「あのころ」 伊藤 聖さん語る 満洲・公主嶺⑩

 このたびの訪中(1983年)では、できたらロシア人墓地にも行ってみたいという希望がかなえられた。ハルビンの中央寺院や墓地もそうだったが、公主嶺のロシア人墓地は、文化大革命のときに破壊しつくされ、その跡には農業科学院の生物物理研究室の建物が建っていた。ただ、その敷地の塀は昔のロシヤ人墓地の塀があったところに再建されたものと思われ、その塀を回ったところに、射撃場の射梁がそのままの形で残っていた。  「武士道」という変わった名前の小暗い道を行くと、その先に旧独立守備隊の官舎があり、いくつかの連隊があった。私たちのころには敷島台の連隊のほうが規模は大きかったが、それは昭和9(1934)年以降のことで、それまでは公主嶺には独立守備隊1個大隊と駐剳師団の騎兵2個中隊が置かれていただけだった。だからこのあたりは軍都公主嶺の発祥の地であった。  その連隊の先は明るい草原になっていて、そこに射撃場があった。昭和2年4月現在の公主嶺付属地平面図には「射的場要地」と書いてあり、600mの距離がとってある。600mといえば、鮫島通りの端から端まであるが、父によるとそれが正規の射撃場の広さだったとのこと。ただし、一般の射撃訓練は300mで行われたという。  子供のころの私たちは、よくそこえ弾拾いに行った。小山になった射垜の斜面からは臼のような形をした空砲の弾が出たが、ときには先のとがった小銃の実弾が見つかることもあった。先が丸くなったピストルの弾や薬莢はめったになく、子ども達にとっては宝物だった。…

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「あのころ」 伊藤 聖さん語る 満州・公主嶺⑨

 夜汽車というと、なによりもまず、鐘のひびきを思いうかべるのは、大陸育ちの共通の体験だろう。渺茫とした広野の果てに、遠く尾をひいて夜汽車の鐘が消えていくと、わけもなく、郷愁に誘われたものだった。       夜 汽 車 の 鐘 かねを鳴らして夜汽車が通る からんからんと、鳴らして通る かねはかれ山、かれ野にひびく 空の遠くの 月にもひびく 鳴って、鳴らして ずんずん通る       (満洲唱歌5年 「夜汽車」)  私たちが子どものころに聞いた汽車の鐘は、実はアメリカ大陸の横断鉄道からもたらされた。  日露戦争の後、満鉄が狭軌のゲージを再び広軌の1435mmに直したとき、アメリカやイギリス、ドイツから多くの機関車を輸入した。大正6(1917)年末に満鉄が所有していた機関車は270輌で、アメリカ210、イギリス47、ドイツ4、ほかに沙河口工場製9となっている。(「南満洲鉄道十年史」P228~P230)  これでもわかるように、あの土地のきびしい冬の気候に最も適していたのが、米大陸の機関車であった。お手本としたのも、アメリカ・ロコモティブ社の1D1テンダ(炭水車が一体となった機関車)であり、これがのちの「ミカイ」になった。鐘も、ヘッドライトも、何にもかもそっくり真似て、つけられたものであろう。  誠文堂新光社の「おもいでの南満洲鉄道」(1970年刊)には、たくさんの「ミカイ」「ミカロ」型機関車がのっている。これでみると、鐘がついていている位置もさまざまなのがわかる。…

