戦後72年 「公主嶺会」に行った ③

 毎年開かれる「公主嶺会」の場で、どういうわけかいつも隣席になり、意気投合する則次美弥子さん(35回生)。地元岡山で旧満州公主嶺での体験を通して、戦争の悲惨さを綴り、また各地で講演するなど「語り部」として精力的に活動している。彼女にあつかましくもお願いし、今回の「会」の感想を寄せていただいた。 ▼則次美弥子(のりつぐみやこ)さん=ホテル前で    ブログの橋渡し           公主嶺会は一歩前進した  公主嶺会--その日がやっときた。10月27日、私は心弾ませて車中の人になった。  思えばこの会は、公主嶺神社氏子衆の絆のもとに生まれ、65年に近い歴史がある。やがて我々子供世代も成人し、公主嶺小学校同窓会総会を発足させた。冊子「公主嶺会」・写真集・ビデオ等、後世に遺せるものも、優秀な先輩たちを中心に作ってきた。だが小学校創立百周年を迎えた会を最後に幕は降りた。そして親世代が作った公主嶺会に合流し今に至っている。皆、公主嶺を愛し続けている。  今年の会は何かが違う。一人ずっと思い続けていた。それは、我が家に東京新聞が届いたことからはじまる。従来の終戦記念日の翌日の新聞の一面は、各社とも似たり寄ったりのものだった。しかし届いた新聞は違っていた。一面の見出しは「生き残ったものにできること」さらに「終戦の日 不戦の誓い 次世代へ」とあり加えて友人・永井至正さんの写真、逸る心を抑えて読んだ。繰り返し読む。堂々とトップ記事として取り上げた東京新聞社の心意気に、よくぞやってくれた…

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歴史にみる11月 人々の生と死

 もう11月。古くは霜月、英語ではノーベンバー。花なら菊、それともポインセチア。11月3日は新憲法公布の日、「憲法守る」ー新たな決意の月にしなければ。さて、今月も公主嶺小の同期生・田口恵敏君提供のカレンダーにそって古今東西の著名人の「生と死」を追ってみる。 ■5日 片山 潜(1859~1933) この日モスクワで死ぬ。苦学ししつつ渡米し、日本の労働運動の創始者。のちコミンテルン代表となりロシアに住む。『自伝』 ■7日 トルストイ(1828~1910) 家出して、この日倒れたロシア最大の文学者。独創的な思想家。帝政ロシアの社会の鏡のように反映したレアリスト。『戦争と平和』など。 ■12日 孫 文(1866~1925) この日広東省香山県(いまは中山県と改称)の農家に生まれた。字は逸仙。三民主義の主張によって始めた民国革命の父である。主著に『三民主義』『建国万略』 ■15日 坂本龍馬(1885~1867) この日土佐の郷士の家に生まれた。明治維新の準備者。海援隊の組織、薩長連合、大政奉還の画作者として最も幕府に疎まれ、この日暗殺された。 ■18日 エリュアール(1895~1952) この日パリに死す。初め超現実主義詩人として登場したが、第二次大戦中はレジスタンスに活躍した。詩集集『万人のための詩』 ■27日 一 休(1394~1481) この日死んだ室町末期の臨済宗の僧。京都、大徳寺の住持であった。書画、詩、狂歌にたくみで、諸国を漫遊し、奇行をもって世人をおしえた。 ■28日…

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戦後72年 「公主嶺会」に行った ②

 旧満州「公主嶺会」が27日(金)、上野ターミナルホテル・「水車」(日本料理)で開かれました。当日のカメラマンをかってでた僕。使い古したデジタルカメラをもって右往左往し、撮った作品(?)を前回に引き続き紹介します。     井本 稔さんも微笑む    近年ではかってない40人(北は福島から南は長崎まで)も集った「公主嶺会」。会場の上野ターミナルホテル・地下の「水車」。会席の一隅に「会」の世話人でホテルの会長だった井本 稔さんの遺影が、会場を見渡すように、いや、自らも参加して団欒のなかに一緒しているように微笑んでいます。

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戦後72年 「公主嶺会」に行った ①

 旧満州「公主嶺会」が27日(金)、上野ターミナルホテル・「水車」で開かれました。集った人は総勢40名。かってない人数、そして、和気藹々(わきあいあい)の雰囲気の中、あの頃の思い出を語り、互いの近況を知らせあい盛り上がりました。先ずはその模様を写真で速報します。 【写真説明】 ①上野ターミナルホテル「水車」。円内は今は亡き同ホテル前会長・井本稔さん(39回生)。井本さんのご好意で「公主嶺会」の拠点に、これまでも今も。②戸井義衛会長(33回生)のあいさつ。③91歳の最長老、田切恒夫さん(31回生)の音頭で乾杯。④長崎県から初参加の坪井泰助(中)、哲哉さん(右)を紹介する土屋洸子事務局長。右下は特別参加の湯川真樹江さん(左)、大石 茜さん。「満洲の記憶」研究会の会員。⑤東京都港区から初参加の中島守敏さん(42回生)。                ②                ③                ④                ⑤ 【注】http://38300902.at.webry.info/201710/article_24.html

