営による緒戦の大勝利の際はともかく、昭和19年以後はそのほとんどが虚報でしたが、奏でられる”威風堂々”の調べに欣喜雀躍して拳を突き上げていたものです。  戦後73年、あの時代を今に重ねると複雑な思いに駆られます。戦争を知らない世代が戦争を語り始めています。若年の国会議員らが、”行け行けどんどん”のノリで北朝鮮、国際貢献などをひけらかし、憲法「改正」を強調するに及んでは、「戦争を頭だけで考えたらいけない、体験者の願いを強く感じないと、あの恐ろしさは分からない」の思いを強く持つのは私だけでしょうか。  昭和20年3月、旧満州の公主嶺小学校の卒業式では校歌を歌ったあと「仰げば尊し」「蛍の光」に替わって『海ゆかば』を歌ったことがよみがえります。再び繰り返してはならない戦争。そして、「海ゆかば」はもう歌いません。

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関東軍の準備周到 満州事変と公主嶺

 昭和6(1931)年9月18日、午後10時20分ころ、満洲(中国東北部)南部の中心都市・奉天(瀋陽)の東北方にあたる柳条湖付近で、満鉄の線路が「何者か」によって爆破された。満州全土を掌中にしようと企てていた関東軍は、この爆破を合図に作戦を開始し、奉天軍が駐屯する北大営(中国軍兵営)を占領。わずか4日間で南満洲の主要部を背圧した電光石火の早わざだった。  電光石火の早わざというがそれもそのはず、事前に怠りなく 準備を重ねていた節があるからである。手元にある「満洲・公主嶺」という記念誌に、当時公主嶺小学校の児童が40年後に書いた手記がある。そこには9・18前夜と翌19日の公主嶺駐在の関東軍の策動がありありと見て取れる。以下その2篇を紹介する。なお、「公主嶺」は事変が起きた奉天から200数キロのところにある関東軍の拠点。 ■1931年9月17日 ■1931年9月19日

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満洲・公主嶺 1945年8月15日

 「1945(昭和20)年8月15日(水)、この日の公主嶺は雲一つない快晴だった。正午の玉音放送のことは、まだだれも知らない」(満洲・公主嶺・過ぎし40年の記録)と土屋洸子さん(現公主嶺事務局長)が書いた。それからの町のあちこちで、長く大陸に君臨していた日本人の子らには、思いもつかないことが数多く目撃された。  8月16日、国民学校では、朝礼で山本規一校長が「日本は聨合国のポツダム宣言の無条件降伏をのむことになった。国民一人一人が耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、日本のために力を合わせてがんばりましょう」と述べた。その日はそれぞれが帰宅した。  町の子が並んで泰平橋(通学路)を渡ったところで中国人の子どもに囲まれ、その中の一人が手のひらを出し、上を日本、下を中国といって、その手をひっくりかえして、上下が反対になった。そして「どうだ、どうだ」とこづきまわされた。「ゾマヤン、ゾマヤン」とかれらがいった言葉は、今も耳に残っている。 ■土屋洸子さんの思い  公主嶺に生まれ、長くあるいは短く住んだ日本人の、公主嶺での営みは終わった。土地や建物、その他のものが、本来そこに住むべき人に返された。  あれから40年が経った公主嶺でのさまざまな思い出は、今も懐かしい。しかし、あの公主嶺を思うとき、私たちの生活は日本人以外の民族の痛みの上に築かれていたことを知る  いわゆる「15年戦争」での犠牲者は日本人は320万人、中国その他のアジア諸民族は2000万人という。  戦いは突然始まるのではな…

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2018(平成30)年度「公主嶺会」のお知らせ

 盛夏の候、皆様にはご健勝のこととお喜び申し上げます。今年は終戦から73年。今回の「公主嶺会」は平成最後の開催となります。ご多用とは存じますが、ぜひご参加下さいますよう、ご案内申し上げます。            記 ◆日 時:2018年10月12日(金)       18時~ (受付:17時) ◆場 所:上野ターミナルホテル・水車       電話:ホテル:03-3831-1110 水車 :03-3835-3414 ◆会 費:9000円(諸経費含む) ◆宿 泊:8000円(含む翌日の朝食) 【注】「満洲を記憶」研究会の方々が写した、最近の公主嶺の写真をご紹介する予定です。 <世話人>天笠幸雄・宮崎 迪・渡辺令子(39回生) 土屋洸子(042-410-3855)        ▼昨年の公主嶺会

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卒業式で「海ゆかば」斉唱 永井至正 

 戦後73年、東京新聞は今年も終戦を記念して、テ-マ投稿「語り継ぐ」を募集。応募した僕の投稿が8月14日に掲載されました。題して「卒業式で『海ゆかば』斉唱」。満洲・公主嶺小学校での悲しくもつらい思い出です。  「あの年の夏は暑かった」。8月になると、戦争体験者なら誰しもがそう思い、さまざまなことが蘇(よみがえ)ります。  僕が小学校(当時は国民学校)を卒業したのは、終戦の1945(昭和20)年の3月です。旧満州(現中国東北部)の公主嶺という地位さん町。その卒業式で歌ったのは、なんと驚くなかれ、「海ゆかば」でした。  「海ゆかば」は、戦争末期、南方戦線で日本軍などが玉砕したときにラジオのニュース放送の冒頭に流された曲です。「天皇のお傍らで死のう。わが身を振り返ることはない」という意味の歌詞が迫ります。  軍国少年だった僕らは校長室で「卒業すればみんなと会えなくなる。だから『海ゆかば』を歌わせてください」と懇願しました。始めは困惑顔の校長が「分かった」と返事をしたのは卒業生で前年にフイリピンで特攻死した兄のことが頭をよぎったのでしょうか。  あれから73年。思えばつらく悲しい時代でした。、そんな危うい気配が今また漂(ただよ)いますが、二度と戦争を繰り返してはなりません

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