忘れない平和への思い -完ー

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子・題名は「忘れない 平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM]。全25ページのうち、これは補充頁。

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「明治150年」と関東大震災

 「関東大震災朝鮮人を『明治150年』からかんがえる」と題して6月16日、神田の明治大学で山田 朗教授が話します。主催は「9・1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会・歴史教育者協議会 ◆日  時:2018年6月16日(土) PM13:30 ◆講  演:山田 朗さん 明治大学文学部教授 ◆参加費:800円 <文化行事>コーラス  今年2018年が明治新政府がつくられた1868年から150年目ということで、政府は「明治の精神に学び」、日本の強みを再認識する」というキャンペーン「明治15年」を展開しています。政府は「明治以降の歩みを次世代に遺す」と「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」という二つの施策によって「明治150年」の歴史像を描こうとしています。  しかし、そこには日本の朝鮮の植民地支配・アジア諸国への侵略戦争とそれへの反省を取り上げることもなく、新しい憲法の成立による戦後日本の民主主義と平和之社会建設の歴史が欠落しています。  この学習会で、「明治150年」の歴史の中で起こった負の歴史、「1923年9月の関東大震災時における朝鮮人・中国人・日本の社会運動家の虐殺」問題を取り上げ、その背景、当時の状況を学び、今後の課題を考える機会にしたいと思います。

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忘れない平和への思い -25-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない 平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM」。全25ページのうち、これはその最終回。

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忘れない平和への思い -24-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない 平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM]。全25ページのうち、その24。

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忘れない平和への思い  -23-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない 平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM」。全25ペーjジのうち、これはその23。

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オスプレイ飛ばすな! 6・5首都圏行動

 「危険なオスプレイはいりません。おだやかで自由な空を取り戻そう!」と6月5日、18時30分から日比谷野外音楽堂で大集会が開かれます。抗議集会の後、銀座をデモします。  4月5日、米空軍の特殊作戦機CV22オスプレイ5機が横田基地に飛来しました。在日米軍が前倒し配備を突然発表した。わずか2日後のことです。沖縄県・普天間基地に所属するオスプレイが墜落や不時着などの重大事故・トラブルを各地で頻発させ、住民・市民の不安を広げています。首都東京ににある横田基地へのオスプレイ配備が、都民をはじめ首都圏に住む人たちの命と安全を脅かすのは明らかです。横田基地周辺の住民はもとより、基地周辺の全ての自治体も配備に反対しています。おだやかで自由な空を取りもどすために、配備計画させましょう。、<連絡先>03-3221-4668 ■プログラム予定 ●開会(18:30)●国会からの報告●横田・首都圏各地からの報告●集会決議採択・閉会●アピール行進(19:45出発)

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忘れない平和への思い -22-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない 平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM]。全25ページのうち、これはその22。

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忘れない平和への思い -21-

 2001年から2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM」。全25ぺーじのうちの、これは21。

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忘れない平和への思い -19・20-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない 平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM]。全25ページのうち、これはその19・20。

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忘れない平和への思い -18-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM」。全25ページのうちの、これはその18。

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忘れない平和への思い -17-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は(MY MEMORANDUM])。全25ページのうちの、これは17。

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忘れない平和への思い -16-

 2001年から2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM」。全25ページのうち、これはその16。

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忘れない平和への思い -15-

 2001年から2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM」。全25ページのいち、これはその15。.

