あの時歌った 「マロニエの木陰」

 戦後打ちひしがれた日本人を明るく励ましてくれた歌は何といっても並木路子の「リンゴの唄」であることは誰しもが認めるところだが、当時年ごろの僕がのめりこんだのはこの「マロニエの木陰」だ。    空は暮れて丘の果てに  かがやくは星の瞳よ  なつかしのマロニエの木陰で  風は想い出の夢をゆすりて  今日も返らぬ唱を歌うよ    歌手にほれこんだ。松島詩子さんがいい。年上好みにとっては、今風にいえば素敵な「アラフオー」だ。調べてみたら彼女は山口の出身という。夕方テレビのBS4チャンネルで著名な合唱団「フォレスタ」がマロニエをコーラスしていた。申し訳ないが、やはり、ソロの方がぴったりだ。松島詩子が頭をよぎった。フォレスタさん、SORRYです。  作詞の坂口淳氏が「小鹿のバンビ」を、作曲の細川潤一氏はあの「古城」を作ったと死って「やはり」な、と思わず感嘆することしきり。

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あのとき歌った この歌 -30-

日本の敗色が濃くなった1944(昭和19)年、中央大学の学生たちも勤労動員に駆り出され、軍需工場で働いていた。これらの動員学徒にも、次々と召集令状が舞い込み、毎日のように誰かが入隊していった。  1945(昭和20)年3月、応召する中央大学生の見送りに際して、同じ工場で働いていた東京女高師(現お茶の水大)の女子学生から、一篇の詩が贈られた。     2.別れと言えば 昔より    この人の世の常なるを    流るる水を 眺むれば    夢はずかしき 涙かな    それは島崎藤村の詩(若菜集)の一部を変えたもの、情感あふれる藤村の詩は、灰色の濃い雲間から射す陽光のように中大生の胸をうち一年生の藤江英輔が曲をつけた。以後仲間を送り出す際、友情と別離の思いをこめ、この歌がうたわれるようになった。  兄は中大出身ではないが学徒出陣でフィィリピンへ、特攻隊の一員として出撃する際の情景とこの歌が重なる。

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日中友好協会江東支部 事務局便り

11月25日、日中友好協会江東支部の「事務局だより」96号が発刊されました。一面下欄に今年の5月僕が投稿した「歌ったよ、あの日この歌」が掲載されているので紹介します。旧満州での兄にまつわる哀しいエピソードです。     うたったよ あの日この歌  ある日、テレビから懐かしのメロディーがながれていました。聞くともなく耳に入ってきたのがあの「鈴懸の径」(すずかけのみち)。子どものころ聞きなれたこの歌。思わず口ずさんでいた。三兄信男(かみしま・のぶお)のお気に入りの歌だった。  1942(昭和17)年に発売され、灰田勝彦が出身校・立教大学のプラタナスの木陰でうたい一斉を風靡していた。 【注】以下全文はクリックしてください。http://38300902.at.webry.info/201305/article_31.html

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あのとき歌った この歌 -29ー

もう61年前にもなるのだろうか、1952(昭和27)年、慶応に入って通い始めたのは、東横沿線の「日吉」、教養学部の1年生。旧満州生まれの僕が第3語学(第2語学は仏語)として選んだのがやはり中国語だった。今でもその時のことは記憶に新しい。  中国語の初めての授業。永沢という講師がいきなり黒板に「何日君再来」の歌詞を書き始めた。               <何日君再来>     好花不常開 好景不常在  愁堆解笑眉 涙酒想思帯  今宵離別後 何日君再来  喝完了這杯 請進点小菜 人生難得幾回酔 不歓更何時  喝完了這杯再説 (セリフ)  今酔離別後 何日君再来  黒板を指差しながら、「君たち、これ知っているだろう」と言って口ずさみながら、「一人ずつ歌ってみろ!」と笑いながら言う。驚きながら、それでも歌詞にルビをふってくれたので、それぞれの発音と音程で歌いこなしたが、講師がいちいち修正した。  かって、子どものころ満州で、「満映」の女優・李蘭の美声に聞きほれていたこともあったが、それからというものは、中国語の発音と抑揚の素晴らしさにすっかり虜になり、翌年は自然に中国文学科を専攻していた。       テレサ・テンと何君君再来     戦前・戦中なら「何日君再来」を歌ったのは、渡辺はま子か前記李香蘭(山口淑子)だったが、戦後は、やはりテレサ・テンだ。数奇な運命をたどったテレサ。1995年5月8日、惜しくも急病でなくなったが、彼女の歌う「何日君再…

