公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -9-

 大正14年僕が5年生の終わりに、満洲日日新聞主催で高塚社長が団長となり、第7回母国見学団があり、丸福旅館の浜本義一君と一緒に参加した。この見学団は毎年2,3人の死者が出るので、これが最終回となった。(記念誌179頁上段)    母国見学団で内地へ         湯本常雄(18回生)    各地の小学校から2名ずつと付き添いの先生を加え一行は100人くらい、奉天に集合、京城、下関、宮島、岡山、大阪、奈良、伊勢神宮、二見ケ浦、名古屋、東京、京都、神戸、大連と名所旧跡を見学、京城、岡山、東京では小学校を訪問しての三週間の旅であった。  満洲の奥地で育った児童は海を見るのが初めてで、船に乗ってびっくり、人力車を引いている小父さん、ヨイトマケの小母さんら労働に従事しているのがみんな日本人であることを知り、またびっくり。宮島では鳥居のところで海の水が塩辛いかをたしかめ、宮城のなかを特別見学させていただき、桜の花を京都で見た。  大連の港で船に乗り込んで来た中国人の顔を見、声を聞いて、ああ、やれやれかえって来たのだとホッとしたことは今でも忘れられない。 【注】小学校2年生のとき、母の病気療養のため3ヵ月間内地に帰国したことがある。その際、驚いたことが三つあった。それは、①冬なのに雨が降ること、②汽車が屋根の上を走ってること、③豚が白いこと、だった。

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -8-

 19回生の私共は山下昌平先生が公主嶺小学校赴任最初の生徒で、5,6年の2年間を受け持っていただきました。(記念誌178頁下段)     山下昌平先生のこと        高取知恵子(19回生)    先生は体操がお得意でしたが、最初の冬はスケートが初めてで、氷の上に立つこともできず、満洲育ちの私共の方がスケートばかりは先輩なので、後ろから支えてあげたり、椅子を持ち出して稽古したりしているうちに、すぐ上達されました。  また大正15年の奉天での満鉄主催の陸上競技大会には、クラスから湯山秀雄、小島賢一田所武、井田満枝、池上重子の皆さんと私が出場しましたが、先生の御指導で毎日放課後おそくまだ共に汗をかいてタイムをとり、猛練習しました、お蔭様で優勝しました。あのときの堀井校長先生、山下先生のお喜びは忘れられない思い出です。  女学校入試のときも、夜に学校で電灯をつけての復習にお骨折りいただき、無事大連女子商業に無試験で入学できました。小学校卒業後も3年間、学校を卒業するまで成績表をお見せして、御批評をいただき、そのたびに心温まる御教示をいただいて、明るく正しい道を歩むことができたと感謝いたしております。 【注】■昭和3年度の職員 後列左から3人目、山下昌平先生。

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -7-

 大正14年の秋と思います。初めての陸上競技大会が奉天で行われました。凄い風が吹いていたような気がします。参加校をA組、B組に分けて、公主嶺はB組でした。学校の生徒数が町の大きさで分けられていたようです。(記念誌178頁上段)    陸上競技大会で優勝         新 淑子(旧姓橘・18回生)  種目は男子百、二百、四百、円盤投げ、砲丸投げ、女子は五十、百、二百、その他バスケットボール投げなど、走幅跳び、走高飛び、リレーは男女共ありました。その時代は一人で四種目くらい出られたように思います。  ユニホームは男子はランニングシャツ、横に黒い線の入った白パンツ、女子はノーカラーの襟元を黒でトリミングした上着と黒の繻子のパンツ、やはり横に白い線が入ったもの。男子も女子も胸に「公」の一字が入っていました。優勝したときは、このマークが誇らしく思えました。  とにかく優勝したのです。預かってもらった腕時計が先生のポケットの中で、優勝の喜びのためか、祝杯のためか、こわれて返ってきたこと、帰途途中で、勝ち栗だ、勝ち栗だと、甘栗をむかされたこと、全校の旗の波に迎えられたことなどを思い出します。 【注】陸上競技2連勝  大正15年10月、公主嶺小学校は全満小学校陸上競技会に連勝した、」2本目の優勝旗をもって帰校した。 (写真集 満洲公主嶺31頁)

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -6-

 大正11年に父は渡満していたが、家族は2年後の大正13年5月、関釜連絡船で渡満した。私は当時8歳で3年生、着物姿に学帽をかぶった渡満記念の写真が残っている。一緒に写っている弟はまだ2歳だった。(記念誌177下段)    下駄スケートで遊ぶ          南治芳春(20回生)     佐世保から下関へ行き、釜山から朝鮮経由で奉天、四平街、公主嶺への長い退屈するような旅だった。汽車の中で、中国人が背負っていた布団のにおいに閉校した。  小学校は駅前の旧校舎で、道路を隔てて運動場があった。秋の運動会が終わると、土を盛り上げてスケート場の土手が築かれる。一晩中四方から水を流し、翌朝には氷のリンクが出来上がっていた。滑るところに鉄板に大きな炭火をのせていた記憶がある。    選手の人は、安東型ロングスケートだったが、私達はまだ下駄スケートであった。下駄は足駄の台のように舟型で、鼻緒のほかに後ろにも紐がついていて、草鞋のように足をしばった。  その下駄スケートをもって、三宅牧場の前を通って水源地のダムによく滑りに行った。友達と練習していて、ぶつかって頬をはらし、母に叱られて暫くスケート禁止を言い渡されたこともあった。