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「謝罪と鎮魂の旅」 則次美弥子

 「中国の旅から帰ってきました、元気です。南京で日本兵が無差別に一般市民まで殺したことを、私は許せないのです」。公主嶺小学校では2級上、岡山の則次美弥子さんから『中国南京を訪ねて』が送られてきました。        謝罪と鎮魂の旅     則次美弥子   博物館で私たちを待ち受けた関係者は「友、遠方より来る」とやさしく迎えてくれた。さすがにーまた、楽しからずやーとは言わない。  まず、献花をし黙とうをささげる。この時をどんな想いで南京(ここ)まで来たことか。心から冥福を祈る。  日本軍の士官たちは、どんな教育を受けたのかを問う。捕虜の扱いにしても国際法に反するのではないか。日本の一兵卒からみれば、上官の命令とあれば、それに従うしかないものを。昭和の遺言「十五年戦争」(兵士が語った戦争の真実=文芸社)の中に軽機関銃係として南京攻略に参加した大田俊夫(仮名)は次のように語っている。  中隊長が強盗、強姦、放火、、殺人何でもやれと言った。女の子を引っ張り出したわ。命令やさかいにな。(中略)13日(1937年12月13日)に揚子江の河べりで、小銃隊が撃つと軽機銃も撃つ。誰かが「次」と言うたら、また人を並べて撃ち殺すんや。あの時はのう、戦友の敵討ちやという思いやったな。気がたっていて女の人も子どもも殺す。(中略)南京大虐殺はあったんやから、わしらが揚子江の河べりで何万という支那人を撃ち殺したんからな。   日本兵のこの言葉の裏に殺戮した苦悩がうかがえる。国土の至る所でやったであ…

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忘れない平和への思い -14ー

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は(MY MEMORANDUM)。全25ページのうち、これはその14。

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忘れない平和への思い -13-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「わ売れない平和へお思い」。副題は「MY MEMORANDUM」。全25ページのうち、これはその13.

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忘れない平和への思い -12-

 2001年から2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」副題は「MY MEMORANDUM]。全25ページのうち、これは12.

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今日、5月15日は何の日

 「平和のための名言集」(大和書房)によれば、5月15日の「出来事」として次のように3件取り上げている。1932年 五・一五事件。1948年 パレスチナ(第一次中東)戦争始まる。 1972年 沖縄の施政権返還(本土返還)。ここで瀬長亀次郎氏の名言を紹介しよう。   戦争は終わったが、地獄は続いていた     (映画『カメジロウ 沖縄の青春』パンフレット) 【瀬長亀次郎】(1907~2001)「カメさん」と親しまれ沖縄の英雄的政治家。1923年、社会科学研究会の活動を理由に第7高等学校を放校処分になる。47年、沖縄人民党を結、米占領政策への批判を展開、琉球政府立法院議員となるが、人民党弾圧を強化した米軍に逮捕され2年間投獄。出獄後那覇市長に当選。本土復帰後の70年、衆議院議員となり、その後日本共産党に合流して立候補、7期連続当選。

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忘れない平和への思い -11-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。題名は「MY MEMORANDUM]。全25ページのうちの、これはその11。

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忘れない平和への思い -10-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM]。全25ページのうち、これはその10。

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「あの人に迫る」 村上 敏明 戦争の語り部

 村上敏明さん(83)は毎週金曜、関西電力京都支店前での脱原発のアピール行動に参加する。改憲阻止のための三千万人署名運動に携わり、戦争の語り部も続ける。若い人にも戦争の悲惨さを伝えたいと「フェイスブックやツィッターを利用しフオロワーは計五千四百人を超えた(東京新聞ー望月衣塑子) その熱意は戦後の旧満州(中国東北部)で母と妹を自らの手であやめた深い悲しみと絶望から来ている。「戦争が全てを奪った」。亡くした二人に突き動かされるかのように、いまを生きている。  戦前、なぜ満洲へ     1938年に鉄道貨物会社の社員だった父六夫(むつお)=当時(32)=の転勤に合わせ、母こま=同(26)=と4歳の私、弟淳(じゅん)=同(一つ)の4人で満洲の大連に渡った。。41年4月、満洲の新京(現長春)の小学校に入学、42年8月、四平に転勤となり、四平小学校に転校した。  終戦間際の45年1月、日本政府は「持久戦の主たる抵抗は国境にて行い」「兵は国境寄りに置き、この部隊は玉砕せしめる。武器など補給は予定しない」などと言い、国境にいた正規軍を沖縄やフィリピンに移そうとした。代わって四平の学校の先生や父のような会社員が、北の国境警備隊に当たるよう徴兵された。  ちょうど同じころ、妹芙美子さんが生まれた  45年5月、芙美子は生まれたが、戦争の混乱で役所が記録を取らなかったのか、戸籍謄本には誕生や死亡時の記録が全くない。  ポツダム宣言を受諾後の8月9日、ソ連軍が満洲に侵攻を開始。…

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忘れない平和への思い -9-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和の思い」。副題は「MY MEMORANDUM]。全25ページのうちこれはその3.