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あのとき歌った この歌 -28-

この頃、戦争中に歌われた歌のとりこになっている。それも時節にそぐわないとのことで、軍部からにらまれ、発売禁止になったり、歌唱禁止になった歌が数々。出征兵士を涙で見送る女性の姿はいけないと放送禁止になった「夜のプラットホーム」や「別れのブルース」などなど、そしてこのことは童謡の世界にも及んでいった。             <里の秋>  3.さよなら さよなら 椰子の島   お船に ゆられて帰られる   ああ 父さんよ 御無事でと   今夜も 母さんと 祈ります  1945年(昭和20)年12月24日の「外地引揚げの午後」という番組で発表された歌(川田正子歌う)といわれています。毎日のように外地から復員船が返ってきました。父親を待つ日本の子どもたちの想いが込められています。  しかし、この歌は、戦時中にすでに斉藤信夫詞、海沼實曲で作られていましたが、3番の歌詞が時節にあわないということで当時発売禁止になっていたものです。「父さん無事で帰って」と言ってはいけなかったのです。詳細な解説は下記をご覧ください。 【リンク】http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_36eb.html

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あのとき歌った この歌 ー27-

1944(昭和19)年12月15日、フイリピンで神風特別攻撃隊の一員として戦死した兄。彼が学徒出陣の際、「別れの会」でギターをつま弾きながらうたった歌が「別れ船」だった。この4月亡くなった田端義夫の持ち歌で、戦後の「帰り船」とともに一世を風靡した。        <別れ船  昭和15年> 名残つきない 果てしない 別れ出船の 銅鑼(どら)が鳴る 想い直して あきらめて 夢は潮路に 捨てて行く 希望(のぞみ)はるかな 波の背に 誓う心は 君故さ せめて時節の 来る迄は 故郷(くに)で便りを 待つがよい  田端義夫さんが戦前(昭和15年)に歌った「別れ船」と、戦後間もなくヒットした「かえり船」(昭和21年)の明暗がくっきりしている。「別れ」は出征した兵士の帰還を望んでいた思いがかなわず、という失意の歌。「かえり」は待ち望んでいた兵士たちが還ってきたという喜びの歌だった。  おふくろが晩年、しばしば口にしたのはトンちゃん(兄の愛称)いつ便りをくれるのだろうね」だった。 【リンク】http://www.youtube.com/watch?v=YCyJj4htcwI

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あのとき歌った この歌 -26-

それは2005年12月。江東区の高齢者集会が佐藤真子さんを招いてコンサートをひらきました。そのはじめの語りがこうでした。「それでは、みなさんご存じの方もいらっしゃると思いますが、私の大先輩の淡谷のり子さんの「別れのブルース」です。     <別れのブルース> 昭和12年 窓を開ければ港が見える メリケン波止場の 灯が見える 夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこえ行く むせぶ心よ はかなき恋よ 踊るブルースの せつなさよ  淡谷のり子さんが(戦争中)慰問に行ったとき、それは特攻隊の方々のところ。「別れのブルース」は、もうその当時は歌ってはいけないという歌でした。しかし、特攻隊の青年たちから「別れのブルース」をうたってほしいといわれ、そして、淡谷のり子さんは歌うんです。  しかし、淡谷のり子さんが歌っている間に青年たちは一人立ち、敬礼をして去っていく。また一人立ち、敬礼をして去っていく。  そして帰らぬ人となったのです。淡谷のり子さんは、あんな悲しい想いをしたことはありまえん、と(この歌を)歌う前にはいつもそういっていたと言います。  (前奏のなかでささやくように、語りかけるように)       <別れのブルース>を聞いて ◆涙と感動につつまれる   「別れのブルース」で始まった佐藤真子さんのピアノの弾き語り。きれいなのびやかな声、平和の尊さを訴えるト-クに会場は酔いしれ、涙と感動につつまれました。(S60代男) ◆心にしみる語り…

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あのとき歌った この歌 -25-

友人に佐藤真子さんのCD「無言館」を勧めたら受け取りながら「高橋真梨子もいいよ!」というからNETで探していたら「別れの朝」という歌が。いまはやりの「You Tube」からながれてきた。歌手は真梨子でなく、前野曜子というなんとも憂いがこもった歌い方をする女性だった。 。       別れの朝 別れの朝 ふたりは さめた紅茶 のみほし さようならの くちづけ わらいながら 交わした  彼女の全盛期が1970年代というから、ぼくのもっとも多忙な時代。聴いたことあるかなと思いつつ聞き入った。40歳で夭折したと知って思わず腕組みしてしまった。 【追記】あのなかにし礼が訳詩した声が、しっとりと胸に入ってくる。このごろ「別れ」という言葉にどういうわけか引きつけられているぼく。翌朝はコンビニ行き、「紅茶」を買って帰宅し、その気になっていた。 【リンク】 http://www.youtube.com/watch?v=ejPpiWasGXc

