「山田和夫さん」 関連ブログ 一覧

 山田和夫さんという卓抜した映画評論家がいらした。しんぶん「赤旗」に日々、その時々上映中の内外の映画評論を書き好評を博していた。私などは山田さんが選んだ映画のみ映画館に足を運んだものである。当時雑誌「前衛」に掲載された「特攻映画」という論文に魅せられ、お許しを得て私のブログに連載し、多くのアクセスを得た。         <山田和夫関連 ブログ15> ①197 思い出される山田和夫さん ② 61 これはきっと山田さんの文書 ③122 山田和夫さんが逝かれた ④ 73 山田さん「悪夢の記憶」 ⑤ 78 山田和夫さん 江東で講演 ⑥ 90    〃     「特攻映画」 終 ⑦150        〃         ⑦ ⑧ 92 「大きな存在」 山田和夫さん ⑨172 山田和夫描く「特攻映画」 ⑥ ⑩268       〃         ⑤ ⑪ 87       〃         ④ ⑫213       〃         ③  ⑬125       〃         ②  ⑭171       〃         ①  ⑮132       〃         序   【注】総ページ数は15。アクセス数は2049です。なお、序列は日付逆順で表示しています。なお、下写真は2012年、江東区の高齢者集会でサインセールをする山田和夫さん。  https://38300902.at.webry.info/theme/30eec664a9.html 

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「沖の鴎と飛行機乗りは・・・」 特攻隊員が唄った

 「沖の鴎と 飛行機乗りは どこで散るやらね 果てるやら ダンチョネ」この歌は戦時中、特攻隊員が出撃の前にひらかれた「送別の宴」で決まってうたったという。  そろそろ酔いががまわりかかったころ、故郷の山や川を、子どものころ母に抱かれた温もりを、そして恋人の涙を思い浮かべつつ、目をうるませながら自らの運命(さだめ)を半ば空ろ気味に歌った「さよならの唄」だ。  神奈川県三浦岬の民謡、替え歌として飛行気乗りの悲哀を歌詞にした特攻隊節として知られている。「ダンチョネ」とは「断腸の思い」を模したものとされている。 2、おれが死ぬ時 ハンカチふって   友よ彼女(あの子)よネ   さようなら ダンチョネ   フィリピンで特攻死した兄の法事には、映画・「雲ながるる果てに」の脚本を担当した直居欣也元海軍中尉(土浦海軍航空隊で同期生)、紙一重で生還した戦友らが遺影の前で手をつなぎ、涙ながらに歌ってくれた。戦後73年、彼らもみな他界した。

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八月に戦死 海軍学徒飛行兵

これは69年前、軍国少年だった「満洲っ子」の忘れられないメモリーの一つである。1944(昭和19)年の12月にフイリピンでゼロ戦に搭乗、特攻死した兄(神島利則=かみしまとしのり)の戦友たちが、遠く大陸・満洲に飛来。その数日のあいだに起きた悲しくも辛い話だ。内山光雄海軍中尉(石川県出身=駒沢大出)ほか5人の若者の顔が、8月になると、今でもよみがえる。 ▼一式陸上攻撃機  1945(昭和20)年8月11日、前々日のソ連参戦で満洲も危険地帯になったとして、私の住んでいたあの大陸では有数の陸軍・公主嶺飛行場から海軍の一式陸上攻撃機(7人乗り)が3機飛び立った。  内山光雄中尉以下6人の第13期海軍飛行専修予備学生(兄も土浦航空隊で同期生)が率いる21名。南満洲・公主嶺市の我が家の上空を、顔が見えるほどの超低空で、轟音を響かせながら3度旋回(通常は絶対に許されない飛行)、機上では挙手の礼、地上ではおふくろをはじめ在住の家族、多くの日本人は手を振り、死地に旅立つ彼らに「さようなら」を絶叫、期せずして空陸あげての「惜別の会」になっていた。  それより先、沖縄が陥落。ひしひしと米軍が本土に迫ってくる7月の末、本土決戦に備え、温存されていた海軍機は、より安全と思われている満洲に退避していた。  明日をも知れない学徒兵たち。彼らの日常活動は尋常でなかった。酒が唯一つのよりどころ。外出命令などはものかは。この街に着くやいなや繰り出したのは、日本人街にある「カフエー」だった。  狭い街、公主嶺…

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美空ひばりと反戦歌 今日生誕77年

今日(5月29日)は、昭和が生んだ最大の女性歌手、美空ひばり(1937年5月29日~1989年6月24日)の生誕77年、没後25年にあたる。生誕地横浜の旧宅が一般に公開されるなど各地で記念式典が催される。     美空ひばりが歌った「反戦歌」    美空ひばりが反戦歌を三曲歌ったというと誰しもが驚く、広島原爆記念祭でうたった「一本の鉛筆」とその前夜の「八月五日の夜だった」は比較的知られ、歌われているが、彼女が芸能生活30周年記念コンサートで披露した「白い勲章」は知られていない。学徒出陣で海軍飛行兵として死んだ宅島徳光海軍中尉。彼の意中の女性にあてた遺稿詩「くちなしの花」に感動した彼女が補作した「白い勲章」。船村徹が曲をつけた。  【注】写真はCD「祈り」(コロンビア)。このなかに収録されている。下は恋人・赤沢八重子さんの著作、彼のことがつづられている。  白い勲章  詞:宅島徳光 補詞:美空ひばり 曲:船村 徹 俺の言葉に 泣いた奴が一人  俺を 恨んでいる奴が一人 それでも本当に 俺を忘れないで いてくれる奴が一人 おれが死んだら くちなしの花をを 飾ってくれる 奴が一人 みんな併せて たった一人 祭り囃子が 聞こえる部屋に わたしひとりで 座っています それでも 本当に 俺を忘れないで いてくれた奴が一人 あなたの言葉 ひとつひとつが胸に いまも聞こえて離れないの 二人併せて たったのひとり みんな合わせて たったのひとり 【宅島徳光とくちな…