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いよいよ 2017年度「公主嶺会」間近

 来たる10月27日(金)午後6時、上野ターミナルホテル・地下「水車」(日本料理)で旧満洲の公主嶺という町の「望郷の会」が開かれる。前身、「公主嶺小学校」の同窓会は同窓生の高齢化で2007年に活動を停止した。  しかし、1950年ころから、公主嶺市に関連のある有志が「公主嶺会」を続けていたので小学校同窓生が合流した。ここのところ毎年続けられていた。それが今年は少し様相が違ってきた。ここ数年の参加者は30名前後、それも年を経るにつれて減少気味だったものが今年は40人を超えるという。  北は福島から南は長崎の人たち。その特徴は初めての人、20~30代の若者3人が参加予定とか。戦争中、親や祖父が公主嶺に住み、戦後の混乱の中で行方知れず、どうしてもそのルーツを探りたいという長崎の親子①。また東京新聞に掲載されたブログ「満洲っ子 平和をうたう」②を見て「私もあの時同じく北朝鮮にいました」という港区在住、当時幼児だった男性③。加えて一橋大の「満洲の記憶」研究会に属しているお二人④などなど。新鮮さあふれ、懐かしい「会」になりそうだ。  私の「次の世代に満洲を、戦争の惨禍を語り継がなければ・・・」というモットーが実践化される日が近づくと思えばこの上もない喜びになりそうだ。(永井至正) 【写真】旧公主嶺小学校 【注】 ●「公主嶺会」:1950(昭和25)ごろ、小松、浅野氏他有志が呼び掛けて作った「会」で戸井義衛さんがあいさつで毎回ふれています。 ①坪井泰助、哲哉、久美さんのこと http…

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「同窓会 県人会」 情報 「公主嶺会」

 東京新聞の「同窓会・県人会」欄(メトロポリタン)10月14日付に、来る27日に開かれる「公主嶺会」のお知らせが掲載されました。      ◇平成29年度公主嶺会     27日18時(受け付け17時)、上野ターミナルホテル・水車(椅子席)。今年は旧満州小学校創立110周年。懇親会会費9000円諸経費含む)。宿泊費8000円(翌日の朝食を含む・申込みは早めに)。申し込み問い合わせは、土屋洸子さん=電042(410)3855=へ。

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歴史にみる10月 人々の生と死

 10月になった。古くは神無月、英語ではオクトーバー。花なら「コスモス」か「金木犀」だろう。10月になると必ずよみがえるのは「学徒出陣」、そして先の大戦における特攻隊の先陣だ。さて、今月も同期生・田口恵敏君提供のカレンダーにそって古今東西の著名人の「生と死」を追ってみよう。 ■1日 毛沢東(1893~1976)年。 この日毛主席のもとに、新中国は第一回の国慶節を祝った。毛沢東は湖南省の農民に生まれた。晩年は「文化大革命」を主唱するなど異常な行動をとり、ひんしゅくの的となった。 ■2日 ガンディー(1869~1948)年。この日インドのグジャラット国に生まれた。インド独立のため、対英非協力運動を非暴力主義の立場から始めた指導者。暗殺された。 ■11日 渡辺崋山(1793~1841)年。 この日自殺。田原藩家老として治積をあげ、画家としても一流。高野長英らと蘭学の研究、普及につとめ、幕府ににらまれた。 ■17日 黒島伝治(1898~1943)年。この日、小豆島で死んだプロレタリア文学者。貧農の小説を書き、また反戦小説を発表した。シベリア出兵をテーマにした『渦巻ける島の群れ』など。 ■18日 エディソン(1847~1931)年。 この日、アメリカのウェスト・オレンジで死す。電信・電話の改良。蓄音機・伝統・活動写真など発明が多く、『発明王』と呼ばれた。 ■20日 二宮尊徳(1787~1856)年。この日、栃木県に死す。通称は金次郎。江戸時代末期の篤農家。徹底した実践主義で、神・儒・…

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終戦の日 私も北朝鮮にいた。中島守敏さん

 8月16日付東京新聞の一面に掲載された私関連の記事を見た同紙のOB、港区の中島守敏さん(80)。「僕もあのとき北朝鮮にいた。あまりにも記事中の永井さんの行程と同じだった」。衝撃を受けた中島さん。「ぜひお会いして話をうかがいたい」と、取材した片山夏子記者に連絡を依頼したという。 ▼中島守敏さん  片山記者の計らいで中島さんと私の出合いが実現した。所は錦糸町の喫茶店。中島さんは挨拶もそこそこに、「僕は当時当時8才、記憶はほとんど薄れ、父も満洲時代の話は全くしなかった」ので永井さんのお話をお聞きしたい、と切り出した。以下は中島さんが記憶をたどっての事実経過の説明だ。  父は満洲の奉天(現瀋陽)の満洲飛行機工場に勤めていた。昭和19年B29の爆撃に遭い、工場が急遽疎開したのが公主嶺。僕は4月、公主嶺小学校の2年生に転入したが工場の生産行程がうまくいかず3ヶ月後に又奉天に引き返したから公主嶺滞在は僅か。そこでソ連参戦、避難列車で南下、敗戦の日は北朝鮮の北部の町で迎えた、というのである。  難民生活の苦しさ、そして公主嶺という町の説明を私が話すことなど小一時間。10月27日に開かれる「公主嶺会」でまたお会いしましょうと約束してひとまず別かれた。 【注】満洲飛行機工場の詳細については、記念誌「満州公主嶺 過ぎし40年の記録」「写真集 公主嶺」(右写真)に詳しい。引用する。  ■満洲飛行機は、奉天の満洲航空機株式工場(昭和7年9月創立)の事業・工場施設を継承して昭和13年7月設立。従業員…

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2017年度 「公主嶺会」のご案内

 毎日お暑い日が続いていますが、皆さまにはご健勝こととお慶び申し上げます。今年は公主嶺小学校創立110周年、戦後公主嶺を引き揚げて71年になります。さて、例年のように皆さまと楽しいひと時を過ごしたいと「2017年度公主嶺会」を開きます。  ご多用とは存じますが、ぜひご参加くださいますように、ご案内申しあげます。 ◆日 時:2017年10月27日(金)       18:00~ (受付:17時) ◆場 所:上野ターミナルホテル・水車(椅子席)       電話:ホテル:03-3831-1110           水車: 03-3835-3414  ◆会 費:9000円 (諸経費含む) ◆宿 泊:8000円 (翌日の朝食を含む) ■世話人:戸井義衛(37回生)        天笠幸雄・宮崎 迪・渡辺令子(39回生) <連絡先)土屋洸子(37回生)       ℡042-410-3855)