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あのとき歌った この歌 -24-

歌手・佐藤真子さんの第8回(2010年)「平和へのコンサート」は戦争と映画音楽がテーマだった。リンゴの唄から始まって「禁じられた遊び」「ひまわり」と続き、ロシア民謡の「バイカル湖のほとり」にいたって会場は期待の顔で埋まっていました。      バイカル湖のほとり ゆたかなるザバイカルの 果てしなき野山を やつれし旅人が あてもなくさまよう ロシア民謡で「徒刑囚が逃亡して家に帰ったら父親は死に兄弟はシベリア送りになっていた」という原歌詞の歌です。学生時代歌声喫茶でロシア民謡といえばこれを歌いました。   【追記】当日佐藤真子さんはロシア語でも歌い、来場者を唸らせていましたが、シベリア抑留の経験もあり、チエリストの井上頼豊さんの訳詩を全文朗読しました。映画「シベリア物語」の挿入歌です。 【リンク】  http://www.youtube.com/watch?v=y_vsVXhNY-g

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あのとき歌った この歌 -23-

日本で唯一の住民が地上戦に巻き込まれた沖縄戦。三カ月にわたった戦闘で多くの住民が死んで行った。なかでも68年前の今日から明日(6月18~19日)にかけて、多くの兵士たちの看護にあたっていた、あのひめゆり学徒隊の多くの乙女たちが自決していったという。  その乙女たちが卒業式で歌った「別れの曲」(相思樹の歌)が胸に迫ります。        「相思樹の歌」(相思樹の歌)            -ひめゆり卒業生に送られた歌ー     目に親し 相思樹並木  行き帰り 去り難けれど  夢のごと 疼き年月の  行きにけん 後ぞくやしき  歌手の佐藤真子さんは07年原宿で開かれた「平和への想い」コンサートでこの歌をうたい、聞き入る来場者の哀感をさそいました。6月23日は沖縄日本軍の組織的抵抗が終わった日。生き残ったひめゆりの彼女たちは今年もまた「塔」の前で涙し、歌うことでしょう。 【リンク】相思樹の歌  http://38300902.at.webry.info/200906/article_20.html

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あのとき歌った この歌 -22-

「東京大空襲60周年のつどい いま語り継ぐこと」が2005年3月5日、東京江東区の総合区民センターで開かれました。空襲体験者から孫の世代までかってない510人が集まり、戦争の悲惨さを伝え、学び合いました。このつどいのオープニングを飾ったのがこの歌でした。         <卒業写真> お嫁にいくとき 母さん渡してくれた 卒業写真のアルバムは 幼い私がすわっている かっすぐ前をみつめている それから話してくれたのは 60年前の3月10日  母さんの そのまた母さんの  燃えてしまった 卒業式   この日のためによせられた歌(永井和子作詞、神野和博作曲)「卒業写真」でした。神野さんのギターで、ささいはるみさんが語るように、ささやくように歌い、参加者はかみしめるように聞き入っていました。 【注】この「つどい」の翌日・3月6日の全国紙(朝日・毎日・読売)はいっせいにこの日の模様を伝えました。東京、「しんぶん赤旗」なども。各紙とも写真付きで大きく扱い、60年前のこの日の惨事と、平和の尊さを後の世に伝えなければ、との思いが込められていましたが、東京新聞の「平和憲法、曲がりそう」の見出しが出色。「赤旗」の「戦争しようとする政治家に一票も投じないでほしい」(高木敏子さんの講演)という引用記事が目立ちました。 【リンク】聞いてみましょう「卒業写真」  http://bunbun.boo.jp/okera/v_jinno/sotugyou_pho_naga.htm

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あのとき歌った この歌 -21-

「禁じられた遊びー1952(昭和27)年製作のフランス映画。日本公開は翌53年、監督・ルネ・クレマン(Rene Clement)..映画のあらすじより、バックに流れる曲が忘れられない。ナルシス・イェペスのアコーステイック・ギターの素朴な音色がこの映画を一層引き立てている。この曲は「愛のロマンス」という題名のスペイン民謡。         戦争と映画音楽     戦後間もなく見た映画で、今でも記憶に残っているものを10本挙げろといわれれば、すらすらと出てくる。それは「風と共に去りぬ」をはじめとして、「戦争と平和」「今ひとたびの」「戦火のかなた」「自転車泥棒」「鉄道員」「第三の男」、そして「禁じられた遊び」・・・などなど。  敗戦の混乱期とあって、やはりあの戦争は「何だったのか」が一大テーマになったのは自然の成り行きだったが、洪水のように日本に入り込んだハリウッド映画はともかく、イタリアン・ネオリアリズムの潮流には圧倒された。  しかし、何といっても映画音楽には酔わされた。とりわけ、「禁じられた遊び」で流される「哀愁、はかなさ、美しさ」をかきたてるあのギターの調べには吸いよせられた。  その調べをギターでなくピアノの弾き語りで佐藤真子さんが「平和への想い・コンサート」(2010年)で取り上げてくれた。すんだ歌声に来場者は魅了されたことは言うまでもない。 【リンク】 禁じられた遊び  http://www.youtube.com/watch?v=05kutNCA2jc