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沖縄で戦死した 海軍飛行学生 終

海軍飛行学生の主力は東京六大学をはじめ、ほとんどの大学、高専、師範学校の出身で占められていた。以下の二人は、奇しくも早稲田と慶応。「都の西北」と「丘の上」が4月29日という同日、搭乗機も同じく零戦、沖縄の空に散っていった。早慶のエールの交換は神宮球場だけにしよう。 ●市島保男海軍少尉(14期海軍飛行予備学生)  早稲田大学 東京都出身 神風特別攻撃隊第五昭和隊、昭和20年4月29日、沖縄東南会場にて戦死、23歳。搭乗機零戦  昭和18年10月15日(金)晴 10時半から学校で壮行会を催してくれた。戸塚球場に全校生徒集合し、総長は烈々たる辞を吐き我等も覚悟を強固にする。  なつかしの早稲田の杜よ。白雲に聳ゆる時計塔や。いざさらば!今限りなく美しい祖国に、我が清き生命を捧げ得る事に大きな誇りと喜びを感ずる。 ●中西斎季海軍中尉  慶應義塾大学 和歌山県出身 昭和20年4月29日、神風特別攻撃隊神雷部隊第九建武隊で出撃、南西諸島にて戦死。27歳。搭乗機零戦。  人間は死ぬゝと口に出せるうちはまだ本当に死ぬという観念が迫って来ない。いよいよ明日突っ込むという日になって、はじめて死ぬのかといふ気になる。いやそれでもまだ何か他人事のやうな記がしてゐるが・・・・・・しかし明日は突入する。さうすればたしかに死ぬ。

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沖縄で戦死した 海軍飛行学生 ⑧

特攻隊員の選出は形式上は志願という形がとられていた。しかし、内実は、上官から”大義”への道を説かれ、あるいは、周りの状況にやむを得ぬものを感じて自らも名乗り出ているのだった。こうしてわれに死を覚悟させ、ただひたすらに”不惜身命”(ふしゃくしんみょう)だけを考えて敵地へ突入させられていった者が少なくなかった。 ●永尾 博海軍中尉 西南学院 佐賀県出身 神風特別攻撃隊第三草薙隊、昭和20年4月28日南西諸島にて戦死。23歳 搭乗機九九艦爆。  生を受け22年の長い間、小生を育まれた父母上に御禮申上げます。  父さん 大事な父さん 母さん 大事な母さん 永い間、色々お世話になりました。好子、壽子をよろしくお願いいたします。では参ります。お身体をお大事に。 【リンク】http://38300902.at.webry.info/201007/article_23.html 

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沖縄で戦死した 海軍飛行学生 ⑦

特攻隊員の遺書。そのなかには”母上様””母を思う”という言葉が多い。国を護る。母を思う。特攻隊員たちの心には、果たして、どちらが深く沈んでいたのだろうか。 ●矢野 昇海軍中尉  中央大学 長崎県出身。 昭和20年4月23日、沖縄方面にて戦死、15歳。搭乗機 零戦。    「お母様の眼」 御母様、先日御出で下さいましたのに何等お話も出来ませず失禮いたしました。淋しいお心持のまゝお帰りだった事だらうと想像いたし、なぜもっとやさしく応對しなかったのか、今更後悔致して居ります。  お母様だけなりと飛び立つ我々の勇姿を一目みていただきたかった。それも今となってはかなひますまい。むしろ見送って下さらぬ方がいゝかと思ひます。  ではお母様! 征って参ります。   4月16日 昇 【注】http://38300902.at.webry.info/201009/article_17.html

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沖縄で戦死した 海軍飛行学生 ⑥

4月6日呉の軍港を片道の燃料だけを積んで出撃した日本海軍の戦艦「大和」は7日、奄美大島沖で撃沈された。戦没者3千数百人と聞く。一方、空からは残り少ない「ゼロ戦」を全国からかき集め沖縄へ突っ込ませる無謀な作戦を強行した。 ●青木牧夫海軍中尉  高知師範卒 高知県出身 神風等別攻撃隊第三御盾隊、昭和20年4月16日、沖縄方面にて戦死、23歳。搭乗機零戦。  <祖父を懐う>御祖父様御病気の知らせを聞きましてあまり意外の事に夢のようでなりません。私この歳に至るまで親代わりにそれ以上に可愛がられて来た事を思ひ身にしみる痛手です。私たち一番の幸せは皆の健康な姿です。お母さんもあまり心配してお体をこわさないようにして下さい。 【注】 http://38300902.at.webry.info/201008/article_25.html ●小久保節彌海軍中尉  函館高等水産学校 愛知県出身 昭和20年4月16日、南西諸島にて戦死、26歳。搭乗機零戦。  <我が故郷>我が故郷の何と美しきことよ。四季とりどりの花は咲き、鳥は歌ひ、山あり、海あり、太平洋の雄大なあの土用波の光景が眼にうかぶ。  我が故郷よ、無辜の幸あれ。そして生まれくる国の子供をいつまでも、いつまでも育んで呉れ。我がふるさと人よ、何時までも、いつまでも純粋であって呉れ。 【注】 http://38300902.at.webry.info/201001/article_37.html