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -5-

 5年の遠足でコーセン山に行ったとき、何が面白かったのか、気がついたら橘淑子さん、伊藤久子さん、安部さん、渡辺まっちゃんら女の子ばかり7,8人になっていたのです。(記念誌177頁)    コーセン山に「降参」         石丸ふみ子(18回生)    先生は人数も調べないで帰ってしまったのか! 野宿しようかと面白半分のことをいっていたようでしたが、汽車通学の江川さんが「私一人でも帰る」と帰って行くのを見て、他の人達もお陽様が沈む方に帰れば大丈夫と歩きはじめました。間もなく馬に乗った兵隊さんに会って、「いたいた」と私達を探しに来て下さったことを知りました。  家に帰ったら、母が人様に迷惑をかけて・・・・・・と怒ること、木下町はロシア建ての社宅で、地下室が6畳くらいもあるのですが、その中に入れられて、上から蓋をされたら真っ暗!。漬物の桶などがあって、何が嫌いってネズミが嫌いな私は、こわくてこわくてふるえていました。私にはもう降参の「降参山」の遠足でした。  あとで橘先生が、人に迷惑といっても、悪いことをしたわけでもないのに、細いふみ子さんを怒らないで・・・・・・といって下さったのも忘れられません。 【注】中国語訳文

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -4-

 大正12年の夏かもしれません。4年生でした。当時、5,6年は星ケ浦海水浴、4年が熊岳城だったと思います。熊岳城温泉までは駅からトロッコが4台くらい一列に並んで線路の上を行くのです。後の車のロバが前の車のなかに、あの長い顔を出すので悲鳴があがり、大変な騒ぎ、屋根だけあるトロッコでした。   大雨の熊岳城温泉行      新 淑子(旧姓橘・18回生)    毎日楽しく温泉に入ったり、泳いだりして二週間の終わり、そろそろ家に帰れると楽しみにしていたところ大雨が降りました。川の中に煉瓦造りの小屋があり、その中が温泉だったような記憶がありますが、それが濁流にのまれ、屋根が流されました。私たちが泊まっていた宿舎も川の近くにあったのですが、床下まで水が上がり、泣き出す人もいて、先生は大変だったと思います。  鉄道がこわれ、列車が遅れて、途中下車して歩いたり、また乗ったりで帰ってきました。いまでも覚えているのは、鉄橋が流されたのだから、電報を打っても家に着かないとか、電気だから届くのだとか大変でした。 【注】熊岳城の温泉聚落は大正7年夏から始められた。熊岳城は温暖な南満にあって、早くから開け、満鉄の付属地となってからは果樹、水田の経営が盛んで、農事試験場分場が設けられていた。温泉は熊岳河の河原のところから湧き出ていて、露天の温泉だった。成分は無職透明のアルカリ泉だった。(記念誌125頁)

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -3-

 公主嶺で住んでいた官舎は小学校正門前の通りを南西へ2,3分行った右側にあった。父の井田竹蔵が公主嶺警察支署の翻訳県高等科として勤務していたので、職業柄、中国の人の来訪もあり、「チンテンシャン ユウ?」(井田さんいますか)と私には聞こえたが、その声の調子が耳に残ってる。(記念誌176頁上段)    「チンテンシャン?」       島 綾野(旧姓井田・17回生)    煉瓦造りの建物の中心部にはペチカがしつらえてあったが、それは使わず、専らダルマストーブで暖を取り、凍ったミカンを焼いて食べたり、お正月の黒豆もその上で出来た。窓は勿論すべて二重窓で、冬には目張りをし、窓ガラスの一面だけを開閉して換気をしていた。  家の奥には大きなヤナギの木が4本並んでいて、春には柳絮が舞い、真っ白に散り敷いた。その先が畑で、ある年、父が農事試験場からトマトの苗をもらってきて詩作したところ、実に見事な真っ赤な大きな実がなって驚いた。初めは砂糖をかけて食べたように思う。それが試験場によって公主嶺にトマトの栽培された最初の年なのだろう。私が4、5年生のころで、大正11,2年ごろだったろうか。次の年は連作のためか、あまり出来はよくなかった。 【注】中国語訳文

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード ー2-

 大正12年、元白系ロシアの文部大臣でいらしたとかのアレキサンドル・ジュコフスキー氏が満鉄に亡命して来られ、農試病理昆虫科で父三浦道哉(のち蜜成と改名)の仕事を手伝って、赤石行雄氏と植物の絵などを書いておられた。お住まいは農試のなかのロシア建て住宅だった。   ジュコフスキー一家     寺田敏子(旧姓三浦・14回生)    父は北大の宮部金吾先生の教室で植物分類学を学び、研究室にも残って、その後、 青森試験場に勤務した。宮部先生のご養子の宮部憲次氏は公主嶺農試の病理長昆虫科長でいらしたが、不幸にして病没され、その後任として大正7年、公主嶺に赴任した。  世話好きの江戸っ子の母はよくジュコフスキー一家のお世話をしてあげていた。共同浴場へ行かれるのもお気の毒と、ときどき家のお風呂にお入れしてしていたが、室一杯に香水をプンプンただよわせ、湯船のお湯は空っぽにして使われていた。奥様はすごく体格のよろしい方で、よく椅子一杯に座られてはピアノをひいて遊んで行かれたものだった。  後日、公主嶺の病理昆虫科が熊岳城へ移管されたとき、ジュコフスキー氏も熊岳城へ行かれ、のちポーランドへ帰られたというが、如何されたことやら。 【注】下写真 大正9年夏 公主嶺農事試験場の全員。前列左から5人目が三浦道哉氏。