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「あのころ」 伊藤 聖さん語る 満洲・公主嶺⑧

 山本勝郎さんの「中国再訪」の8ミリでは、公主嶺駅にさしかかった列車が、昔のままの古びた泰平橋をくぐるところが映っていて、なつかしかった。ただ、泰平橋から駅前の広場に降りるなだらかなスロープは、すっかり生長した木のかげになっています、よく気をつけてみないと分からないくらいだった。「変わらないでいて、やはり30年の歳月は、それなりのことがあるのだな」というのが、そのときの感じだった。  あのころ、このスロープのたもとには、いつも物売りのニイヤがたたずんでいた。季節によって、売るものもさまざまだったが、着ぶくれた防寒服の面袖に手をつつこんで、客を待っていた「タンホーロー」売りは、最も印象深い。赤いサンザシやナツメ実を五つ六つ串にして、それに飴をかけ、高粱のつとに差して売っていた。ガラス細工のように赤い飴がきらきらと光って、ひどく魅力的にみえた。だが、衛生的でないという理由で、一度も買ってもらえず、心残りだった。サンザシの甘ずっぱい味を想像しながら、いつも横目でにらんで通りすぎたものである。このタンホーロー売りは、10月ごろから春の蒙古風が吹きはじめるころまで、どんな寒い日でも、同じ場所を動かなった。  公主嶺の日本人町は鉄道を隔てて、北側の官公署とその官者、南側の商店街とに別れていた。したがって、南の人たちにとって、この橋は何よりもまず通学、通勤の路でもあった。しかし、北側の私たちにとっては、橋は何か楽しみな世界への通路であった。  徳永先生も「回想の満洲公主嶺」で「毎月1回の給料日…

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「あのころ」 伊藤聖さん語る 満洲・公主嶺⑦

 「こみーどーりーのー」と歌いだすと、まぶたにあの木々の緑のあふれた公主嶺の街がひろがってくる。農事試験場のポプラ並木、畜産のニレ、北一条通りのアカシア、ロシア人墓地のヤナギ、まこと公主嶺は「濃緑の」街であった。毎朝、新校舎の講堂で、意味もよくわからずに声を張りあげたおかげで、メロディーはいまになお鮮明である。私はその美しい曲の校歌が大好きであった。 、     「あのころ」  校  歌   伊藤 聖  いつか荒川明夫君(40回生)と雑談していたとき「公主嶺の校歌は、いわゆる校歌らしくない歌でしたね」と指摘されたことがある。荒川君は専門家だから、「濃緑の」が校歌らしくないメロディーをもっていることには早くから気がついていたのだろう。  公主嶺小学校校歌の作曲者、園山民平氏(1887ー1955)は「満州楽壇の父」といわれた人であった。島根県の出身で、明治44(1911)年東京音楽学校を卒業、音楽教育に新理論をうちたて、大正11(1922)年渡満。大連音楽学校で教鞭をとるかたわら、作曲活動を続け、童謡、歌曲などに数千曲を残された。それらはいずれも「満州色」豊なもので、私たちが習った「満州小学唱歌」もそのほとんどが園山民平作曲だった。  南満州教科書編輯部で一緒に仕事をした石森延男氏は「園山民平さん もしあなたがあのころいなかったら、満州の草も木もロバも娘々祭もコウリャンも豚もーーこれほどあざやかにわたしたちの心に残ってはいないだろう」(讃光社刊「園山民平作曲集」)と書いておられる…

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座談会 回想の『満洲公主嶺』3部作 ③

 -『ビデオ』は石倉さんが1993年に訪中したとき、『公主嶺小学校の思い出』としてVHS(1時間2分)にまとめたものが、元になっている。同窓会で希望者に複製して頒布すると発表したところ、22人を超える申込者があった。      100年の変貌を語る『ビデオ』   石倉 1996年の第4次訪中にも参加して、鮫島通り、農事試験場、陸軍病院などを撮ったが、あくまでも旅行の記録としてのものだったから、市街地はついでだった。  -しかし、それがきっかけとなって、第5次訪中団のビデオ撮影に発展したわけだから、、石倉ビデオの果した役割は大きかった。   土屋 高齢で公主嶺にいけないから「せめてビデオで現在の公主嶺の姿をみたい」という声が多数寄せられた。そこで小学校を中心とした訪中記録としてのビデオではなく、もっと範囲を広げ、現在の公主嶺の町全体が分かるように編集して、記念誌、写真集に続く3部作のビデオを制作することになった。    -私は体調を崩して参加できなかったが、1998年5月の第5次訪中団に静岡の杉山兼弘さんが参加して、主として鉄道南の商店街の撮影を担当してくれた。鉄道北の方は天笠文弥委員(29回生)と土屋洸子委員(37回生)が分担した。杉山さんは、静岡の訪中団が長春に行ったとき、『記念誌』を中国語に翻訳した夏雲さんと知り合い、その縁で公主嶺にもつながりができたと聞いている。  土屋 その年の9月に「公主嶺第一中学建校50周年祝典」が行われ、このときにビデオ撮影をし…