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歴史にみる9月 人々の生と死

 9月になりました。古くは長月、英語ではセプテンバー。秋近しと言いたいところだが、異常気象が続く。日本にはもう秋と春が無くなった。季節の変わり目が定かでなくなった。さて、今回も小学校の同期生・田口恵敏君提供のカレンダーにそって古今東西の著名人の「生と死」を追ってみよう。「油彩紀行」は岩手県の三陸復興国立公園「北山崎」。 ■4日 田中正造(1841~1913) この日死す。栃木県人。自由民権運動に活動し、第1回の代議士当選後、足尾銅山の鉱毒により荒廃した渡良瀬川沿岸救済に一生を捧げた。 ■14日 杜甫(712~770) 唐の文学を代表するのみでなく、中国の歴史を通じて最大の詩人。戦乱の中を各地に放浪した。悲壮にして雄大な詩千五百首。 ■16日 大杉 栄(1885~1923) この日、関東大震災の混乱中、甘粕大尉に虐殺された。無政府主義者。労働者の自主的運動を激励し、ボルシェビイキとの共同戦線をとく。 ■18日 徳富蘆花(1868~1927) この日死んだロマン主義文学者。熊本県に生まれ同志社に学んだ。キリスト教的自由主義にたち『不如帰』『風潮』 ■19日 正岡子規(1867~1902) この日東京根岸で死す。雑誌『ホトトギス』を機関として二本派俳句。写生文を主唱。また和歌の革新運動をおこす。『竹の里歌』など。 ■25日 魯迅(1881~1936) 本名は周樹人。この日生まれる。1902年から7年間日本留学。中国の新文学の創始者にして独創的思想家。 ■26日 三木 清(189…

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満洲公主嶺 小松光治の孫 川嶋信子です

 「この度はお電話とお手紙で『満洲公主嶺会』のお知らせを頂き、誠にありがたく恐縮しております。大先輩の御3人が『小松メモ』をパソコンに入力して、世に出して下さってありがとうございます」と、小松光治氏のお孫さん・信子さんからのお手紙です。  ブログを開けたとたん、あまりの膨大な量の資料に卒倒しそうになり、多大な労力と時間をかけて作って下さったことに感動し、深く感謝しております。本来ならば、我々小松光治の子孫がブログを作るべきなのでしょうが、私、以外は皆亡くなってしまいましたので・・・。  強い絆で結ばれた「満洲・公主嶺」の多くの方々が次々と亡くなってゆかれ、淋しい限りですね。私は1940(昭和15)年生まれですので、満洲では幼稚園も小学校にも通っていません。、同期の友というのがないのです。ですから、他からの情報は全くありません。そこへ、今回、大先輩の土屋洸子さんから連絡が入りまして本当に感謝しています。  膨大な量の「小松メモ」を、改めて読み、引き揚げ直後から、祖父が毎日、時間をみつけては、手記を書いていた姿がまぶたに浮かんできます。彼が78才で死ぬまで、ずっと同じ家でくらしていましたのでよく覚えています。今、この時期に、この日のために、世に出るようにと書いたんですね。感動です。  長い間のコンピューター作業、おつかれ様でした。  東京、上野での同窓会、私も若くして健康ならば飛んで行きたいのですが、後期高齢の77才ともなると腰と目を痛め遠方へは出かけられないのです。大阪の梅田あ…

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満洲公主嶺 敗戦から引揚げ迄の記録 小松光治 最終回

 2017(平成29)年4月20日から始まった「小松メモ」(あの敗戦から引揚げまで、苦難の軌跡をたどった旧満州公主嶺に住んだ人々の記録)が、7月26日、29回の連載を終えた。最終回に当たり、「公主嶺会」の事務局長・土屋洸子さんから寄せられた一文を紹介。    「小松メモ」について  土屋洸子    小松光治氏が厚生省引揚援護局(名称は正確でない)に提出されたであろう「公主嶺日本人会設立ヨリ遣送終了魔で概況」は、公主嶺小学校創立80周年記念誌『満洲公主嶺 過ぎし40年の記録』(略称:記念誌)の第10章に「小松メモ」として引用。記載された。資料としてまさに第1級の内容であったからで、その理由は、このシリーズ①(4月20日)に書いた通りである。  そして、7月26日、私(右写真)が小松氏の孫にあたる川嶋信子さんに、ブログ「満洲っ子 平和をうたう」に「小松メモ」が連載されたことを電話した。ブログのことをご存知なかったのでブログの名称や戸井義衛さん((公小33回生)、永井至正さん(37回生)の連絡先などを至急葉書で知らせた。その後、ネットで検索してくださったようで、8月10日、写真のコピーと手紙が届いた。  小松光治氏のお子さんは(小松)吉田美代(公小22回生)、(小松)佐藤淑子(25回生)、小松三郎(27回生)、小松甲子郎(キネオ、37回生)の4名。川嶋信子さんはは長女美代さんの子ども。次男甲子郎さんと永井至正さん(旧姓神島)と私土屋(旧姓池田)は、37回生で、小1、2年生では岩森亘…