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あのとき歌った この歌 -20-

「『上を向いて歩こう』や『青い山脈』をみんなで歌ったり、よもやま話などで励まし合って一晩を過ごした」と振り返ります。ブナ林のなか身体を寄せ合い、手を組み合わせて吹雪の夜、耐え抜きました。      上を向いて歩こう          -励まし合い歌ったー    上を向いて歩こう  涙がこぼれないように  思い出す 春の日  一人ぼっちの夜  春まだ浅い三月(05年)、秋田・岩手県境の乳頭山で遭難した人たちです。そこには秋田県年金者組合の登山愛好グループがいました。無事に下山したリーダーの斎藤重一さん(73・秋田県本部長)は「私たちは、台風による洪水で取り残された人々が、バスの屋根の上で、歌をうたいながら励まし合い救助を待ちつづけ、一晩明かしたという関西の人たちの話を思い出し、勇気をふるい起されていました」と、疲れた表情ながらもしっかりした声で話していました。 【リンク】 上を向いて歩こう(夢であいましょう)  http://www.youtube.com/watch?v=FWF0Rr4MUmY

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あのとき歌った この歌 -19-

先の大戦のヨーロッパ戦線では、戦争で引き裂かれた恋人たちの愛と別れの歌・「リリー・マルレーン」がラジオから流されると一時銃火は止みドイツ軍と連合軍の兵士たちは涙を浮かべ歌い、ナチス・ドイツをあわてさせたといいます。歌手の佐藤真子さんの18番(おはこ)です。       リリー・マルレーン    夜霧深く立ちこめて  灯りともる街角に  やさしくたたずむ  恋人の姿  いとしいリリー・マルレーン    歌は、悲しいとき、辛いとき、人の心を和ませ癒してくれます。そしてそれは凄惨な戦争のさなかにあってさえ兵士たちの狂気を平常心に呼び戻してくれたようです。  名画「ビルマの竪琴」では日本軍と英軍は「埴生の宿」「庭野千草」「故郷の空」などを合唱、ともに懐郷のひとときを過ごす場面に感動しました。  イギリス兵には自分たちの幼かった頃のこと、故郷スコットランドの山や川、母の顔が浮かび、子どものころから日本の歌だと思っている日本兵には小学校の唱歌の時間がよみがえったのでしょう。 【リンク】 リリー・マルレーン  http://www.youtube.com/watch?v=wzfOs-Yu6Tw&feature-related

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あのとき歌った この歌 -18-

♪「沈丁花の花咲けば~」。 春がそこまでくる季節になると、この歌がよみがえります。凄惨なあの夜の叫びが聞こえます。作詞の永井和子さんと作曲の岡田京子さんが東京大空襲を呼び戻し、新たな思いをもやす歌・「沈丁花の花と妹」です。 ▼横井久美子さん        横井久美子さんと「沈丁花」    両親と妹さんを業火のなかに消し去られた橋元代志子さんの悲痛な体験をもとに作られました。この曲がうまれたとき、詩人と作曲家は初対面だったが意気投合。あの横井久美子さんも歌いました。江東の各地でコンサートが開かれ、来場者は涙、涙し、江東区に「空襲の記念碑」を作る運動のなかで歌い続けられ、絆を確かめあったと言います。            4.沈丁花の花咲いて   また春が 妹よ   紅いモミの袖 埋めた   焼け跡の土に 雨   沈丁花の花咲いて   また春が 妹よ 【追記】1977年、親子音楽の会企画の「東京大空襲記念集会のための構成詩曲」が、岡田さんと私の初作品になりました。私たちはお互いに顔も気持もよく知らない仲だったと思います。  被災者の一人、橋本代志子さんの体験をもとに作った「沈丁花の花」その他、被災者の体験をもとに作った詩の、あまりのつらさに未来への希望として子どもたちの歌「空はどこまでも」をつけ加えないではいられませんでした。  「沈丁花の花」は東京大空襲の地、江東区のすみずみまで横井久美子さんの歌で広がっていきました。  この詩の初めと終わりに同…

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あのとき歌った この歌 -17-

これまで「別れの歌」を何度か取り上げ歌ってきた。いずれも後ろ向きの「別れ」だったが今日は違う。前向きの「別れ」だ。「訣別」といったほうが正確かもしれない。そこにはセンチメントなフイーリングはかけらもない。「さらば恋人よ」を歌おう。  そう、イタリアのパルチザンの歌だ。戦った後にはきっと帰るという決意が込められている。学生時代に愛唱したカンツオーネだった。           Ciao, bella ciao    ある朝 目覚めて  さらばさらば 恋人よ  目覚めて われは見ぬ  攻め入る敵を  ♪ある朝 目覚めて さらばさらば 恋人よ・・・で始まるイタリア・パルチザンの歌『さらば恋人よ』は、戦いに身を投じる若者が恋人との別れを歌ったものだ▼日本でも戦後の歌声運動で学士たちに愛唱された。もとはイタリア民謡の「美しい別れ」を意味する『ベツラ・ちゃお』。「パルチザン」はラテン語起源で民衆で組織された正規軍をいう。スペイン語の「ゲリラとほぼ同義だ▼1943年7月、フアシストの独裁者ムッソリーニを自力で追放したイタリアにナチス・ドイツ軍が侵攻した。一般市民と流刑地から解放された反フアシズムの闘志たちは、米英軍と休戦協定を結び、レジスタンス(抵抗運動)を組織して45年のドイツ降伏まで戦い抜く。死者4万5千人を数えた。(東京新聞ー05年5月15日「筆洗」) 【リンク】 http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/bella…