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NHKドラマ「どこにもない国」を見て ⑭-1

   「これまで12回開かれた公主嶺小学校同窓会に1,2度出席されただけだった。しかし、毎年年賀状を交換している山田典子さん(38回生、旧姓大宮、84歳)に、NHKのドラマの予定のハガキを出したところ、長文のお手紙が届いた。それは驚くべき内容で、旧満州・吉林省伊通県・伊通街に、たった1軒だけ残った日本人の消息だった」(土屋洸子さんから)。  (前略)お知らせくださいましたので、ドラマの前編、後編とも、無事にTVの前に座ることができました。1945(昭和20)年の敗戦後のことは、ドラマと同じで、孤児になったお子さんや、被害に逢われた女の方など、極寒の中、本当に大変でした。ドラマを拝見し、涙が流れて困りました。  (中略)父の大宮基成(もとなり)は、伊通で開業医をしておりました。私が小学校に入学するころ(昭和15年4月)、伊通に小学校がなかったので、公主嶺の知人(中村さん=37回生中村祐将、40回生樋廻明子の父)を頼り、公主嶺小学校に通学しました。当時伊通に子どもが50人ほどいたので、父が「伊通に小学校を作って」と文部省に嘆願して、2年生のときに伊通に小学校ができました。それで、私は伊通の自宅から通学できるようになりましたが6年生の夏休みが昭和20年8月で、日本人小学校は終わりました。 【注】『満洲 1945年』(地久館)によれば、20年8月当時、伊通街には250人の日本人が在住。8月17日、伊通街の邦人約100余人は長春へ避難。他は満系警察官の護衛により公主嶺へ避難。8月下旬、満系自…

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忘れない平和への思い -8-

 2001年から2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM]。全25ページのうちのこれはその8。

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歌は二番から先がいい 「別れ船」の場合

 歌は二番から先がいい。そんな説がある。昭和の流行歌を愛した演出家の久世光彦さんによると、一番歌詞は、テーマに沿って、状況や登場人物を描写しないといけない。心情に深く立ち入るのはその先だから「しびれる文句」は2,3番にあるのだという。(東京新聞ー「筆洗」4月26日付)  それかあらぬか、かつて私が「あのとき歌った この歌」と題して、書きつづった「別れ船」の中の歌詞は三番だけであった。            「別れ船」は反戦哀歌  神風特攻隊一員として20歳で戦死した兄(神島利則)。ギターを爪弾きながらうたった歌が「別れ船」(昭和15年発売)だった。あの田端義夫の持ち歌で、敗戦直後の「帰り船」とともに一斉を風靡した。 3.望みはるかな波の背に   誓う心は 君故さ   せめて時節の来る迄は   故郷(くに)で便りを   待つがいい    「別れ船」と、「帰り船」お明暗はくっきりいている、「別れ」は出征した兵士たちの帰還がかなわない哀歌。「帰り」は待ち望んでいた兵士が祖国日本にたどりついた感涙の歌だ。  おふくろが晩年、か細い声でしばしば口にしたのは「トンちゃん(兄利則の愛称)はいつ手紙をくれるの?」だった。そう、だから、もう歌うのは三番だけ。

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忘れない平和への思い -7-

 2001年から2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM]。全25ページのうちのこれはその7。

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忘れない平和への思い -6-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM」。全25ページのうちのこれはその6。

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忘れない平和への思い -5-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM].全25ペーjジの内のこれはその5.

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忘れない平和への思い -4-

 2001年から2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM」。全25ページのうちのこれはその4

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忘れない平和への思い -3-

 2001年から翌2002年にかけて作成した私(永井至正)の小冊子。題名は「忘れない平和への思い」。副題は「MY MEMORANDUM]」。全25ページのうちのこれはその3

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