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歴史にみる8月 人々の生と死

 8月になりました。古くは葉月、英語ではオーガスト。13年8ヶ月続いたアジア・太平洋戦争が終結した月。花はやはり向日葵(ひまわり)か。さて、今回も小学校の同期生・田口恵敏君提供のカレンダーにそって古今東西の著名人の「生と死」を追ってみましょう。「油彩紀行」の絵は岩手県の奥中山高原。 ■5日 エンゲルス(1826~1895) この日亡命地のロンドンに死す。マルクスの友として科学的社会主義の確立に協力、多くの著作がある。共著『反デューリング論』 ■8日 戸坂 潤(1900~1945) この日、長野刑務所で獄死。すぐれた唯物論哲学者。軍国主義下に唯物論研究会を組織指導して反動思想と戦い、最後まで屈しなかった。『選集』この日八巻。 ■12日 トマス・マン(1875~1955) この日死んだ現代ドイツの大作家。文明批評の精神にみちた大作を発表しノーベル賞をうけた。ナチズムに反抗し民主主義を擁護した。主著『魔の山』、『トニオ・クレーゲル』  ■22日 島崎藤村(1872~1943) この日大磯で死んだ文学者。『文学界』を創刊して、ロマン主義の先駆者として詩を書き、のち自然主義的な小説に移った。『破戒』 ■27日 孔 子(B.C.551=479) この日に生まれたとされる儒教の創始者。政治に志したが成功せず、退いて弟子を養成した。『聖人』として長く中国の思想界を支配した。 ■29日 メーテルリンク(1862~1949) この日、ベルギーのガン出生まれた劇作家。象徴的な手法や宇宙と人間の運…

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満洲公主嶺 敗戦から引揚迄の記録 小松光治-29-

 満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22日 記) 42、公主嶺日僑寄付図書館  公主嶺日僑の遺送直前比較的掠奪を免れたる図書の処分に当たり帰還旅費にすれば一斤5円に売れ行く勢いなりしも、折角多年愛蔵の専門図書をむざむざ包紙又は燃料にするに忍びず、総計6450冊を中国側民衆教育館に寄贈し日僑寄付図書館と命名せられたり。貴重なる医書、古文書、法律、文学、科学等なり。帰還に当たり善い事をして来たと思う。 43、日本人墓地大法要   公主嶺に於ける日本人共同墓地は鉄北最端の火葬場の裏にあり、日露戦争前の露西亜墓地に隣接し比較的広大なる面積を有せしが、昨年終戦後は火葬不能にして全部土葬にせられた為空き地の大半を埋め尽くし、6月18 日迄の埋葬462名あり、此の6月28日公主嶺の全僧侶5人総出にて懇ろに法要を修めたり。  午後3時より、初め随時参拝としたるが、帰還の最跡のお別れとして参拝者千余名、主任の挨拶実に感激に満ち涕泣、号泣するものさえあり。明治39年以後無慮二万の霊骨を遺して故郷に追わる。又何時来たりて諸氏の霊を慰めん、何の顔ありて諸氏に訣し、何の辞を以て故山に帰らん。嗚一万の英霊安らかに瞑し再び平和の雲に乗り、諸氏と相見ゆるの機あるべし。 【注】タイトル写真 第二次訪中(1985年) 公主嶺駅前で 下日本人墓地。  【小松メモ】http://38300902.at.webry.info/theme…

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満洲公主嶺 敗戦から引揚迄の記録 小松光治-28-

 満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22日 記) 41、満洲の治安と中央、八路の争奪戦    中央軍と八路軍が各正規軍を動員して戦えば勝味は中央軍にあるも、何れも正規軍は三分の一又は四分の一にして多くは土兵(匪賊及び元満洲軍を含む)なれば、此の土兵なるものは掠奪、殺傷は勝手にして而も八路正規軍の出身地は河北山東省なれば比較的土兵に親しまれ、中央軍の正規兵の南方にして奢侈なるとソリが合わざる点等よりして総合戦の勝味は八路軍にありと思う。  又国際的には中央軍には米国、八路軍には蘇聯の野性と横紙破りあり、東北の前後誠に憂慮すべく土兵に蹂躙さる東北民衆こそ実に塗炭の苦しみを嘗めざるべからず、其の治安の如きも20年前に戻りたる観あり。一般農民の大東亜戦争を詛うこと誠に故ありと云うべし、此の間孜々として農耕に勤労する農民の心情感激に堪えず。ことに東北産の食料は充分輸出の余裕ありと雖も或いは北方蘇聯に持ち去られ或いは南方日本に輸出の余地あらんも、価格の点に於て到底日本の輸入は困難ならんかと思はる、腐る程持ちながら通貨の関係乃至国際治安の関係上之を輸入し得ざる事態に隔たらしめたること返す返すも遺憾なり。東洋の癌、東洋のバルカン東北の治安確立こそ吾々日本人は無感心たるを得ず否此の東北満洲を通じて中日の提携、世界の平和は期待せらるものと信ず。 【注】タイトル写真 第一次訪中団 満鉄病院前で 【小松メモ】http://383…

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満洲公主嶺 敗戦から引揚迄の記録 小松光治-27-

満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22 日記) 40、東北(満洲)の交通機関   旧満鉄線又は総局線は支離滅裂の状態になり、先ず大連、ハルビン間を見るに大石橋以南は八路にして切断、大石橋以北新京北第二松花江迄は中央軍の手にあるも、鞍山は時々八路に奪還せらるる棄権あり、公主嶺、四平街中間の遼河鉄橋は八路に依りて根本的に破壊せられ、サンドル式仮工事にて機関車は通過せしめず、前行と後押しにて交通、京吉線は無事なるも夫れより先は八路にハルビンの東西線は全部蘇聯の広軌に改められ北安より黒河迄の線路は取り外して露領に持ち去られ居り、機関車、客貨車の四割弱は露領に運ばれたりと聞く、関東郡及び満州国の優秀なるトラックも同一運命に陥り、八路の使用するものは中古の破れ自動車にてガソリン不足にて困却し居るg、中央軍の自動車は悉く米国製の優秀快速なるものにしてガソリンにも欠乏せざるが如し、汽車賃は終戦前公主嶺~新京は四円なりしに現在は62円となれり、以て一般を推するに足る。 【注】タイトル図 旧満州国鉄道図 【小松メモ】http://38300902.at.webry.info/theme/489e1960d0.html