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -1-

 私の母、小野かのの人生は即、実科女学校と家政女学校の歴史でもあると私は今でも思っている。あのころの母は必死になって働き、学校の内容充実と発展に努力していた。それは今でも瞼の裏にやきついて忘れられない出来事である。(記念誌175頁上段)   家政女学校時代の母         小野良昌(19回生)    大正10年ごろと思うが、夜になると5人から10人くらいの女性がわが家に来て、ペチカのある部屋で夜おそくまで和裁や洋裁、手袋などを母に教わっていた。  私はまだ小学校低学年だったのに、寝ないでこの光景を眺めていた。いまでもビーハイブの毛糸とか、ゴム編みとか、丸い輪のある刺繍する布とか、種々の色の英国製DMCの刺繍糸とかを覚えている。長い物指しがあり、布を裁断する木の絶ち台があり、シンガーミシンがあり、そのなかに熱心な母の姿があった。  夕方おそくまで学校で教鞭をとり、帰宅するとすぐ食事を作り、夕食がすむかすまないうちに多くの生徒が来る。そして一人一人に手をとって、それもみんな違ったものをやっているのを教えていた。またそのためか、夜中に台所で(わが家に風呂はなかった)洗濯をしていた母の姿が忘れられない。 【注】「小野先生は実家が東京だったせいか、毎年夏休みには東京でいろいろ講習を受けられて、それを毎日に授業に生かすという熱心さで、父母からも絶大な信頼をえておられました」(記念誌146頁ー田中清蔵)。下は中国語訳文)

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -26-

 公主嶺の朝日新聞は三村高次郎さんのあとを浅野兼右衛門さんが受け持っていました。浅野のじいさんは私宅に毎日のように夜遊びに来ていました。(記念誌220頁下段)    公主嶺にも朝日新聞         小久保有彩(26回生)   昭和になって、私の小学校時代に父がすることになりました。朝は早くて配達は大変なことでした。字の大変上手な中国人がいて、この人が配達の責任者でした。数人の中国人が配達のため、店の裏で大きな机の上で新聞を折り畳んでいました。  このころ、満洲で一番、部数が増加したということで大連で表彰され、父に連れられて妹の達子(29回生)弟の謹輔(31回生)と一緒に行きました。  その後、満州事変が起き、陸軍官舎も増えて、ますます部数は増加を続け、満洲一ということで、毎年大阪本社より表彰状、記念品、置物などをいただきました。私も配達伝票を書き、集金票を何十冊も書きました。  陸軍官舎や合同官舎は一人ずつ新聞に帯封をかけ番頭の杉本岳芳さんが名前を書いて配達人に渡しました。週刊朝日、アサヒグラフ、アサヒスポーツ、アサヒカメラ、婦人朝日などの愛読者も数多くおられ、書籍雑誌と共に店の人が配達していました。、 【注】下写真 泰平橋を降りるとそこは鮫島通りが真っすぐに伸びている。中央の3階建てビルが小久保商行、その一番手前に僕の実家「トミヤ」が見える。

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード ー25-

 私は生後間もなく、多分大正15年頃に両親と共に公主嶺に移住した。そして小学校を卒業するまでの約13年を、公主嶺で過ごしたから、私は正に満洲育ちであり、公主嶺は私の故郷である。(記念誌220頁上段)     公主嶺で三たび移転          丹宗堅一(30回生)    「寒い北風吹いたとて おぢけるやうな子どもぢゃないよ 満洲育ちの私たち・・・・・・」小学生のころ唄った歌が懐かしく思いだされる。  私は三度居住地を変えたように思う。「楠町」には幼稚園のころまでいた。父はそこで精米会社を経営していた。家の前に小公園があり、スベリ台やブランコ、砂場等があった。小公園の前の道を西へ行くと白雲寮があり、家の西側には道を隔てて風呂や、その北隣にキリスト教会があった。夕方5時ころになると風呂屋の汽笛が鳴り、父と出かけた。  「花園町」では父は呉服店を経営していた。店の裏が自宅で、その前の東側が道を隔てて公園だった。公園の入り口に公会堂があり、よく映画が上映されていて、日曜日には兵隊さんが列を作った。  「菊地町」の家は、私が5年生のころに新築されたもので、二階建てで、家の正面には丸に蔦の家紋が入っていた。50年ぶりに訪れた家は、健在であった。 【注】私も公主嶺では、丹宗さんと同じように生まれは「花園町」、小学校の高学年のときは「菊池町」に住んでいた。下の写真は空からの俯瞰図で、公園の東口に公会堂が見える。