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沖縄で戦死した 海軍飛行学生 ⑤

海軍には零戦という艦上戦闘機があった。開戦当初は名機としてもてはやされたが、大戦末期は特攻機として使用され、250キロで爆装して若者の多くが南方で、沖縄で突っ込んでいった。名機どころか悲しい末路をたどっていったのである。熊倉中尉もその一人であった。 ●熊倉高敬中尉  専修大学 熊本県出身 神風特別攻撃隊第二筑波隊、昭和20年4月14日南西諸島において戦死。23歳。搭乗機零戦。  4月10日、今日こそ出撃と、朝早くから待機する。もう、此の日記を書く暇もない。之で筆を置く。誰の手を経てか届くことであらうが、俺の父母にも宜しくお伝へ願ひたい。必ず今日の出撃には土産を得る事と信ずる。大きな空母でも土産に』あの世で楽しもう。  4月12日、午前10時。さらば  皆々様の幸福を祈る 【注】http://38300902.at.webry.info/201007/article_22.html 【零戦】昭和(1940)年、紀元2600年の「〇(ゼロ)」をとって海軍の正式機に採用された名称。昭和14年に三菱重工名古屋製作所で造られ、中国戦線(重慶爆撃の援護機)に出動した。当初は運動性能の良さで他の戦闘機の追随を許さなかったが、大戦末期では・・・。 【追記】http://38300902.at.webry.info/201207/article_9.html

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沖縄で戦死した 海軍飛行学生 ④

●小島 博海軍中尉 「教え子へ」 東京第一師範 北海道出身。昭和20年4月12日沖縄方面にて戦死、特攻ロケット「桜花」搭載した一式陸上攻撃機上で戦死。 22歳。  お約束のお話、大変遅れてごめんなさい。ここは飛行場です。(中略)  ブーン、ブーンがっちりと翼を張って南へ南へ真直ぐに飛んでいきます。  青い海に太陽が反射して、波がきらきらと美しく輝いてゐます。  では又ね。お元気で・・・。  (この手紙はピアノ教師であった彼が在隊中その教え子たちに寄せたものである) 【注】http://38300902.at.webry.info/201001/article_10.html

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沖縄戦で戦死した 海軍飛行学生 ③

以下に掲載する4人の海軍飛行予備学生。緊迫した状況の中で合作で川柳を百首つくり飛び立った。2人は6日、後2人も11日、相連れ立って突っ込んで行き、帰らぬ人となった。彼らがどのような心情で作成したのか推し量るすべもないが、読み込むほどに胸に迫ってくる。 ●及川 肇中尉  盛岡高工 岩手県出身、昭和20年4月6日南西諸島にて戦死 23歳 搭乗機零戦 ●遠山善雄中尉 米沢高工 山形県出身 昭和20年4月6日     〃      23歳    〃 ●福知 貴中尉  東京薬専 島根県出身 昭和20年4月11日南西諸島にて戦死 23歳   〃 ●伊熊二郎中尉 日本大学 静岡県出身 昭和20年4月11日    〃              〃 【川柳百首】 http://38300902.at.webry.info/201004/article_3.html  「川柳辞典」には「川柳とは季節や切れ字などの制約はなく、口語を用い、滑稽、風刺、機知などを特色とした17文字の短詩」とあるが、ここに紹介した神風特別攻撃隊で戦死した若者4人の川柳は、「あてこすり」や「こっけい」を超えている。自らの宿命(さだめ)の理不尽さを内に秘めつつも淡々として書き連ね、むしろ虚空に向かってレジストしているように思われ、読む者をして一層の哀感を誘い、今に怒りを伝える。(永井至正)  ●特攻へ新聞記者の美辞麗句 ●特攻隊神よ神よとおだてられ ●特攻のまずい辞世を記者はほめ ●アメリカと戦ふ奴が…