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満洲公主嶺 敗戦から引揚迄の記録 小松光治-26-

 満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22 日記) 39、(補遺)東北(満洲)の通貨と物価  終戦後満州国の国幣(日本国平価)は偽票と称せられつつ、一ヵ年後の今日も最信用あり蘇軍軍票(紅票と称せらると中央軍流通の「九省流通券」、八路発行の中央銀行○○省銀行券の四は現在東北に通用の紙幣にして中央軍隷下には八路券通用せず八路軍官下には九省流通券は通用せず、独り旧満州国の国幣は偽票と称せられつつ東北全体に通用せられ、紅票は錦州方面以外は各地に通用せらるるも将来を危惧して一般は之を喜ばず最信用あるは尚此の偽票国幣なるこそ、実に満洲の特異性を語るものならずや。   物価は八路時代「無統制」の政策を誇りたる為、物に依りては乱暴なる高騰を見たるが何分交通範囲極限せられ居る為、或程度に制圧せられ八路兵の俸給(一カ月拾円以内)との関係上甚だしき昂騰は見ざりしも中央軍進駐後は彼等の豪奢生活共に、九省流通券の濫発に依り(五十円券百円券以下無し)物価は一気に奔騰し、煙草十本入り十五円~三十円、白米一斤三十円~五十円~七十円(日一升二00円)、肉一斤三十~五十円、野菜の如きは無統制のため、安き時は一斤二、三円高ければ一斤拾円~二十円(天候と外部より買い付けにする)中央軍将士の俸給は多く、米国に倣い将校は五、六千円、兵士千円以上にして到底八路の比に非ず、豪奢享楽に耽るは止を得ず、一方一般労銀も昂騰し、普通1人一日七、八十円大工左宮百五十円、特…

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満洲公主嶺 敗戦から引揚迄の記録 小松光治-25-

 満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22日記) 38、戦いは時の運、卑屈な態度を慎め   私は明治37年佐渡丸遭難後同年7月5日大連に上陸以来、満42年在満した。今回の敗戦は2600年初めての敗戦、周章狼狽も無理もない。関東郡のザマも此の眼で視た。偶然に敗れたのではない敗けるべくして敗けたのだ。男らしく「参った」、今更少数の戦犯者を攻めても始まらない、下から盛り上がる勇猛心を振り起して「ポツダム」宣言に従い平和産業に邁進する外なし、但し此の間余りに敗戦国として委じけては不可、前記蘇聯司令官の云う通りだ。今度は吾々の勝つ番だ。但し武力ではない平和的思想と文化である。何も昔に返って日清、日露戦役や満州事変迄否定するに及ばず、あの時はあれで善かったのだ。日本民族の生くる途はあれしか無かったのだ。只山海関を越え蘆溝橋事件を惹起したるは絶対に悪かったのだ。私は最近迄満洲に居てしきりに9,18事件を追窮せらるる毎に諄諄として説いた。  中国が日本を無理解であったからだ。視よ建国14年間に満洲人口は三千万人より四千五百万人に達したのでないか。製鉄所、水電、鉄道網の普及此の文化、産業の発展は仮令一面政治的罪悪ありとしても充分に補ひて余り有るに非ずや、若し日露戦争なく満州事変無かりさば現在の東北は如何なる状態に置かれたであろうか、満洲に関する限り、余り日本人を邪魔もの扱いにせば天意に悖るとおもうからだ。斯くて前記の如く戦時国際公法…

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満洲公主嶺 敗戦から引揚迄の記録 小松光治-24-

満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22日記) 37、満洲に於ける一般中国人の対日態度    終戦後今日まで約一ヶ年は随分長かった。10年も年老いた気がする。此の一年間に中国人の態度も環境の異なるに随い漸次反省して来た又、年令教育にもよる。以下稍詳細に観察せん。  1、環境に依る随時の態度     イ、蘇兵が徹底的に日本人家屋を掠奪し日本人を苛めた時には彼等も其の尻馬に乗って日本人を侮辱し亡国人何かあらんと云う気分で、元親日的官人さえ日本人には半搗高粱を、自国民には精白を配給した程だ。     ロ、蘇兵が稍冷静になって中日両国人を比較して見ると、日本人は確かに統制あり技術に長けた文化人であるが、中国人は無秩序にて厚顔無恥の非文化人たることが判って来たので漸次中国人を愚劣視し日本人を迎えんとする風に見え出したので、中国一般民衆も日本人を見直す様になった。   ハ、八路政権入市後は先ず人気取りに日本人や国民党を苛めたが、八路の幹部に隠れた日本人も居り日本人がが居なければ電灯も水道も使えぬ一般技術上どうしても日本人を立てる様になり却って中国人の有識有産階級を搾取し出したので、漸く元の満州国を偲ぶ様な者さえ出て同病相憐れむ様に日本人に同情を寄せる様になった。中国人で八路に銃殺されたもの数十人、搾取額1億5千万円と称せらる。   ニ、中央軍入市後は如何にも戦勝国民の態度で吾々日本人に弾圧を加え来ったので一般民衆も非…