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座談会 回想の『満洲公主嶺』3部作 ②

 ー初めは『写真集』を作る予定はなかったのだが、『記念誌』の記述を裏付ける意味でも、写真を集め始めたところ、いい写真が多くて、途中で並行して『写真集』の構想が生まれた。(公主嶺小学校同窓会・会報「満洲 公主嶺」合本NO.52)       歴史と詩情あふれる『写真集』    今井 公主嶺は守備隊や騎兵連隊があったおかげで、軍隊に出入りする写真屋が多かった。スタジオをもっていたところは、父高柳之助の「やなぎ写真館」のほか、「さくら写真館」「坂田写真館」が大きく、そのほか数軒の写真館があった。  -兵隊が満期で除隊するとき、土産に買うはがきの中に「公主嶺16景」があった。ほとんどが『写真集』に入っている。それほど自然に恵まれた風景画が多かった。  今井 「16景」に入っていないが、乳が撮った「公主嶺駅を通過するあじあ号」は、店でも絵はがきにして売っていた。  ー明治・大正時代の古い写真を探しに「満鉄会」まで行って、今井委員に複写してもらったことがあった。駅舎やロシア時代の小学校、農事試験場の並木など、変遷がよく分かる構成にしたので公表だった。   植松 列車が通過する「遼河鉄橋」や「橋頭堡」を摂った根元信はどういう人ですか。  今井 父の助手をしていた住み込みの青年で、写真のセンスがよく、父から手ほどきを受けていた。レイテ島で戦死したが、鉾田の実家に写真が湿気でくっついていて、はがすのに大変だったが、何枚か教えて「風車近景などが『写真集』に入っている。  植松 「ロシ…

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座談会 回想の『満洲公主嶺』3部作 ①

 『満洲公主嶺』の3部作(記念誌、写真集、ビデオ」。その作成に携わった編集委員が、主宰の伊藤 聖さんの司会で完成後(2007年2月2日、於上野ターミナルホテル)、作成に当たっての苦心話を「座談会」で返り見ています。以下はその興味深い裏話しです。、        校史 町史を統合した『記念誌』  ー「記念誌」作成が提案されたのは昭和61(1986)年の第5回同窓会の席上で、このときは山口寅蔵・倉垣利男先生が熱心にその意義を力説された。   植松 来年は公主嶺小学校創立80周年にあたるから、その記念として学校の思い出に残るような本を作ろうということになったわけだが、ほとんどの人は記念文集のようなものを考えていたと思う。  -編集委員を各期から出してもらったところ、人選がスムーズに行われたので、これはうまくいくかも知れないと思った。しかし1年後に本の形にするには時間が足りず、正直なところ気が重かった。   植松 準備や調査にまだまだ時間がかかると思っていたら、スタートして2週間前後には最初の編集委員会が招集されたのは驚いた。伊藤さんの頭のなかには、すでに構想が出来ていたのですか。  -構想など全くなかった。2週間の間に年表だけでもまとめておこうと思っていたが、空白の部分が随分多かった。でも5年ごとに区切って記述するという方針が決まってから方向性がみえてきた。    植松 小学校のことだけに限定せず、対象を待ち全体に広げたことも、とてもよかった。  -第1回の委員会のとき…