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沖縄戦で戦死した海軍飛行学生 ②

昭和20年4月1日、米軍は千数百隻の艦隊と50万人に近い兵力をもって沖縄への攻撃を開始した。制海・制空権を奪われていた日本軍が最後の頼みとしたのが”特攻”だった。6日は呉軍港から戦艦大和が出撃、沖縄戦最大の特攻機が九州から飛び立ち帰らなかった。彼らの遺文を見てみよう。 ▼13期海軍飛行予備学生の遺稿集 ●植島幸次郎海軍中尉  明治大学 東京都出身。神風特別攻撃隊菊水部隊大山隊、20年4月6日南西諸島にて戦死。搭乗機「天山」、23歳。  静かに身の廻りを整理しよう/ならう事なら母へ最後のご挨拶と/姉へ遺書を残して置こう。 私の来るべき日は、静かに迫ってゐるのだ。  【注】http://38300902.at.webry.info/201001/article_3.html ●若麻績 隆(わかおみたかし)海軍中尉   大正大学 長野県出身。神風特別攻撃隊第18八幡護皇隊、20年4月6日南西諸島にて戦死。搭乗機「97式艦攻」 23歳。  何もしてさしあげられなかった不肖をお許しください。でも国の為になって男の意地が立てればそれでよいと思ひます。そぞろ感傷をさそふ春の雲に眼を放てば、満ち足りた気持ちが睡気をさそひます。出撃の命が下りました。では皆様御健闘を祈ります。 【注】http://38300902.at.webry.info/201002/article_30.html ●遠藤益司海軍中尉   日本大学 福島県出身。神風特別攻撃隊第一神剣隊員として20年…

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沖縄戦で戦死した海軍飛行学生 ①

1945年4月に米軍沖縄本島に上陸。以来陸上では壮絶な死闘が6月まで続けられたが、軍部は空からも無謀な特攻作戦を強行した。その主力は学徒出陣による飛行予備学生、そして年端も行かない予科練習生が主力で死地に追いやった。本日から4月に沖縄方面で戦死した飛行予備学生たちの遺書を順次掲載していく。本稿はその第1回。      古橋達夫海軍中尉    日本大学 東京都出身、昭和20年4月3日、神風特別攻撃隊第3御盾隊第601部隊の一員として南西諸島(沖縄方面)にて戦死。搭乗機ー彗星 20歳。  姉への便り 度々のお葉書嬉しく拝見しました。。雅夫(註双子の弟=8月3日フイリピンで戦死)から色々お知らせしてゐると思ひますが、自分はどうも筆不精をお許し下さい。  以下=http://38300902.at.webry.info/201004/article_12.html   【海軍飛行予備学生】  大学の学部あるいは予科、高等学校を卒業した学生、または採用の日までに卒業の見込みのある学生が志願し、海軍の飛行機搭乗員として採用されたもの。  昭和9年、1期生から、19年14期生までほぼ1万人。昭和17年ミッドウエー海戦の惨敗により搭乗員の不足いちじるしく、昭和18年9月、5111人が第13期飛行予備学生として採用され、土浦、三重の航空隊に入隊した。  僅か10ヶ月の訓練で戦場に。実にそのうち1616人が戦死。うち神風特別攻撃隊の仕官戦没者652人中、13期予備学生は447人であった…

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戦死した兄が歌った 「別れ船」

1943(昭和19)年、フィリピンで特攻死した兄が学徒出陣の別れの宴でうたった歌が田端義夫さんの「別れ船」だった。その田端さんが惜しまれて一昨日亡くなった。東京新聞が「筆洗」で書いた。彼の歌声は昭和の記念碑だったと書いた。  その歌声そのものが、昭和の記念碑だった。きのう94歳で亡くなったバタやんこと田端義夫さんの歌には、戦争と再出発という時代の喜怒哀楽が、封じ込められていた▼♪名残りつきない 果てしない 別れ出船の 銅鑼(どら)が鳴る 思いなおして あきらめて 夢は潮路に 捨てて行く・・・。デビューの翌年、1940年に出した「別れ船」には、戦地に赴く兵士の心が刻まれた▼敗戦翌年のヒット曲「かえり船」は、傷ついた兵士を迎える歌になった。♪波の背の背に ゆられてゆれて 月の潮路の かえり船 霞(かす)む故国代 小島の沖じゃ 夢もわびしく、よみがえる・・・▼田端さんは、復員兵を乗せた列車が到着する大阪駅のスピーカーからこの歌が流れるのに居合わせた。皆じっと聞き入り、涙を流す人もいた。その時、歌手になって本当によかったと思った、と自伝「オース!オース!オース!」に書いている。(以下略) 【リンク】「別れ船」  http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-wakarebune.html

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あのとき歌った この歌 -5ー

「沖の鴎と飛行機乗りは・・・」。この歌は戦時中、特攻隊員が出撃の前夜、送別の小宴で決まってうたった歌という。そろそろ酔いがまわりかかったころ、故郷の山や海や川を、おふくろの眼差しを、そして彼女の涙を想い出し、眼をしばたたきながら半ば虚ろ気味にうたった「さよならの唄」だ。      遺影の前で「沖の鴎」うたう     神奈川県三浦岬の民謡。替え歌として飛行機乗りの悲哀を歌詞にした。特攻隊節として知られている。「ダンチョネ」とは「断腸の思い」を模したものとされている。  特攻で死んだ兄の33回忌(昭和52年)には紙一重で生還した無二の戦友・元海軍中尉・直居、内山、蒲生、大原の各氏が肩を組み、遺影の前で涙ながらに歌ってくれた。     ダンチョネ節    作者不詳 1.沖の鴎(かもめ)と飛行機乗りは   どこで散るやらネ   はてるやら ダンチョネ 2.おれが死ぬ時 ハンカチふって   友よ彼女(あのこ)よネ   さようなら ダンチョネ 【リンク】 ダンチョネ節  http://www.youtube.com/watch?v=5rvbl2tgpM4