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満洲公主嶺 敗戦から引揚迄の記録 小松光治-23-

 満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22日記) 35、共産地区の日僑及び日俘の行動  奉天、四平、吉林地区の日本人遺送は概ね10月半頃終了すべく、大石橋以南大連、安東及び第二松花工以北ハルビン、チチハル、牡丹江の日本人は蘇軍及び八路軍勢力下にあり到底遺送は困難ならん。蓋し彼等は日本人の技術及び労力を期待する外、予想せらるる国共交戦乃至米ソ会戦に日本人を人質にせんとする気構えある様に見受けらる。又日俘約55万人は南満の者は「ウクライナ」に北満の者は「ウラジオ」に送られたりt聴く審議不明なるも「ウクライナ」に送られたる者は稱々優遇せられ「シベリア」送りの内東部浦塩「ハバロフスク」邊に在るものは混入せる朝鮮人共産軍の為甚だしく酷遇されつつありと聞く、前記2万人の病死も真ならん。  而して彼等はポツダム宣言によれば昭和23年4月25日迄使役し得ると嘘つきつつあるが如し、同乗に堪えず。ソ連は又一面共産教育を授けつつありとも伝えらる、何しても蘇聨の非人道的なるは掩う可からず、因に蘇軍は占領品と称して武器弾薬以外に鞍山製鉄所、鴨緑江及び豊満水電の機械まで取外し、各地映画館の映写機、発電機、机、椅子、電球迄も欧露に持ち去り満州国の食料、石炭まで多数掠め去るを見たり。此の蘇軍が若し日本に上陸進駐せば其の結果や戦慄すべきものあり。 36、満洲に於ける朝鮮人   終戦後昨年末迄に穏健なる分子は多く鮮内に帰還し現在東北に残れるも…

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満洲公主嶺 敗戦から引揚迄の記録 小松光治 -22-

 満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22日記) 34、寄託金に就いて   奉天、長春其の他に於いては終戦後民会経費捻出方法として過大なる戸口会費及び東北日本人救済金として有資産者より拠出せしめて莫大なる費用を賄い居たるが如し、此の救済金と称するものは長春を主体として満蒙総裁高碕達之助を委員長として元満州国総務長官武部六蔵氏を初め、正金、三井、三菱、住友の各支店長連合の名に於て、将来日本政府に返還せしむるからとて数千万円の現金を日本人の金持ちより手離させた制度で、帰還後一ヶ年経て無利息で元金だけ支払うとの約なり。  但し是は必ずしも東京政府の完全なる承認を得たるものではないが、是丈東北(満洲)居留の日本人が苦労して居るのだから、まさか知らぬとは云うまいとの見解であったらしい。  昨年末公主嶺より長春に其の分配を交渉した時は、大体50万円の了解を得て居たが何も長春より現金を持参するのでなく、公主嶺在留の金持ちより醵出せしむる機構であり、余り民会に金を集めると八路政権に奪はる棄権あり、最初は全然奇特家の寄付金にて賄い尚事業部の利益金で間に合わせて来たが本年に入り段々貧困者は増加する使役の代払いは嵩む、物価は騰貴すると云う訳で遂に他地に倣ぅて此の救済資金の交渉に及びた処、期遅れて所謂救済資金は既に打ち切りと聞き漸く18万円丈其の枠に入れて貰う他は、寄託金の名目での募集可ならんとの事にて事の急を告げて奉天連絡所より40万…

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満洲公主嶺 敗戦から引揚迄の記録 小松光治 -21-

 満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22日 記) 31、終戦後遺送迄の死、生者   自昭和2お年8月19日至同21年7月20日 出世者 166名  乗車後錦州出発迄出生者 4名 内死亡者 40名 生存残 130名  公主嶺在留中の死亡者 492名  車中及び錦州滞在中死亡者 7名  計(出生後の死亡者を含む) 499名  尚公主嶺死者の内には銃殺者を含む。.   32、遺送前登録したる動産及び不動産   1 動産、有価証券 684万5千円也 残置家具什器 120万円也  2 土地所有権 1500万円也  3 家屋、土地、工場 6660万円也  計 8974円也  是に前記被掠奪9000万円、盗難品及び銀行預金等を加え総損出 2億円也。 33、日本人会及び善後連絡所の収支概算戸口      (自20年8月19日 至21年7月20日)   収入項目(収入金額 円)   寄付金 575、000円 寄託金 2064、000 借入金 400、000 遺送る費徴収 650,000  戸口会費営業費 135,000 雑収入 30,000 計4954000   支出項目  民間維持費 900,000 保護寮費 50,000 学校費 79,000 保障費 200、000 遺送費1000、000   返却金 100,000 寄付金 200,000 残留者へ500、000 工作費 536、000 …

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歴史にみる7月 人々の生と死

 今年も半分を終えた。もう7月。古くは文月(ふづき、ふみづき)。花は「梔子(くちなし)」。さて、今月も小学校の同期生・田口恵敏君のカレンダーに合わせて古今東西の著名人の「生と死」をひもといてみよう。「油彩紀行」の絵は北海道美瑛町の「塔のある風景」。 ■2日 チェーホフ(1860~1904) この日死んだロシアの誠実な作家、劇作家。医者出身。19世紀末のロシア社会の明暗相を、すぐれた短編でえぐりだした。『六号室』、劇作『桜の園』など。 ■9日 森 鴎外(1862~1922) この日死んだ日本の古典的文学者。医科大学を出て軍医総監となったが、文学により大きな仕事を残した。『鴎外全集』 ■24日 芥川龍之介(1892~1927) この日服毒死した文学者。理知的な手法で巧みな物語を書いた。晩年はニヒリズムの色が濃い。『羅生門』『河童』『歯車』 ■24日 林則徐(1785~1850) この日、福建省で生まれた。1839年、広東でイギリスの商人が持ち込んだアヘンを焼却、英清開戦の端を開く。中国近代化の先覚者の一人。 ■27日 レールモントフ(1814~1841) この日決闘して殺される。ロシアの小説家、詩人。悪魔主義的な作品の中で、当時の社会と人間を徹底的に批判した。代表作『現代の英雄』 ■29日 ゴッホ(1853~1890) この日自ら拳銃で頭を撃って死んだオランダ生まれの画家。28歳から絵をかきはじめ、フランスに行き、激しい個我によって独異の境地をひらいた。