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あのとき歌った この歌 -16-

鎌倉で開かれた佐藤真子さんのシャンソン・コンサートに行った帰り際。同行の小名きぬさんが、少しばかり上気しているのを見て、「疲れましたか?」と声をかける僕に、「いいや、シャンソンはやっぱりいいわね!」と小名さん。  帰りすがら駅までの道々は、シャンソンンの話で持ちっきり。聞けば、十年前に亡くなった夫君・小名愰平氏(享年83)が日ごろ口ずさんでいたのが「巴里の屋根の下」だったとか。  小名愰平元陸軍大尉の戦歴が痛恨のドラマです。ノモンハン(昭和14年)で、九死に一生の境をさまよい、中国は北支、南支を転戦。殺し、殺され、部下を何人亡くしたか数えきれないといいます。  戦後、復員したのが昭和22年。七年間大陸を彷徨していた彼は、あの地でのことは固く口を閉ざしたまま逝きました。没後、葬儀に参列した部下たちは異口同音に退却の名人といい、名部隊長と涙しました。  故郷、青森の八戸で結ばれた小名夫妻。上京後の彼は持って生まれた才能を発揮、平和運動の理論家・リーダーに。没後十年。表札はそのまま、自宅の仏前には常に旬の生花が飾られ、レコーダーからはときおり、シャンソンが語りかけるようです。 【リンク】 Sous les toits de paris   http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_8d45.html

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あのとき歌った この歌 -15-

「真白き富士の根 緑の江ノ島 仰ぎ見るも 今は涙 帰らぬ十二の 雄々しきみたまに 捧げまつる胸と心」 2007年5月、鎌倉市の「欧林洞」で歌手の佐藤真子さんがこの歌・「七里ガ浜の哀歌」を歌い会場をしんみりさせたことが思いだされます。        七里ケ浜の哀歌 真白き富士の根 緑の江ノ島 仰ぎ見るも 今は涙 帰らぬ十二の 雄々しきみたまに 捧げまつる 胸と心 ボートは沈みぬ 千尋の海原 風も波も 小さき腕に 力つきはて 呼ぶ名は父母 恨みは深し 七里ガ浜  大病で2カ月間入院の後のこと、やや不自由な体を自ら鼓舞しながらたどりついた鎌倉。瀟洒な小ホールの一隅に席を取っての一時間余り。続けられる清々しい歌声に聞きほれていたが、とりわけ鎌倉で聞く「十二の雄々しき~」の歌詞には、はるか昔の小学校の音楽教室に引きこまれたような思いで、懐かしさに酔わされ、癒されていた。        真白き富士の根 100年    美しいメロディーと心に染みる歌詞の魅力は、100年の月日を経た今も色あせていない▼神奈川県鎌倉市の七里ケ浜沖で12人が乗ったボートが沈んだのは、1世紀まえの1910(明治43)年1月23日。10歳から21歳の12人が亡くなり、11人が逗子開成中学の生徒だった。▼世の人々の涙を誘ったのは、強く抱き合ったままの状態で見つかった兄弟の遺体だ。「兄は死後も骨肉の情の護りも固く、両手強直、全指を交互に強く交えて握り締め、自己の双腕に全霊力を集めて弟を抱…

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あのとき歌った この歌 -14-

かって評論家の中村光夫氏が「あらゆる芸術のなかで一番宗教に近づいているのは音楽だ」と書いたのを記憶している。歌はときに心を癒し、ときに魂をゆさぶり、崇高の域に到達させられるかも知れない。だから人間わびしくなったら歌を口ずさみ、音の領域に誘いこまれたくなる。 ▼特攻基地で「帽振って」惜別の出撃  遠き別れに 耐えかねて  この高殿に 登るかな  悲しむなかれ 我が友よ  旅の衣を ととのえよ  別れと言えば 昔より  この人の世の 常なるを  流るる水を 眺むれば  夢はずかしき 涙かな 【追記】「惜別の歌」   日本の敗色が濃くなった昭和19(1944)年、中央大学の学生たちも勤労動員にかり出され、軍需工場で働いていた。これら動員学徒にも、次々と召集令状が舞い込み、毎日のように誰かが入隊していった。  昭和20(1945)年3月、応召する中央大生の見送りに際して、同じ工場で働いていた東京女高師(現お茶大)の女子学生から、一篇の詩が贈られた。  それは島崎藤村の詩の一部を変えたもの、情感あふれる藤村の詩は、灰色の濃い雲間から射す陽光のように中大生の胸をうち一年生の藤江英輔が曲をつけた。以後仲間を送り出す際、友情と別離の思いをこめ、この歌がうたわれるようになった。  兄も中大出身ではないが学徒出陣でフイリピンに、特攻隊の一員として出撃する際の情景とこの歌が重なる。 【リンク】 http://www.utagoekissa.com/sekibetsu.h…