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「あのころ」 伊藤聖さん語る 満洲・公主嶺⑥

 前に農事試験場のことを書いたところ、32回生の愛川(旧姓宮崎)和子さんから「私の家は畜産の前でした。羊の群れが官舎の側の原に出てき来て草を食べてくれましたので、芝生のようでした。その上大きな楡の木陰は絶好の遊び場でした」という便りをいただいた。   【あのころ】  畜  産   伊藤 聖    そういわれると、農事試験場のことを書いて「畜産」にふれなかったのは、心残りのような気もするので、もういちど書いておこう。       *         *  当初の農事試験場には種芸科、農芸化学科、畜産科と3っの科があった。この畜産科の牧草地、つまり畜産試験場のことを、略して「畜産」といった。  もともと公主嶺に農事試験場がおかれたのは、「そこに付属地が広く空いていたためであって、満洲の中心であるという遠大な考えから来たものではなかった」らしい(香村岱二氏の手記による)。事実、公主嶺の鉄道付属地は、鉱区のあった撫順、鞍山は別として、奉天、大連についで大きく8.78平方キロ、そのうち農事試験場の広さは3.06平方キロで大部分を畜産が占めていた。(数字はいずれも1936年当時のもの。「満洲開発40年始」より引用)  この広い畜産は、愛川さんも書いているように、陸軍官舎の北西部一帯に広がっていた。というよりも、官舎が畜産の一部に入り込んでいた、と云うほうが適切かもしれない。もっとも、官舎のすぐ近くには遊園地があったので、私たちがわざわざ畜産のなかに入るのは、ほかに特別な目的があるとき…

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記念誌・「満洲 公主嶺」エピソード 完結

 記念誌「満洲 公主嶺・過ぎし40年の記録」。全500ページを超える大冊のなかに散りばめられているエピソードの数々をブログに転載する作業がようやく終了した。カウントしたら総数292件の挿話。その一つ一つがページの中で、折々の時代の背景とリンク、読ませてくれる。  先ずは同誌の「あとがき」をみてみよう。   (前略)毎月1回の編集会議を開いていくうちに、小学校のことだけではなく、自分たちの父祖が生きてきた公主嶺の町そのものの歴史を、できるだけ忠実に再構成してみようということだった。正史とエピソード(外史)とで、、公主嶺の町を立体的に浮かび上がらせようと試みた結実が、この本である。 <資料>章別のエピソード件数 ①公主嶺という町 14 ②明治期(ー明治45年) 12 ③大正初期(大正元年ー5年) 10 ④大正中期(大正6年ー10年) 16 ⑤大正末期(大正11年ー15年9 14 ⑥昭和初期(昭和元年ー5年) 26 ⑦満洲事変以後(昭和6年ー10年) 50 ⑧支那事変・ノモンハン事件(昭和11年ー15年) 70 ⑨太平洋戦争(昭和16年ー20年) 38 ⑩敗戦・引き揚げ(昭和20年ー) 42       計292

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -終ー

 14大正10年度の全満児童スケート大会は私には忘れられない大会であった。その千五百メートルの勝負は最初から終わりまでデッドヒートで、私と一緒に出た安東の宍戸君も遼陽の多田君も、生きていれば共に忘れられない思い出だったと思う。(4頁下段)    全満スケートに競う         伴野満寿美(13回生)    10周競争だった。  号砲一発、僕はスタートで飛び出すとインコースをとって、トップでコースを回った。一周したときすでに後ろにいるのが宍戸君と多田君、その他はずっと離れていた。5周くらいしたとき宍戸君が抜きかけた。ボクがコーナーで押さえた。次いで多田君が右に出始めた。これもコーナーで押さえた。こうして9周を回り、互いに先に出ようとするが、ボクが押さえる。  遂に最後の第4コーナーを回った。あと30メートル、3人が一緒に決勝点に雪崩れ込んだ。このときは、多田君が勝ったのか、宍戸君が勝ったのか知らなかったが、今年になって伊藤聖さんから「記録表」をみせられて、改めて宍戸君の優勝を知った。  この記録表は思いがけなかった。当時の状況が目にみえるように思い出されて、本当に嬉しかった。 【注】中国語訳文