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「雲ながるる果てに」 ブログ 一覧

僕のブログ・「満州っ子 平和をうたう」のうちテーマ「雲ながるる果てに」が今回で99件、総アクセス数は8060になった。100回を前にしてアクセス数の多い順に20件を表示する。       <ベスト 20> ①655 「雲ながるる果てに」 -序文ー ②417 雲ながるる果てに② ③390 敷島の大和心を人問わば ④343 特攻隊の戦死者数 ⑤307 俺の言葉に泣いた奴が一人 ⑥204 「雲ながるる果てに」号外④ ⑦190 雲ながるる果てに 映画 ⑧164      〃     ④ ⑨142 映画 「雲ながるる果てに」㊤ ⑩138 学徒特攻兵の遺した短歌 ⑪129 「雲ながるる果てに」-44- ⑫124 雲ながるる果てに⑥ ⑬122     〃     ⑤ ⑭119 山田和夫描く特攻映画⑤ ⑮117 映画 「雲ながるる果てに」㊦ ⑯114 「雲あがるる果てに」-7- ⑰112      〃      -6- ⑱109      〃      -26- ⑲ 97 兄 神島利則中尉 特攻死 ⑳ 93 神風なんか吹かなかった 【注】1951(昭和27)年、若くして南の空に散った海軍飛行予備学生の遺稿集・「雲ながるる果てに」(317ページ)が出版された。それらを中心に取り上げたブログのまとめである。 【リンク】http://nagai-yoshi.jp/kumo.html

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4月6日 沖縄と「満州っ子」

1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸して以来、沖縄・南西諸島では陸・海・空で死闘が繰り広げられていた。そうしたなか、戦艦大和が沖縄戦最後の切り札として呉軍港を出港したのが4月6日。そしてこの日出撃して帰らなかった特攻機は420機。      死んでいった仲間の代弁者として    「戦中派」の世代の生き残ったことで存在を認められるものではない。本来ならば戦争に殉死すべきものであり、たまたま死にそこなったとしても、生きて戦後の社会をわが眼で見たことに意味があるのではなく、散華した仲間の代弁者として生き残ることによって、初めてその存在を認められるのである」と、吉田満が「戦艦大和」の最後に書いているのを読んでいたく感動したことがある。      この日多くの若者が特攻死した    不沈戦艦といわれた「大和」は6日、沖縄をめざし、片道燃料で特攻出撃、乗員3332人もろとも翌7日、奄美大島東方海上で撃沈された。護衛の駆逐艦「夕風」に乗り、撃沈され海中に放り出された知人が、戦後ことあるごとにその時の壮絶な様を語ってくれた。海上を漂流すること6時間、かろうじて救出された彼は、その後情報の漏洩を防ぐため、佐世保の某所に数週間隔離されていたという。この戦闘での生存者は記録によると276人だった。     特攻へ新聞記者の美辞麗句    6日はまた、この日だけで特攻機は陸・海軍併せて524機が九州南部の基地から出撃した。海軍飛行予備学生の遺稿集・「雲ながるる果てに」…

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兄 神島利則 特攻死 命日

兄・神島利則海軍中尉(大正13年生まれ)は旧満州・公主嶺小学校を卒業後、新京(現・中国東北部ー長春)中学に入学、その後拓殖大学に進む。1943(昭和18)年9月第13期海軍飛行予備学生として土浦海軍航空隊に入隊、飛行訓練を受けた。  1944(昭和19)年10月、台湾の台南海軍航空隊を経てフイリピン・セブ基地に移動。1944(昭和19)年12月15日、午前6時30分、神風特別攻撃隊第七金剛隊の一員として、250キロ爆装のゼロ戦に搭乗、発進した。目標はネグロス島近海の輸送船団。戦果は不明、全機(5機)未帰還。21歳。2階級特進海軍少佐。法名「光忠院釈利剣居士」。あれから68年。 【追記】今、2012年12月15日午前6時29分。1分後に彼が離陸しながら手を振る整備兵たちに別れの敬礼をして飛び立った時間になる。後を頼むぞといった「言葉」は忘れない。二度と戦争は繰り返させない。 【リンク】 http://38300902.at.webry.info/200808/article_5.html http://38300902.at.webry.info/201112/article_19.html 雲ながるる果てに http://nagai-yoshi.jp/kumo.html

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Si tratta di un concerto di Masako

Un anno e mezzo dal terremoto di Tohoku dello scorso anno. Per commemorare il 11 marzo 11 dicembre oggi, Masako ha tenuto un concerto. Ho cantato principalmente chanson. Si tratta di una foto di quel tempo.(Ushiyama de Reiko) ■ Fare clic su, Ho visito in giapponese http://38300902.at.webry.info/201212/article_18.html