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あのとき歌った この歌 -13-

1950年代のはじめの頃、学生運動が挫折に出遭ったとき、紛らわせてくれたのは映画と歌だった。授業にでるのも拒否、登校もせず通い詰めたのが映画館。「二十四の瞳」「「足摺岬」「女の園」などなど、家庭教師で頂いた謝礼をほとんどつぎ込んで、のめり込んだ。 ▼昭和29年頃、三田祭で友人とぼく(左)       平和願う春の花見つけた    そして歌。慶應・三田キャンパスの一隅、福澤諭吉演説館前の小広場(当時戦災で「丘の上」は講堂などが焼け落ちたまま、空地が散在していた)で、昼休みともなれば数十人が集まり、立ち並びコーラス。歌は、当時はやりのロシア民謡や反戦歌。そのなかでもよくうたわれ、忘れられないのが『いぬふぐり』(すずき・みちこ作詞・作曲)であった。         <いぬふぐり>    丘はいま柴山  いぬふぐりも咲いている  息をはずませてのぼった  くにさんと一緒にのぼった。    いぬふぐりを忘れない  くにさんを忘れないずっと  戦争の悲しさ忘れない  戦争が起こらんようにする  これは、戦争で死んだ「くにさん」を想う少女の歌である。「くにさん」は恋人かも、あるいはお兄さんかも。『いぬふぐり』は、私たちに「生き残った者」は何をすべきかを教えてくれる。  この歌の主人公は「くにさん」を思いながら、「せんそうのかなしさわすれない/せんそうがおこらんようにする」と叫ぶのである。 【リンク】 いぬふぐり   http://bunbun.boo…

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あのとき歌った この歌 -12-

「♪そばにいてくれるだけでいい/黙っていても・・・」。昨夜はこの歌を口ずさみながら眠りに入った。「何って歌?」と聞かないの! そう、あの男心を知りつくした恋多き越路吹雪さん。彼女が心変わりしたとき、使者として相手に断りの言葉をそっと伝えた人・岩谷時子さん。彼女の作詞。      おまえに そばにいてくれる だけでいい 黙っていても いいんだよ ぼくのほころび ぬえるのは おなじ心の 傷をもつ おまえのほかにだれもない そばにいてくれるだけでいい  作曲家・吉田正さんが自らの人生を陰で支え続けた夫人にたいする感謝の念を込めて作った作品。吉田夫妻と親交のあった岩谷時子さんが仲睦ましい同夫妻をイメージしてつくられたという。1972年、フランク永井が歌って大ヒットした。 【追記】二番の歌詞がまた、いい。 「そばにいてくれる だけでいい/泣きたいときも ここで泣け/涙をふくのは ぼくだから/おなじ喜び 知るものは/おまえのほかに 誰もない/そばにいてくれる だけでいい」 そばに誰もいない一人ぼっちはどうすればいい。 【リンク】 http://duarbo.air-nifty.com/songs/2009/07/mp3-5947.html

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あのとき歌った この歌 -11-

先ほどからひとり家の中で、いずみたくの「夜明けのうた」をうたっている。選挙が近くなると思いだすのがいずみたく。40年も前のこと。区議選の最中候補者カーで事務所に帰りつく時、街の人たちへの挨拶のメロディーが「勝利の唄?」(オルゴール調)だった。ぼくにとっては何よりも励ましの歌だった。       夜明けのうた     夜明けのうたよ  あたしの心の  きのうの悲しみ 流しておくれ  夜明けのうたよ  あたしの心に  若い力を 満たしておくれ  ぼくたちの若き日に、いつでもどこでも歌われ、一斉を風靡した作曲者がいずみたく。彼はぼくより二つ年上(当時41歳)だった。作詞は岩谷時子、岸洋子が歌いあげた。晩年、彼は他党からの推薦で参議院議員に出馬したので、この世界では歌われなくなった。だが、忘れられないいい歌だ。 【リンク】 http://www.youtube.com/watch?v=HLczO6jAf6w

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あのとき歌った この歌 一覧

「歌は世につれ 世は歌につれ」と言われますが、来し方を振り返り、あの時こんなことがあったな! と思うとき自然に人は誰しもがその頃の歌を口ずさむようです。ここのところしきりに懐かしのメロディーがよみがえります。これまで書き込んだ歌の一覧です。 ▼榛名山にある「湖畔の宿」記念碑 ①40 別れの一本杉  http://38300902.at.webry.info/201304/article_20.html ②39 赤坂の夜は更けて  http://38300902.at.webry.info/201304/article_28.html ③35 海行かば  http://38300902.at.webry.info/201304/article_31.html ④23 鐘のなる丘  http://38300902.at.webry.info/201304/article_46.html ⑤35 沖のかもめ  http://38300902.at.webry.info/201304/article_51.html                                         ▼イムジン河 ⑥20 湖畔の宿  http://38300902.at.webry.info/201304/article_61.html ⑦29 リンゴの唄  http://38300902.at.webry.info/201305/article_11.html …