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -24-

 昭和5、6年の小学校のころの記憶は断片的で、すぐ消え、また現れる。楠町二丁目は鉄道の北で、公主嶺駅前の通りから二つ目の道路である。(記念誌219頁下段)    楠町のロス建て官舎         小松秀彦(26回生)   南の白雲寮(楠町三丁目)から共同浴場、小公園、郵便局、小学校の裏門、運動場を横にみながら、満鉄の消費組合、鈴木商店、垣見畳店などが連なる。  鉄道北は満鉄社宅、ロス建て官舎の縮図といっても過言ではない。建物は小公園から郵便局までの間に満鉄社宅が2棟、その一つに田中真省先生がおられた。その隣の3棟のロス建ては警察官者で、僕たち一家はここに住んでいた。  ロス建ては1棟2戸建てで、左右に玄関があった。玄関のドアは板製でガラスはなく、厚さ10センチもあり、このドアが二重に備えられていた。部屋の窓も二重で、幅が狭くて室内は薄暗く、周囲の壁は厚さが1メートルもあり、屋根はトタン葺きでロス建て特有のものであった。この建物には耐寒の配慮が充分に施されていた。  この配慮の奥には、大陸性気候に適応して室内は夏は涼しく、冬は暖か、という特性が生かされていた。いま思えば室内の暗さが印象に残っている。 【注】楠町の満鉄社宅

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -23-

 昭和5年、父神田勝亥の退任で、楽しい5年生も一学期で内地に帰ることになった。小山先生は気づかって、白雲寮の自室で、勉強の特訓をして下さった。(記念誌219頁上段)    別れを惜しむ中国人      川北和子(旧姓神田・24回生)  五年で中学を受験する遠竹君、他に大庭さん、明石さん、三枝ちゃん、三村君も集まって、夕食後2時間くらいみっちり勉強した。おかげで東京へ帰っても少しも困らなかった。  淋しい悲しいその夏のお別れは、笛をならし、鉦(かね)や銅鑼(どら)をたたいて惜しんでくれるニイヤンの行列で道路が埋まった。霞町の家から駅まで、試験場の馬車に乗った私たちは、その行列にはさまれて遅々として進まず、有り難いやら恥ずかしいやら、おまけに爆竹までパパンパパンとあがって、悲しさを吹きとばしてくれるようなお別れ風景だったが、プラットホームでお見送り下さる先生、お友達は涙で小さく小さく、だれがだれやら。駅頭のあざやかなカンナ、グラジオラスの花もぼやけていた。  「1919年、世界平和成立の年に生る。和子と名付く。父」と私の大切なサイン帳にただ一つ残してくれた字句がある。私の公主嶺は、その通り平和そのものだった。 ■農事試験場場長=大正8年7月、主事であった神田勝亥が就任。同主事は大正2年の創設間もなくから在職しており、昭和5年6月まで11年間余、場長として農事試験場の基礎を築いた。写真は神田勝亥氏。

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -22-

 昭和5年3月、3年生修了のときに父の転勤で公主嶺を去った。東京府荏原郡世田谷町の小学校は当時の国定教科書の挿絵そのままのコの字型の木造校舎だった。児童の三分の一が着物に袴、鞄を肩に掛けていた。(記念誌218頁下段)     内地で分かったこと         植松 稔(25回生)    始業式の日、隣に並んでいた子から話し掛けられた第一声は「満洲には馬賊がいるんだろう」だった。  4年生から始まった理科で、サクラの構造を調べるときには、級友たちが学校の周囲から花のついた桜の枝を折ってきてくれた。国定教科書は、正に、内地を基準に作られていた。  公主嶺で見た絵本の十字路の挿絵には「信号が赤になると人も、車も、いっせいに止まります。緑になると、いっせいに進みます」と書いてあった。なぜ一斉に止まったり、進んだりするのか、さっぱり分からなかった。  銀座の交差点で縦方向の交通と横方向の交通とが、交互に進んだり止まったりするのを自分の目でみたとき、この仕組みの素晴らしさに感嘆した。この感激を最後の担任の山下昌平先生に報告した。先生は『ふたば』第四号と第五号を送り続けて下さった。 【注】中国語訳文

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -21-

 当時、新進気鋭の満鉄マンの教育への情熱が、新天地で結実したと思われるのが教科書だった。理科の本は口絵に満州特産の蝶類の天然色写真が載っていた。厚さ1センチくらいで、横書きの楽しい本だった。おかげで、その後、昆虫や植物に興味を持つようになった。(記念誌218頁上段)    新しい満洲の教科書        三浦二郎(26回生)    国語の副読本は満洲の民話を主体にしていた。唱歌の本も満洲の風物を歌い、柳のわた、大豆の屯積、高脚踊りなど、いまだに忘れられない。4年生から始まった満語の本は「絵」ばかりで、まず耳から入れる教え方だった。いずれも、ユニークな教科書だった。  かねてより聞いていた内地は余程よいところだろうと、昭和6年9月、期待を胸に転校してきた杉並の小学校で出会った理科の本は、黄色い表紙の、縦書きの薄っぺらな無味乾燥なものだった。そのうえ、木造の校舎は冬になるとストーブがくすぶり、隙間風が寒かった。  担任の先生に「満洲の冬は寒かっただろうナ」と問われて、つい「いや、東京の方が寒いです」と応えて、教室を白けさせてしまった。 ■満洲補充読本   国語読本は日本内地の記述が中心で、満洲の生活実情に適していなかった。そこで、副読本として『満洲補充読本』ができたのは昭和8年4月、まず4学年と5学年用ができた。9年に6学年用、ついで10年には1,2,3学年用ができて全部がそろった。