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山田和夫さんが逝かれた

山田和夫さんが亡くなられたお知らせを受けてもう10日余りになる。映画評論家としての卓越した評論もさることながら、私自身は個人的なふれ合いもあって死の衝撃は言葉にならない。「日本映画がいい」と題して講演された江東区高齢者集会でのこと、ブログに論文の掲載をご家族から快くご承諾をいただいたことは忘れられない。 ▼江東高齢者集会で講演=03年10月  2007年、「前衛」9月号に山田和夫さんが「その瞬間、彼らはまだ生きていた」という小論を書かれた。日本映画に特攻隊員がどのように描かれていたかがテーマ。死んで逝った若者の心情を包み込むようにしのび、彼らを殺したものの罪悪性を完膚なきまでに告発した一文に胸を強くうたれた。  その山田和夫さんが逝かれたことを知り残念、無念。特攻で死んだ兄への鎮魂歌として書き連ねた私のブログ一覧をぜひともお読みください。山田さんへの私の追悼の言葉とさせていただきます。  【リンク】山田和夫さんに捧げる私のブログ一覧   http://38300902.at.webry.info/theme/30eec664a9.html ◆しんぶん「赤旗の訃報→

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中村メイ子さんと特攻隊員 続

作家だった父、中村正常(まさつね)は「戦争文学を書くのが嫌いだった」と戦争中に筆を折りました。文化財が多いから空襲を受けないだろうと考え、私が子どものころ一家で奈良に疎開しました。平和そうな村で電車を降りて、「三人で暮らせる家はありませんか」とメガホンで叫び、家を探しました。  私は二歳半で映画デビュー。戦争中には特攻隊を慰問しました。七歳か八歳のころでした。兵隊さんたちは「子どもに会いたい」「抱きしめたい」と願ったそうです。死ぬのは「子どもたちの世代の礎となるため」と納得したかったのでしょう。  目隠しをされ、母と軍用機に乗りました。今も(戦地が)どこだったのか分りません。「内地に帰ったら、ポストに入れてください」と何通も手紙を託されましたから、海外だったのでしょう。父から軍歌ではなく、心を込めて「夕焼小焼」などの童謡を歌うように言われていました。兵隊さんたちは涙も見せずに、りりしかった。今も思い出すと泣けてきます。(東京新聞・6月3日付「生活欄」) 【リンク】http://38300902.at.webry.info/200903/article_33.html

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4月6日 沖縄戦と誕生日

昭和20年4月1日、米軍が沖縄に上陸して以来、沖縄・南西諸島近海では空、海で死闘がくりひろげられていた。そうしたなか、戦艦大和が沖縄戦最後の切り札、水上特攻として呉軍港を出港したのが4月6日。そしてこの日出撃して帰らなかった特攻機は420機。「満州っ子」が生まれた日も4月6日(昭和7年)。奇しくも同月同日が生死の別れ目だったとは・・・。    死んで行った仲間の代弁者として     「戦中派」の世代の生き残ったことで存在を認められるものではない。本来ならば戦争に殉死すべきものであり、たまたま死に損なったとしても、生きて戦後の社会をわが眼で見たことに意味があるのではなく、散華した仲間の代弁者として生き残ることによって、初めてその存在を認められるのである」と、吉田 満の「戦艦大和の最後」の前書きに書かれているのを読んでひどく感動したことがある。   あの年の4月6日 多くの若者たちが特攻死した    不沈戦艦といわれた「大和」は6日呉軍港を出撃、乗員3332人もろとも翌7日、奄美大島東方海上で撃沈された。護衛駆逐艦「夕風」に乗り、海中に放り出された知人が、戦後事あるごとにその時の壮絶な様を語っていた。海上をさまようこと6時間、かろうじて救出された彼はその後情報の漏洩を防ぐため佐世保の某所に数週間隔離されていたという。この戦闘での生存者は記録によると276人だった。  6日はまた、この日だけで特攻機は陸海合わせて524機が出撃した。遺稿集・「雲ながるる果てに」に掲載され…

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兄 神島利則中尉 特攻死

全日本年金者組合江東支部の機関紙・「江東・年金」の紙面に「心のファイル」とうコーナーがある。組合員の半生を書き記したいわゆる「人」欄である。他の記事と違って「ここだけは読みますよ!」と評判のページ。当時編集長だった木村清子さんが私、満州っ子の来し方をつづってくれた。(2008年12月)  くしくも「兄、利則(としのり)が特攻死した日、江東区・清澄庭園の大正記念館で結婚式を挙げた日、長女・亜子が生まれた日が12月15日なんですよ」永井至正さんは語る。  1932(昭和7)年、旧満州(現中国東北部)・公主嶺市生まれ、9人兄弟の末っ子。傀儡満州国をスタートさせた年。昭和の始め世界大恐慌は日本にも波及し、銀行の倒産、工場閉鎖、大量の失業者を生み、農村では娘の身売りまで起きていた。   苦境打開として海外侵略、日本は破局の道へ    こうした中で苦境打開に日本は、富国強兵、海外侵略を一気に加速し始める。1931年いわゆる満州事変を引き起こした日本は、軍を全面展開、泥沼の日中戦争に。そして、1941年12月8日、遂にパールハーバーを奇襲攻撃、アジア・太平洋戦争に突入した。しかし、翌昭和19年にはミッドウエーで大敗北、ガタヌカナル、アッツ、サイパン島など玉砕(全滅)など次々と敗北の道をたどった。   正義の戦争と思いこまされ、青年たちは逝った    永井さんは、ビデオ・「昭和の戦争」(全8巻)で当時の状況を思い起こしながら語る「特攻隊は武器・弾薬の乏しくなった日本軍の最後の手段で…