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あのとき歌った この歌 -10-

昨夜、テレビが懐かしのメロディーを放映していた。聞くともなく耳に入ってきたのが「鈴懸の径」だった。思いで深いこの歌、思わず口ずさんでいた。三兄・信男(のぶお)のお気に入りの歌だった。 ▼立教大学内 記念碑  1942(昭和17)年に発売。灰田勝彦が出身校・立教大学のプラタナスの木陰で歌い、一斉を風靡していた。♪「友と語らん 鈴懸の径/通いなれたる 学舎の街~」。そのころ旧満州の吉林にいて、休暇がとれれば、実家に帰るとアコーディオンを抱えて歌い込んでいた。  兄は新京(長春)商業卒業後、友人二人と吉林市(澤地久枝さんの居住地)に本拠を構え木材調達促進の国策に従い、朝鮮国境近くの長白山脈の奥深く入り森林の伐採に従事、過労がたたり、1943(昭和18)年、実家の南満・公主嶺市・満鉄病院で結核のため死去、25歳だった。  1945(昭和20)年8月9日、ソ連参戦で取るものとりあえず避難列車に乗った私たち家族。遺骨は放置したまま。戦後、母は「お墓参りもできずに悲しい」と歎くことしきりであった。兄は未だ日本人墓地に眠っている。 【鈴懸の径】  http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_0628.html

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あのとき歌った この歌 -9-

「♪旅のつばくろ 淋しかないか/おれもさみしい・・・」ーころは、昭和12(1937)年、ところは旧満州・公主嶺街(現中国東北部)。おふくろが仕立物をととのえながら、蓄音器からながれる歌にあわせて口ずさみます。何を思うのか哀調がただよいます。 ▼公主嶺街、左手が生家ー昭和8年ごろ  幼子三人を抱えて今でいう「母子家庭」。親父は放蕩三昧、行方知れず。ましてや昭和の初期の異国の地でひとりうたう歌は、いつもとぎれとぎれ。それでも、口ずさむのは比較的ハイなとき。      サーカスの唄 (クリック)  旅のつばくろ 淋しかないか  おれもさみしい サーカス暮らし  とんぼがえりで 今年もくれて  知らぬ他国の 花を見た  朝は朝霧 夕べは夜霧  泣いちゃいけない クラリオネット  ながれながれる 浮藻の花は  明日も咲きましょ あの町で  蓄音器のゼンマイが切れかかって「ブーン。グーン」となりだすと、きっとこちらを見て、「よし坊(ぼくのニックネーム)、何をボヤボヤしてるの! 巻きなさい」とせきたてました。 【リンク】サーカスの唄  http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_fef7.html

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あのとき歌った この歌 ー8-

この国ではひところ、歌うのは好ましくないといわれた朝鮮の歌・「イムジン河」をある夏、原宿のコンサートで歌手の佐藤真子さんがリクエストに応えて歌ってくれた。青春時代、歌声喫茶などで歌い、哀感ただよう歌詞とメロディーに分断されている朝鮮民族の悲しみを思い起こされた。    リムジンガン(臨津江) リムジンガン水清く 静かに流れゆき 鳥は 川よぎり 自由に 飛びかうよ 母なる故郷へ なぜに帰れぬ リムジンの流れよ 答えておくれ     平和的統一は朝鮮民族の悲願                     佐々木治代    同じ民族でありながら南北に分解されてしまった国。映画「JSA]で見たことがあった板門店へ「韓国文学と歴史の旅」の一員として訪ねた。北にある家族や親戚の墓参は叶わなわないのでリムジン河境にして向こう岸が見える小高い丘に石碑が建っていた。「母なる故郷へ なぜに帰れぬ」の歌詞を思い起こし、涙があふれた。  過去の歴史において、朝鮮民族の悲劇的状況に大きな責任を負う日本人として、この不幸の上塗りをするような事態は決して招いてはならないとの思いを新たにする。 【観光案内の文章の最終部分から】「韓国人は門族同士の悲惨な経験である朝鮮戦争や半世紀以上の分断の痛みを持ち続け、世界のどの国とよりも自由と平和を重んじている。七千万人の朝鮮民族の願望である平和的統一を祈っている」。 【リンク】 http://duarbo.air-nifty.c…