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -20-

 てんびん棒の前後にマクワ瓜5~60個入った籠をぶらさげて、霞町も道をゆらりゆらり通るのはお百姓のニイヤン。緑に白い縞入りの小型マクワ瓜。(記念誌217頁下段)    行商に来たニイヤン      川北和子(旧姓神田・24回生)     まず見本に端っこをチョイと切って、サッと振ると、なかの種がドロドロッと飛び出し、いい香りがして、買い手の母をうなずかせて売って行く。甘くて、サクッとして、味は抜群!  柳の芽吹くころ緞子(どんす)を一杯つめた柳ごうりを更にドンゴロスの布で堅く包んで、ちよっと身ぎれいな商人がやってくる。部屋一面色とりどりの布が広げられると、絹の香りがして、母の側で華やいだ気分に侵ったものだ。     いつだったか、女優の筑波雪子、五月信子、八雲美恵子が来公、畜産場のサイロを背景に写真を撮ったときのチャイナドレスは、緞子特有の絹の光沢を存分に放った色だった。  後年アメリカ映画「慕情」で、香港女性を演じるジェニファー・ジョーンズが美しいチャイナドレスで登場したときは、公主嶺の光景をダブらせてみとれたものだ。映画の素敵な丘まで、コーセン山のように思えたものだった。  【注】上 懐かしい「タンホーロー売り、大好物だった。 左 <牛舎とサイロ>サイロの形がよくわかる。サイロは『農試20周年」の地図では「秤量所」となっている。1階が秤量所だったのだろうか。牛舎となっているのがわかる。(写真集 満州公主嶺)

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -19-

 私の住んでいた蔡家(さいか)のような中間駅には、年に2度ほど慰安車というものが来ました。大賞末か、昭和でも極初めだったと思います。それは2両ばかりつながった列車のマーケットとでもいうのでしょうか。(記念誌217頁上段)   慰安車の来る中間駅         中里三枝子(24回生)   1両には着るものから食べ物、日用品、玩具まで、何でもありました。日ごろ、新しいお魚などに恵まれなかった生活が、慰安車の来た日にはおさしみなどが食べられました。母も楽しみにしていたらしく、私をつれて、慰安車の停車している引き込み線に行きました。もう一つの車両は畳敷きで、昼間にゲームをする遊び用具などが置いてあり、子供達が遊べるようになっていました。夜になると映画館になって、大人も、子供も、それは楽しい一日を送ることが出来たのです。何日泊まっていたのか覚えがありませんが、二日ほどではないでしょうか。  そのころは、既製服など売るお店がなくて、皆、お母さんやお姉さんのお手製の洋服を着ておりました。今思うと、セーターも洋服もなかなかしゃれたものを着ていたのですが、ほとんどお手製だったと思います。慰安車の売り場には、サージのセーラー服などがあったように覚えております。 【注】下地図は満鉄の公主嶺と四平の中間にあった「蔡家」。

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -18-

 昭和3年3月、19歳で香むら畜産科長のお世話で農事試験場の毛皮鞣製加工試験係の助手として採用された。以後、16年間、専業に終始した。(記念誌216頁下段)    毛皮なめし加工16年        山本俊朗(15回正)    畜産科ではとくに綿羊の改良に力を入れ、蒙古在来種とランブイエ・メリノー種、コリデール種との交配試験をおこなっていた。改良種の毛皮を鞣製(じゅうせい)染色し、毛皮加工機械で被毛を伸ばし、短く剪毛(せんもう)、美しい防寒用毛皮とした。  また英国産カラクール種と在来種の交配では、改良種は得られなかったが、二回雑種に至って、その子羊の毛皮はカラクール系に類似し、一段と価値があがった。カラクール種の生後10日以内に屠殺した子羊の毛皮は、短く黒い炉で、美しい渦巻き状の被毛をもち、襟巻き、帽子、コートとして最高級品だった。  仕事のかたわら、各地関係機関から送られてくるトラ、クマ、オオカミ、シカ、キツネ、タヌキ。イタチ、リスなど、あらゆる野生動物の毛皮の鞣製加工を引きうけ、生息地の分布や品質を調べることができた。毛皮は被毛の充実さ、色彩の優美さで海外で珍重され、大部分は米国へ輸出された。 【注】中国語訳文

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -17-

 昭和5年2月公主嶺仮種羊場から農事試験場に転じ、丸4年間畜産科にいましたが、小松八郎科長はじめ北海道、東北の人達が多く、おおらかな牧場生活でした。(記念誌216頁上段)    農試畜産科の昼休み         梅森清太郎(11回生)  昼休みは家畜が放牧から帰って来る3時まででしたので、白楊の林に囲まれたテニスコートでほとんど全員でテニスを競ったものです。終わると冷たい牛乳で渇をいやしたことも楽しかった思い出です。冬は皆でピンポンを盛んにやったものでした。  のんびりした動物達の鳴き交う畜産を取りまいて緑濃い原野が遠く広がり、彼方には銀色の風車が風を誘うといった一幅の絵を見るような牧場のたたずまいは、いまでも忘れられません。  この畜産科で羊や牛、馬、豚、にわとりなどの改良種が作られ、それを内蒙古の各地や鉄道沿線の種畜場でふやして、満人や蒙古人達の在来種の群れに送り込み、改良種の増殖がなされたものでした。  いまも改良種の二世、三世は満蒙の地に殖え続けていることでしょう。広漠たる彼の地の牧草を追って行く家畜たちの群れを想像すると、いまも深い感懐を覚えます。 【注】 西島武郎画     公主嶺農事試験場の畜産風景→ 