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開戦70年 12月という月

12月になりました。この国にとって、12月はあの戦争をしっかり考える月です。そして「二度と繰り返してはならない」と反芻する月でもあります。数年前東京新聞に投稿した12月8日によせる思いを再現してみます。コラム風にアレンジしてみました。 ▼兄は雲ながれる南の空に果てました  太平洋戦争開戦の12月8日は、ジョン・レノンの命日としても歴史に残る日です。毎年この日になれば私の記憶も呼び戻されます。70年前の早朝、ラジオからながれる臨時ニュースに耳を傾け日本中が「ついにやったか」と胸を躍らせ、真珠湾の大戦果に酔いしれていました▼歴史書をひもとけば、この日はまた、破竹の勢いでモスクワ郊外まで到達していたナチス・ドイツ軍がロシア人の血塗られた抵抗と冬将軍にあって、総退却を始めたと書かれています。歴史は皮肉なもの。世界の東西のファシストが同時に「終わりのはじめ」をスタートしていたのです。繰り返してはならない痛恨の二十世紀の戦争史▼31年前のこの日、ニューヨークの自宅前で凶弾に倒れたジョン・レノンが「戦争は終わる。もしもあなたが望むなら」と歌いました。「愛と平和」の歌です。12月8日、憲法が変えられようとしている今、この日を戦争体験者ならずとも、戦争を知らない子どもたちと「平和をのぞむ心」を共有し、歌い伝える日にしたいものです。

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「満州っ子」英文で表示②

「満州っ子 平和をうたう」のうちテーマ「雲ながるる果てに」が英文に翻訳されています。前回①のように逐条記述します.今回は08年10月に掲載した「神風特攻隊の戦死者数」です。どなたが訳されたのか不明ですが、固有名詞、軍隊用語、日本語特有の言い回しについては私が若干の修正を加えました。 満州っ子 平和をうたう Singing for peace Mansyuuko 神風特攻隊の戦死者数 The number of casualties Kamikaze  1944年(昭和19)年10月25日(フイリピン・敷島隊)から終戦の1945(昭和20)年8月15日(沖縄・宇垣特攻)までの総戦死者数は2483人。内訳は予科練等の出身者は1715人、飛行予備学生は649人、海軍兵学校は119人でした。年齢はなんと17歳から25歳ぐらいまでの少年、青年たちで驚くべきものです。「死んでいったのは少年と青年たち」 October 25,1944 (Shikisima Corps philippines), August 15, 1945 from the war (suicide Ugaki Okinawa) to the total body count is 2483 people. The breakdown came from like Yokaren 1715,649 students who pre-flight,the Naval Academy had 119. Boys …

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「満州っ子」英文で表示①

昨日、私の「満州っ子 平和をうたう」にとっては驚くべき現象がネット上に表示されていました。それはテーマ「雲ながるる果てに」がすべて英文に訳されていたことです。ここで、2009年12月15日に、「兄、神島利則中尉特攻死」として配信したものを逐条的に転写、掲載しましょう。 「満州っ子」 平和をうたう Singing for peace Tsu子Manchuria 兄、神島利則中尉特攻死 Toshinori Kamishima brother Lieutenant suicide death 兄、神島利則(かみしま・としのり)海軍中尉(1923~1944)12月15日、この日神風特別攻撃隊・第七金剛隊の一員としてフィリピン・ネグロス島近辺で特攻死、21歳だった。彼の郷里は当時日本が支配していた満州・公主嶺市。母神島トミが、利則戦死の通知を受けたのは同月23日のことだった。 Toshinori Kamishima brother [Lide you to God]Navy Lt.(1923-1944),December 15, near the Philippine island of Negros in the suicide death as a member of Team Kamikaze Special Attack Corps Kongo seventh day.He was 21. His hometown Gonzhuling was ruled …

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神風なんか吹かなかった

1945(昭和20)年8月15日、前日にポツダム宣言受諾、この日連合軍に無条件降伏した。天皇がラジオ放送でその旨を放送した。日中戦争以来の損害は310万人、うち民間人は90万人ともいわれている。アジアの死者(日本軍の加害による)は2000万人。次は夫を亡くした一女性の述懐である。  八月の十五日、とうとう神風は起こらなかった。前線の兵隊さんはどうして居ることだろう。痛歎の余り自決!ああそんなことはない、私達を、可愛い子供を残して死ぬものか、きっと帰って来る、私もとうとう子供を守り通した、もう爆弾で殺されることはない、終戦ー何んと空々(そらぞら)しい静けさであろう。ただ呆然として、夫が帰って来たら・・・とそればかり思う。しかし天は私達に前以上の試練を下されたのでした。  終戦と同時に軍隊の消滅、物価の暴騰、僅かばかりの貯金の封鎖に、帰還の日の一日も早からんことを祈りつつ、夜ふけてコツコツと聞こえて来る靴の音に今度はと何度胸をおどらせたことでしょう。 (「いとし子と耐えてゆかむー映画」) 【追記】    死者2000万人以上    先の大戦での日本人の犠牲は、軍人・軍属の死者230万人、国内での空襲などの死者70万人以上など310万人を超える命が失われました。兵士らは無謀な作戦、補給の軽視などで絶望的な状況に置かれ、戦死者の約6割は広い意味の餓死者と言われている。   とりわけ民間人の犠牲は、日本で唯一の地上戦が行われた舞台の沖縄で10万人、東京大空襲など空爆による犠牲者…