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満洲公主嶺 敗戦から引き揚げ迄の記録 小松光治 ⑳

 満洲公主嶺日本人会の設立及び華日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22日 記) 30、佐世保上陸より各員帰国まで   吾々(第2団の内)の乗船は「リバーティ」QO87号にして8月2日15時胡蘆島出発(胡蘆島に於いて携帯品の検査を受け「DDT]の散布後各員老若男女約30瓩の荷物を背負い三百米の短距離ながら酷熱下船内に辿り着くまでは流汗淋漓甚だしき労苦を感じたり)8月6日佐世保港着は午前10時なり、黎明より気性初めて母国の山水に接す、嗚呼国敗れて山河あり、悲喜交錯す、一日二食、玄米食、一人一日400瓦にて満腹す、飲料水は豊富なりしも洗面、洗濯は海水なり、7日各員検便せしが幸いに保菌者は無かりしを以て9日上陸初めて母国の土を踏む。此処にて又「コレラ」と「チブス」の注射及びDDTの散布を受け一粁半山腹を徒歩、小艇に搭し佐世保収容所に入る「引揚の皆さんご苦労さまでした」のふと文字のポスター各屋壁に貼られあり手荷物一切の検査を受け初めて宿舎に入る、元海兵団の営舎と見え木造板の間なるも頗る清潔、蝿、蚊はなし、一日三食(朝昼は雑炊、晩は飯に煮付け待遇甚だ懇切男女各別50人を容せる浴場あり7月22日以来の垢を流す(北大営には中国人の浴場ありたるも一人20円、余り利用せざりき)此の収容所滞在中、諸種の衣料配給(無償)を受け感激す、最後に一人煙草20本、焼酎5勺宛を給せられ母国の温情をしみじみ感じたり。8月11日、12日に分かれ九州行き、品川行き、大阪行きと随時宿…

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満洲公主嶺 敗戦から引き揚げ迄の記録 小松光治 ⑲

 満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22日 記) 29、遺送開始より乗船迄  1、大隊編成   遺送人員4890人を4個大隊に、1個大隊に、、1個大隊を8個中隊に、1個中隊を5個小隊とせり。1小隊員数は30名とす。日俘538名は日俘1大隊、范家屯は公主嶺第5大隊とせり。  范家屯及び日俘は第1日7月20日、公主嶺第1,2大隊は第2日目の21日、団長は和田松助第3の最終日は第3、4大隊7月22日にして団長は主任小松光治にして衛生股長も最後に追随せり。各大隊に医師、薬剤師各1名看護婦2、3名、僧侶各1名。 2、残留者   イ、技術留用者41名 家族76名 計117名  ロ、病気残留者46名 家族82名 計128名  ハ、錦県に於ける偶発留用者 医師2 薬剤師2 看護婦5 使役3  ニ、錦州に於ける病患者(乗船不可能者)計9名 患者2名 家族4名、合計263名 3、残留者に対する処置   技術留用者は概ね半年乃至一カ年の契約にして宿舎は市中安全なる処に区画を貰い、残留患者は普通患者と法定伝染病患者は別に2棟を貰い日僑俘患者治療所と看板を掲げたり、患者は治療次第長春よりの遺送部隊に合流するか又は別途病院列車に便乗せしむることとせり、又患者を主として一部留用者にも均等にするよう左記の金品を残留者一同に残し来たれり。  金50万円也及び委任状による受取金6万4千6百円也。  高粱、米、粟あ(精白)…

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戦死した兄の遺影に出会い 涙こぼれる

 昨日、故あってここ20数年来、疎遠を余儀なくされていた長兄(神島一男)の娘(姪=瑛子)から、特攻死した五兄の遺影と経歴が送られてきた。驚きとともに見入るほどに胸に迫り、涙さえこぼれてきた。21歳で神風特攻撃隊の一員として還らぬ人になった神島利則海軍中尉の凜とした眼差しに吸い込まれるよう、72年目の再会だ。 ■神島利則(かみしま としのり) ・戦線      海軍比島方面作戦 ・戦死年月日 昭和19年12月15日 ・隊名     第7金剛隊 ・階級     中尉(戦死時の階級) ・年齢     21歳 ・出生年    大正13年1月3日生 ・出身地    旧満洲 公主嶺市 花園町 ・出身期別  第13期海軍飛行予備学生 ・出身学校  拓殖大学 ・出撃基地  セブ島 ・出撃機種  零式艦上戦闘機 ・戦死場所  ナソ角90度45浬  ・辞世の句  たまちりて おほみ心に かなひなば 何惜しからん 我が命かも   【追記】同封で一枚の写真が入っていた。それには「12月15日午前、スルー海を航行する護衛空母艦をめがけて急降下態勢につく零戦。5インチ砲弾、40ミリ砲弾が襲った。」(米軍撮影)との解説がある。15日出撃した零戦は19機、もしや兄利則の搭乗機ではないだろうか?と思い、しばし釘付けになった。  私のブログには「神風特攻」をテーマで、これまで155頁にわたって書き続けてきたが、彼の写真が一枚も添付されてなかっただけに思いが募ってくる。 【神風特攻…

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いまだに小学校(国民学校)の同窓会続けてる

 旧満州公主嶺小学校の37回生(昭和20年卆業)の人たちも今年は85歳、5月に開かれた同窓会では今後、「会」をどうするかが話されたが、先だって東京新聞に載せられた以下のような投稿を見て、大変参考になった。そこには「2人になるまで続けよう」とある。 ▼公主嶺小37回生の同窓会   友と語り蘇る 上海の小学校    日高明子(83) 東京都国分寺市  友人に話すと驚かれますが、いまだに小学校(国民学校)のクラス会を続けています。昨秋、「次回は一年後に」と言うと、「一年後は居ないかもしれないからもっと早く」の声が上がり、最近、東京近辺の者だけ九人で集まりました。  私たちは上海からの引き揚げ者で、6年生の8月15日をもって学校がなくなりました。母校が存在していないのです。集まった時にのみ学校が蘇ります。  50才の頃、先生を囲んで始めたクラス会は、5年後先生が亡くなると、墓参を最後に正式な形では終りました。しかし、級友がいる各地で会を続け、何年か前からは遠出をやめ、東京近辺の方たちと日帰りの会です。今は出かけられることも一つの幸せと思う年齢。最後の二人になるまで続けようといっています。 公主嶺小学校校舎の一角⇒