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -16-

 昭和5年、夏休みのある日、一級下の塩原幸男君と魚釣りに行くことになった。途中、芳原勇君のところで生餌をもらい、現地の様子も色々教えてもらう。二人とも太公望気取りであった。(記念誌215頁下段)     水源地に狼の出た話         小倉利三(22回生)   場所は水源地から三百メートルほどのところ。日の入りごろから食いつきが良いとのことで、午後4時ごろから始めた。  三匹だ、5匹だ、と夢中になって釣っていたら日はトップリ暮れ、ウキが見えない。早く帰らないと叱られるぞ、と竿を納め立ち上がったら、真っ暗な中に蛍のようなものが二つずつ遠く近くに見える。犬だ、と塩原君が懐中電灯を向ける。シェパードだ! バカ! 狼だ! 十数頭だ、マッチだ、マッチだ、と慌てるが、手も足も震えてなかなかつかない。漸く火のつくようになったマッチを2,3本ずつ、すっては投げ、すっては投げ、逃げた。  騒ぎで近くの農家から中国人が出てきて、石油をつけた火の枝を投げつけて追っぱらってくれた。4、5頭は足元まで追っていた。何もかも投げ捨てて家に帰っても物も云えず、夕食の茶碗も箸もガタガタふるえて食べられなかった。 【注】水源地  公主嶺河下流の水源地にはロシアが構築した堰底があり、夏は水遊び、冬はスケートでにぎわった。フナやコイが多かったという。

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -15-

 鉄道線路の草むらの茂みに、きりぎりすが鳴いていた。果てしなく広がる高粱畑から、さわさわと葉づれの音がしていた。帰りの通学列車に乗り遅れた私は、公主嶺をあとに大車(ターチョ)の轍のある凸凹道を大楡樹に向かって歩いていた。(記念誌215頁上段)     高粱畑に息をひそめ         横山治雄(26回生)   後から「チャ チャ」と御者の声が聞こえてくる。振り向くと幌馬車が一台近づいて来た。見つかると馬賊にさらわれる。  私は高粱畑にとび込んだ。むちの音が近づいて来た。畝の間に伏せていた私の体は、固くなって振えていた。幌の中から男の話し声が聞こえる。蹄と車のきしむ音が段々と小さくなっていた。私は高粱畑を抜け出すとまた走った。ランドセルの本がガタガタと揺れた。行く手の草むらのかげに、遠方信号後のシグナルが見えかくれした。鉄橋を渡ると、線路の右手にに水田の稲穂が波を打っていた。左手には赤煉瓦の満鉄社宅が点在して見えた。私の家はその一角にあった。私の体から力が抜けていった。  当時の鉄道付属地は治外法権であったが、沿線には時折匪賊が出没し守備隊と交戦していた時代である。これは私の腕白時代小二(昭和4年)の夏も終わりに近いある日の思い出である。 【注】「匪賊」とは辞書によると「集団で略奪などを行った盗賊」の意。だが他国に進入しながら君臨する日本に抗うものはすべて「匪賊」と見なして、弾圧し、自国の行為を正当化した。

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -14-

 昭和5年5月、いまは亡き秩父宮が満洲へおいでになった。ところは軍都であった公主嶺、お召し列車から降りられた殿下は、馬で守備隊司令部へ向かわれることになっていた。(記念誌214頁下段)     秩父宮さまの御来公          水野紫露(26回生)   初めての皇族のご来満とあって、道路は一切通行止め、市民の歓迎場所は、数ヵ所に限定され、街はさながら戒厳令下のようなものものしさであった。  母も市民の人達といっしょに、いまや遅しとお待ちしていたところ、当時幼い弟がトイレ行きをせがんでどうにもならない。そこでそこを抜け出し、用をすませて帰る途中、折あしくも行列にぶつかってしまったのである。母は自分の不敬な行動に恐懼しながら最敬礼をしたのである。ところが殿下は、母のあわてふためいた姿をよみとられたと見え、にっこり笑って挙手の礼を返されたということである。このときの感激を母はいつも口ぐせのように繰り返していた。私も凛々しいお袋を拝した。  現在の人間天皇はじめ皇族方の奉迎風景はいともなごやかなものとなり、いまさらにときの移りや、世の変わりに、ひとしおお感慨深いものを覚えるものである。 【注】下 中国語訳文