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1945年8月10日の記憶

これは66年前軍国少年だった「満州っ子」の忘れられないメモリーの一つである。前の年の12月にフイリピンで零戦に搭乗、特攻死した兄の戦友たちが遠く大陸に飛来、その数日の間におきた悲しくも辛いエピソードだ。内山光雄海軍中尉ほか五人の若者の顔がいまでも忘れられない。     神戸の灯を見たのは3人だけ    1945(昭和20)年8月10日、前日のソ連参戦で満州も危険地域になったとして、私の住んでいたあの大陸では有数の陸軍飛行場から海軍の一式陸上攻撃機が3機飛び立った。  内山光雄中尉以下6人の第13期海軍飛行予備学生(兄も土浦で同期)が率いる23名、南満州・公主嶺市の私の家の上空を顔が見えるほどの超低空で豪音を響かせながら三度旋回(通常なら絶対に許されない)、機上では挙手の敬礼、下ではおふくろをはじめ在住の家族、多くの日本人は手をあげ、日の丸を振り死地に赴く彼らに「さよなら」を絶叫していた。期せずして空陸あげての「惜別の会」になっていた。  それより先、沖縄が陥ち、ひしひしと米軍が本土に迫ってくる7月、本土決戦に備え残こされていた海軍機は比較的安全と思われる満州に退避していた。明日おも知れない彼らの行動は尋常ではなかった。酒が唯一のよりどころ、外出禁止命令などは問題外。この街につくやいなや繰り出したのは日本人街にある「カフエー」だった。  せまい街、それも当地出身の顔見知りの神島利則中尉のこと、しかも特攻で戦死したということは知れ渡っていた。 女給の一人が「この町…

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あの日 ピョンヤンにいた

今年は戦後66年。八月になればよみがえります。1945(昭和20)年の夏は、思い出すさえ暑かったと誰もがいいます。あの日、8月15日の夜、私の乗っていた避難列車は北朝鮮のピョンヤン(平壌)駅ホームに。「マンセイ! マンセイ!」と歓呼する朝鮮の群衆に囲まれていました。 ▼旧満州・新京駅前ひろば    あの年の夏は暑かった    「本日をもって本校を閉校とする。だが、いつの日か諸君と対面できることを期待する」と校長はふりしぼるような声で宣言しました。時は、1945年8月10日、所は旧満州(現・中国東北部)新京第一中学校の講堂でのこと。私は旧制中学一年生、13歳の少年でした。  空襲警報、ソ連機飛来で市内は大混乱。70キロ南の生家・公主嶺市に向かう列車に友人と飛び乗りました。続々と南下する無蓋(むがい)貨車は関東軍とその家族で超満員。武装した兵隊が退却しているのです。  当時新京駅の助役をしていた長兄から後で聞いた話ですが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先して転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだったそうです。その結果、残された一般民間人、とりわけ満蒙開拓団の人たちが惨憺たる状態に追いやられたことは周知の事実です。  私は九人兄姉(男7人)の末っ子でした。  三兄は、満蒙開拓で過労がたたり、23歳結核で没。墓はあの地に残したまま。    四兄は、関東軍ハルビン特務機関員、24歳でシベリアに拉致され、重労働25年の戦犯に。    五兄は、学徒出陣「誰の…

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山田和夫描く「特攻映画」⑤

「その瞬間、彼らはまだ生きていた」ー特攻を描いた日本映画の歩みー映画評論家・山田和夫 (五) 「雲流るる果てに」と「人間魚雷回天」     戦後日本映画は、62年たった今日まで反戦平和をたゆむことなく訴え続けてきた。そのなかでとくに記憶したいのは、特攻の悲劇と向い合った作品群であった。前期「日本の悲劇」は公開こそおくらされたけれど、特攻の本質に鋭く迫り、天皇の戦争責任にまで目を向けた最初の作品だった。  その後、東大協同組合出版部は全国の戦没学生の手記をあつめて「きけわだつみのこえ」を編み、それが映画『きけわだつみの声』(1950年、監督関川秀雄)となり、続いて学徒出陣で戦場にかり出された学徒たいの手記をあつめた『雲流るる果てに』が家城巳代治監督によって映画化(1953年)され、学徒出陣によって海軍予備学生になり、特攻隊員として死んだ若者たちの遺書がドラマに再現だれた。特攻を描いた最初の劇映画作品である。  「きけわだつみの声」もそうだが、「雲流るる果てに」でも、1943年10月の徴兵猶予打ち切りで学園から出征した学徒兵たちは陸軍士官学校や海軍兵学校を出たエリート職業軍人から、露骨な差別と屈辱を受けた。「雲流るる果てに」の学徒出身兵たちもそのなかで、優先的に特攻隊に送り込まれた。彼らは複雑な矛盾をはらみつつ、死への出発日を待った。  出撃予定日が悪天候で日一日と延びる。「特攻待機」と呼ばれるこの耐えがたい日日の隊員の日常が映画の大部分を占める。「何のために死ぬの…

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