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あのとき歌った この歌 -7-

敗戦の年、満州から命からがら引き揚げてきたぼく。帰国して見た日本の惨状、とりわけ東京・下町の凄絶な様は筆舌に尽くし難く、遠く隅田川を越えて日本橋は、三越の廃墟が望見できるほどの光景は忘れられません。  東京大空襲ですべてが焼き払われ、住む家もなく、食べるものもなく、瓦礫のなかで、途方に暮れる人々を元気づけてくれたのが、街頭のラジオから流れるこの唄でした。勇気と希望と活力を与えてくれたのが並木路子さんうたう「リンゴの唄」でした。♪赤いリンゴに唇よせて だまって見ている 青い空~  一昨年の3月、ぼくはブログにこう書きました。    東北地方の大震災に遭われた被災者の方々にこの歌を贈ります。戦後、朝鮮で難民生活を25日間過し、引き揚げてきました。東京・深川にたどりついて、さあこれからという時、励まされた歌が「リンゴの唄」でした。ご一緒にうたいましょう。想いは同じです。あのとき助け合い、励まし合いながら焦土からよみがえった日本人ですから」7 【注】並木路子さんは東京大空襲で母親を、南方戦線で父親と次兄を失っています。 【リンゴの唄】 http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-ringonouta.html

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あのとき歌った この歌 -6-

♪「山の寂しい湖に ひとり来たのも悲しい心 胸の痛みに耐えかねて~」1940(昭和15)年に発売され一世を風靡した名曲「湖畔の宿」の一節です。作曲はあの服部良一、歌ったのは女優の高峰三枝子。当時大変な人気でした。     それでも歌った「湖畔の宿」     しかし、その頃の日本は、戦時色いっぱい、ラジオからは戦意高揚をねらった軍国歌謡などがさかんに流されていました。そんななか発売された「湖畔の宿」は、感傷的な歌詞やメロディーが戦時下にふさわしくないと、当局から嫌われ、挙句の果てに発売禁止になりました。  高峰三枝子は前線にいる兵士の慰問のため、たびたび前線の基地を訪れています。国内では発売禁止になったはずの「湖畔の宿」でしたが、兵士たちは大っぴらに歌い、また多くのリクエストがあったといいます。  歌は世につれ、世は歌につれといいます。しかし、、どんな時代も、どんな力も、人の心を打つ歌、故郷や平和への想いをしのばせる歌をさえぎることはできません。  再び「いつか来た道」をすすむ気配がただよういま、「くちびるに歌を、心に太陽を!」を合言葉に歌い、そして、心に残るあの歌を次の世代に伝えたいものです。 【リンク】 湖畔の宿 http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_434d.html

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あのとき歌った この歌 -5ー

「沖の鴎と飛行機乗りは・・・」。この歌は戦時中、特攻隊員が出撃の前夜、送別の小宴で決まってうたった歌という。そろそろ酔いがまわりかかったころ、故郷の山や海や川を、おふくろの眼差しを、そして彼女の涙を想い出し、眼をしばたたきながら半ば虚ろ気味にうたった「さよならの唄」だ。      遺影の前で「沖の鴎」うたう     神奈川県三浦岬の民謡。替え歌として飛行機乗りの悲哀を歌詞にした。特攻隊節として知られている。「ダンチョネ」とは「断腸の思い」を模したものとされている。  特攻で死んだ兄の33回忌(昭和52年)には紙一重で生還した無二の戦友・元海軍中尉・直居、内山、蒲生、大原の各氏が肩を組み、遺影の前で涙ながらに歌ってくれた。     ダンチョネ節    作者不詳 1.沖の鴎(かもめ)と飛行機乗りは   どこで散るやらネ   はてるやら ダンチョネ 2.おれが死ぬ時 ハンカチふって   友よ彼女(あのこ)よネ   さようなら ダンチョネ 【リンク】 ダンチョネ節  http://www.youtube.com/watch?v=5rvbl2tgpM4

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あのとき歌った この歌 -4-

1932(昭和7)年に東京・墨田区に生まれた高木敏子さん。東京大空襲で母と二人の妹を亡くし、米軍の機銃掃射で父を殺された無念の思いを、せつせつと語ると、会場を埋めつくした500人を超える人たちは身をのりだして聞きいりました。(2005年3月「東京大空襲60周年の集い」)       「鐘の鳴る丘」に涙、涙  2.緑の丘の 麦畑    おいらが一人で いる時に    鐘がなります キンコンカン    鳴る鳴る鐘は 父母(ちちはは)の    元気でいろよと いう声よ    口笛吹いて おいらは元気   戦後、大空襲で家も親も失った「戦災孤児」の悲痛な叫びと暮らしに話が及んで、自分の歩みに重なったのでしょうか、二番だけです。二番だけ歌わせてください、と言って、歌い始めました。  「~鐘がなりますキンコンカン/おいらはかえる屋根の下/父さん母さん いなけど/おいらはかえる・・・」というくだりでは、もう声になりません。ほとんど嗚咽(おえつ)です。思わず会場からの絞り出すようなハミングとも共鳴して、こらえきれずに涙をぬぐう若い女性やお年寄りの姿もみられ、「せんそうはもういけない」の思いがこみあげていました。 【リンク】 鐘の鳴る丘  http://duarbo.air-nifty.com./songs/2007/06/post_c16a.html

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