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -13-

 幼稚園時代から、満州、支那、朝鮮、白系ロシア等各系の人達と仲良く遊んだ。「五族協和」などの言葉は知らなくても、子供たちは無意識にこの言葉を体現していた。何をしゃべっていたか覚えはないが、子供の世界は結構話が通じていたようだ。(記念誌214頁上段)     寺内さんと子供たち        三浦二郎(26回生)   ある日、近所の中国の子供たちと生い茂ったコーリャン畑の奥で、ガサゴソ遊んでいたところ、「そこにいるのは誰だ」と声をかけられ、あわててコーリャンの間から「ミウラです」と答えながら、悪童4,5人と顔を出したら、日本人のオッサンが立っていた。「アー、三浦君か」といって、白いパナマ帽に白っぽい着物の着流しで、ステッキをもった大きい柔和なその人が立ち去った。頭の大きさと同じくらい太い首の後ろ姿が印象的だった。あとで聞いたら、寺内さんという方だった。  終戦時の南方軍総司令官元帥陸軍大将寺内寿一伯爵が少将時代、独立守備隊司令官として公主嶺に在任中の一こまで、父嘉門はその第一大隊長だった。  普段、軍服姿の司令官は、専用の箱型馬車にひとり腰掛け、箱の前後には、御者が御者台に座し、従兵が経ったまま箱につかまって随行していた。 【注】「五族協和」は満州国設立来、あの地で唱えられたスローガン。五族とは「日、満、漢、蒙、鮮」族のこと。ともに融和し、「国づくり」に邁進しようという趣旨だったが、実際はランク付けされていた。勿論トップは日本民族で、最もさげすまれたのは朝鮮民族。「センジン」…

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -12-

 公主嶺は空気も良く、水も清く、健康地であったと思うが、寒冷地の住み方にうとい日本人にとってはいろいろ苦手なことが多かったらしい。そこは、内地よりも一歩先んじているという自負のある満鉄のこと、小学児童に対する健康指導は早くから考えられていた。(記念誌21頁下段)   牛乳と太陽灯と肝油     橋爪千代子(旧姓横尾・24回生)    人工太陽灯、肝油などのほか以前から牛乳の休食があった。ピカピカのブリキバケツに入った牛乳を先生が杓子で一人一人についで下さった。5勺ほどと思うが、それは少し生臭くドロッとしていてまずかった。農事試験場の搾りたての牛乳だと思う。昭和3,4年ごろからは、太陽灯室が出来て、一学級全員が黒メガネをかけ、上半身裸になってその円い部屋に入り、バイタライトランプなる電気を浴びせられた。  また、昼食後、肝油を有無をいわせず呑まされた。皆でゾロゾロと講堂へ行くと、松原先生がカンチョーキをもって待っておられる。大きく口を開けるとピュッと1センチくらいの目盛り分をのどの方へ飛ばす。すると衛生係の女の先生が横からさっとドロップスを口中へ入れて下さる。これが日課だった。 【注】中国語訳文

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -11-

 小学校の運動会は、守備隊から軍楽隊がきて盛り上がってくれるなど、町を挙げての行事だった。観覧席の外側はアンペラで囲まれていた。中国人が大勢、アンペラの隙間から覗いていた。(記念誌213頁上段)    運動会のアンペラ塀         植松 稔(25回生)    当時、伝染病の発生が内地よりも多く、新聞では防疫活動の強化が叫ばれていた。シラミや南京虫をもっている率が、中国人の方が日本人よりも高いことは、統計調査をするまでもなく、経験的によく知られていた。このような虫に刺されると、痒いだけならまだしも、発疹チフスや発疹熱を媒介される危険がある。戦後用いられたDDTやBHCが無かった当時、防疫対策上、中国人を日本人から隔離する必要があった。  中国人群衆をアンペラの囲いの外に追いやっていたのは、だから止むを得ない処置だったが、この趣旨が日中両国の大人たちに周知徹底されて、十分に理解されていたのだろうか。  中国人代表者を特別席に招いて観覧して貰っていたのかも知れないが、アンペラの隙間から覗いていた中国の人々の姿には、子供心にもなんとも割り切れない気持ちがしていた。 【注】中国語訳文

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満洲に栄ゆる 「公主嶺十六景」など 絵はがき ①

<満洲公主嶺 絵はがき いろいろ> 公主嶺の絵はがきは大正時代から主として兵隊の記念土産として数種類があった。昭和10年代には「公主嶺16景」の絵はがきが売り出された。16景の組み合わせは多彩で、現在4種類、3枚ほどが残っている。    このような絵はがきが発行されたのは、公主嶺が軍都であったことが大きく影響している。それと同時に16景となるような風景に恵まれた土地であったことも見逃せない。しかし、それにしても、畜産の風車やロシア墓地などが入っていないのは、なぜであろうか。    この16景とは別に当地の写真館(やなぎ写真館)では、「あじあ号」や畜産風景を絵はがきにして売っていたという。(「写真集 満州公主嶺」から) ▼公主嶺駅の景観 KUNCHULING STATION ▼公主嶺駅停車場 KOUSYUREI STATION ▼整然さを誇る駅前通りの街観 VIEW OF THE FRONT OF THE STATION ▼満鉄本線に唯一ロシア当時そのままに残る駅舎、公主嶺停車場 VIEW OF THE STATION BUILDING ONLY A REMAINED OF RUSSIAN DAYS KONCHULING ▼公主嶺停車場の景観 SIGHT OF KUNCHULING STATION ▼公主嶺市公所の前景 THE TOWN OFFICE KUNCHULING ▼設備の完璧を誇る公主嶺小学校 THE FRONT…