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満洲公主嶺 敗戦から引き揚げ迄の記録 小松光治 ⑱

 満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22日 記) 28、日僑善後連絡所と改称   中央軍の東北進駐に依り各地日本人の内地帰還開始の緒に就き中国側にては瀋陽(奉天)に日僑俘官理総処(処長東北行営長官杜津明中條)日本側は瀋陽に日僑善後連総処が日本人会に引継ぎ会長は主任と改められたり、吾が公主嶺も6月10日初めて公主嶺日僑善後連絡処と改称し主任には会長小松光次郎を引き続き煩わす事とせり、事務機構も遺送(日本人の帰還を中国側では遺送と云う)事務を主眼とし、総務股、財産股、遺送股、経理股、衛生股、渉外股と改めたり、財産股は日本人の帰還に当たり残置せる動産、不動産の調査を完了して之を中国側に引渡し将来日本政府が聯合国に支払うべき賠償金の一部に肩代わりせらるるものなれば各種書類は八部を要し一部は東京政府に送らるるものなり。  遺送股は日僑(俘も側面的に同様斡旋す)帰還に伴う設営、食料、名簿、腕章、胸章作成、大中小隊の編成等最頻雑なり、衛生股は帰還に伴う病患者の処置等細心の苦慮を要す股長には元満鉄病院長佐藤博士を煩わし薬剤師、看護婦若干総動員して遺送前日迄多忙を極めたり、経理股は一般会計の外今回帰国に要する寄託金の募集、救済金の支出総決算に最期まで忙しく、渉外股は主任直属として一切中国側各機関との折衝に当たり各股とも内地帰還を前に「飛ぶ鳥跡を濁さず」のスローガンの下に何れも大車輪に働き中国側の好感裡に感慨深き公主嶺に決別したり。…

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満洲公主嶺 敗戦から引き揚げ迄の記録 小松光治 ⑰

 満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会 会長 小松光治(昭和21年8月22日 記) 27、使役の供出   在満各地の日本人の最普遍的に強課せられたるは中蘇両軍、官が敗戦国民に対する使役の強制供出にして男子18才以上50才(実は57,8才に及ぶ)迄は殆ど全部動員の外なく賃金は支払いを口約するも大半は払わず而も中国労働者賃率の半額を標準とせられたる為、無産者、困窮者は全額支払はれても尚生活困難なれば是等は何れも民会に於て代払いをなし婦人と雖も八路時代前記特志看護婦の外軍服調整女工供出一日二百名を強要せられ男女供出の場合留守宅に強盗の侵入多く漸次出役数減少すれば、民会幹部は叱責を蒙り之が調節に非情なる苦心を要したり、殊に終戦直後日本人に依り便所の汲み取りを命ぜらることにして在満40余年便所の汲み取り、汚物掃除は只満系の仕事と思い込みたる日本人何人も之に応ぜず色々宥め欺かして開拓団の請負はしめたるがこの憐れなる姿を最初に見たる吾々は断腸の思いあり心ある中国人も昨日に変わる此様を見て若干のチップを呉れたるが如し、此の間蘇軍は日本人の窮状に同情し賃金の代償として自己の没収掠奪したる石炭、雑穀及び雑品(中には番茶、梅干、砂糖)を呉たることあり、但し之には相当の工作を要したるが数量等頗る大雑把にして此の点大いに助けられたる訳なり。  以上過去11ヶ月に亘る使役供出の跡を見るに蘇軍、八路軍、中央軍共実際作業量を見ず只何でも多数の使役を命せらるるに困却せり、終わりに…

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満洲公主嶺 敗戦から引き揚げ迄の記録 小松光治 ⑯

 満洲公主嶺日本人会の設立及び日僑連絡所の記録(敗戦から引揚まで)-公主嶺会会長小松光治(昭和21年8月22日 記) 26、日本人の悩み   昨年9月25日八路政権の入市後最も強要したるものは武器の提供にして実際無き者まで持って居たと称し幾日間の持ち出さざれば、班組長の拘留、銃殺と脅迫せられたる為、或いは退去軍人の放棄したと思はるる地下室、便所、天井裏を捜索して長小銃数十挺、弾丸若干及び凡ての日本刀を供出し尽くしたる後中央軍の進駐なれば如何に強要せらるる共武器提供は詮すべなく、僅かに数振りの日本刀を供出す。尚ガソリン埋蔵の疑いある個所の延人員数百名を以て掘り捜したるも遂に何等成績を得ざりき。   一面中央軍は魚色の点蘇軍に類し日本女性を要求すること頗る執拗にして而も其の理由は南京、大原に於て暴虐を敢えてしたではないか必ずしも処女でなくても無毒の妓女を斡旋せよと云う、一時日本人会は牛太郎部屋の如く会長及び渉外係は牛太郎の如き観を呈したるが婉曲に之を受け流しつ長春に人を派し特殊夫人(元は処女生活難にて自ら最近投じたるもの)30余名を物色し来たり応急の処置を取りたるが、其の数日間に二三の強姦もありて日本人幹部の苦慮云うべからず、又中央軍幹部の官舎に入るを喜ばず日本人住宅を要望するため稍整いたる日本人家屋は次々と立退きを命ぜられ、代わりの家は与えられず狭き場所に併宿の外なく暑気将に至らんとする折柄衛生上忍ぶべからず程度に詰込み且つ家具調度品の強要をも併行され戦敗国の惨めさをつくづく味会はうに至れ…

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