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -10-

 昭和4年の5年担任は満洲教宣地歴専攻の菊田善重先生で、身嗜みの良さと授業がわかりやすく楽しい雰囲気だった。一年足らずで先生は兵役に就かれたが、師弟の絆は音信の交流で益々深まった。(記念誌212頁下段)     菊田先生との出会い         佐藤 衛(23回生)    先生の影響をうけて昭和16年福島県の城下町の棚倉高女地歴の教師となったが、19年には文部省海外派遣教員として新京敷島高女赴任、20年再度召集、同年8月敗戦、21年1月茨城県立水海道高女に赴任した。  そこで生徒の父兄から満洲の小学校長菊田義重先生の消息を聞かれてびっくり。早速調べたところ先生の奥様が本校の卒業生、御長男夫人が本校での教え子、先生の実兄が隣村坂手村村会議長で本校のPTA副会長、御息女が私の担任の生徒であった。  14年後、私は恩師の母校である県立水海道第一高等学校に転勤、居心地がよくて24年間勤務、先生の一族子弟はこの学校の教え子である。  私たちには「菊田学級」がある。公主嶺、奉天春日、ハルビン東郷の教え子の合同の集いが二回持たれた。全国には珍しい各校合同クラス会を自負、次回は私の幹事である。先生のご長寿を祈る心で一杯。 【注】中列右から2人目 佐藤 衛先生 戦後の日本人学校で昭和21年6月撮影。

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -9-

 4年生のとき担任になられた小山司六先生は、満洲教育専門学校卒業したてで、お若くて、神経がピリピリしてて、何でもキチーンとしていないとオカンムリだった。机の中に無造作にハンカチを放り込んでいて叱られた。(記念誌212頁上段)   小山先生の実物教育     川北和子(旧姓神田・24回生)    実際に目でみて、手でさわって覚えることと、公園へ出かけて松の実を観察したり、石ころを拾ってきて花崗岩だ、安山岩だと見分けたり、郊外授業は楽しくて、ピリピリ新先生とすっかり仲良しになった。男の子は呼びすてで、女の子は名前を呼び、チーちゃん、カッちゃん、カズちゃん(野坂さん)と呼んで下さった。横尾チーちゃんは一番のちびっ子で、皆の列をくぐりぬけて先生の腕にぶら下がって歩いた。ヒョロヒョロと背ばかり高かった私は、うらやましくて仕方がなかった。  夏の夜の星座観察の感動は今でも忘れられない。夏休みの終わるころ、校庭に集まって、まず北極星を見つける方法から教わった。高原の空は澄みきって、星は手が届くように近く感じられた。8月の公主嶺は肌寒かった。68歳になった今でも、星を眺めることが、心のお掃除になっている。 【注】下 中国語訳文

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -8-

 夏休みを利用して虚弱児のために熊岳城温泉で合宿が行われていた。4、5校共同の温泉聚樂は、町はずれの林の中にあった。赤い立葵の花、ガマの穂のゆれる小川の岸、暖かな温泉の湧く砂地、バラックの合宿所、おぼろに見えてくる遠き思い出、それはすべて幼き日の美しいメルヘンである。(記念誌211頁)     メルヘンの地熊岳城         野坂和子(24回生)    砂湯の中に埋めこまれた私たちは首だけ出して、砂をかける先生のスコップを眺めていた。「いい気持ちだろう」松原先生の黒い髭が笑った。  花火やお話や楽しい一日が終わって大きい蚊帳の中に子供達の夢路が訪れる。朝の目覚めは味噌汁の匂いと小鳥の声。「また葱!」「Aちゃんコンビーフ開けてる。先生に云ってやるぞ」喧噪(けんそう)と歓声の中に一日が始まる。  望小山の遠足も楽しかった。岩襞(ひだ)に見つけた貝の化石は今も残っているだろうか。母と子の愛の伝説は今も彼の地に語りつがれているだろうか。  はるかに思える時の流れも、瞼に浮ぶ森羅万象、悠久の自然の中にすべてはうたかた、けれども私は幼き日の己の残像に今、中国の子供達の姿を重ね合わせてほほえむ。なつかしい熊岳城の永久の平和を祈りつゝ。 【注】熊岳城(ゆうがくじょう)=中国東北部の南地にある温泉地。公主嶺農事試験場の分場があった。

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公主嶺小同窓会誌 第6章 エピソード -6-

 昭和3年ごろの公主嶺小学校にウラジミール・ジュコフスキーという名の碧い目の上級生がいた。私より4歳上の兄と同級生だったから、21回生ということになる。この方のお父さんは農事試験場に勤めておられ、一家は場内のロス建て社宅に住んでいた。(記念誌210頁下段)    ウラジミルさんの鳩          山下次雄(25回生)    家族は両親の他に、2,3歳違いのアレクセイという兄さんがいた。アレクセイさんは、当時の長春の上級学校に入っていて、週末とか、夏冬の休暇には公主嶺に帰って来たようだ。  文集「ふたば」2号に、6年生のウラジミルさんが書いた「伝書鳩」という一文が載っている。それを読んで、ウラジミルさんの家に大きな伝書鳩の鳩舎があって、伝書鳩が数十羽いたのを思い出した。  ある日、その一番(ひとつがい)をもらい、我が家に持ち帰って急拵えの鳩小屋で飼ったことがあった。数日たって空に放したところ、上空を1,2回旋回したあと、ためらうことなくウラジミルさんの家のある北東の方向に飛び去ってしまった。伝書鳩の帰巣本能を知らなかった兄と私の失敗だった。間もなく、ウラジミルさん一家は公主嶺を去り、その消息は絶えた。 【注】公主嶺には「鳩部隊」というのがあった。

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