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -15-

 公主嶺小学校は運動が盛んで、秋の運動会も大変盛大だったが、冬の体操は道一つ隔てた校庭にリンクを作って凍るらせ、スケート一本やりだった。(記念誌144頁上段)    冬はスケートに熱中          近江一郎(16回生)  小学生のことで、教室にはスケートのまま入り、10分間の休憩時間になれば、廊下をガタガタ走ってスケート場へ行った。また私はスケート選手に選ばれて、夜行列車で奉天に行き、全満小学校のスケート大会に出場したことも懐かしい思い出である。  6年卒業当時の担任は土屋国蔵先生で、先生は鹿児島の小学校から赴任して来られた。時々九州弁で話されるので、よくみんなで冷やかしてはしかられた。中学校受験の際には、夜、先生のお宅にお邪魔して特別講習をうけ、おかげで無事合格した。またそのとき奥様にも大変お世話になったことも思い出の一つである。  私の家は父が満鉄の農事試験場に勤務していた関係で霞町の満鉄社宅に住んだが、5年生ごろに2階建ての軍艦長屋に移った。霞町時代は学校が遠かったので、鼻水を凍らせて通学した。また風呂屋が遠かったので、タオルの氷板を作って帰宅したのも寒い思い出である。 【注】旧校舎のスケートリンクは下地図の丁度真ん中あたりに見当たる。

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -14-

 大正9年5月、4年生のとき神戸から公主嶺小学校に転校した。鮫島通りのほぼ中央、浅野醸造に向かいあった雑貨および食料雑貨商の丸福洋行内に居住し、養父は店主として経営一切を任されていた。丸福洋行の主人は丸福旅館の主人と兄弟だったが、このときには二人とも他界していた。(記念し143頁下段)     運動会はいつも苦手          山本俊朗(15回生)  学校は旧ロシア教会堂を多少改修した校舎で、各学年とも男女一組で、全生徒数は二百数十人であった。4年生から6年を卒後年は業するまで男子13人、女子10人ほどのクラスで、担任は土屋国蔵先生。体操の時間はよく走りっこやリレーをやらされ、いつもしんがりをつとめるので、運動会はいやだった。  後年、「鉄開四公」陸上競技大会で公主嶺代表として六度参加し、8百メートルで二連勝したことが不思議である。また9年の公主嶺の町内競技会では千五百メートルに4分22秒5で優勝し、大連を除く全満での新記録を更新したときは、自分ながら信じられず、生涯の思い出となった。  町も学校も野球が盛んで、尋常科は軟球、高等科は硬球で、チームワークがよく、強豪長春小学校を迎えて勝ったときは、町中喜びにわいた。 【注】写真は丸福旅館 「鉄開四公」とは、鉄嶺、開源、四平、公主嶺の略。  

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -13-

  私が小学校3年生の大正8年ごろ、農事試験場に北海道の大学を出た小松八郎さん、突永一枝さんら6名(?)の方がっ着任された。私たちチビ共は、よく農事試験場に遊びに行って、この方たちからテニスを習った。(記念誌143頁上段)    霞町の遊び仲間たち          伊藤満男(15回生)    私が住んでいたのは霞町で、長屋が4棟あって、ここの子どもたちはなかなかの強者だった。一番年長が酒井広治さん(11回生)、のち長春商業に行って野球選手、次が高瀬栄吉さん(12回生)、この人も長春商業で野球の選手、私の兄の次郎が奉天中学で陸上、テニスの選手、次の伊藤増栄さん(13回生)はピッチャーで、奉天の小学校野球大会で健闘した。近江一郎君も近所だった。  私は奉天中学から満鉄鉄道教習所運輸科を卒業、昭和3年公主嶺駅に配属になり、次に長春列車区勤務のあと、再び昭和8年公主嶺駅勤務となり、白雲寮に入った。そのころ、白雲寮には教育専門学校を出られた田中真省さん、小山司六さんがおられ、起居を共にして親しくしていただいた。田中さんはスポーツは万能選手で、円盤投げに強く、鉄開四公の大会では大活躍をされた。テニスもうまかった。 ■大正期の農事試験場

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -12-

 二年生のとき、唱歌を教えて頂いた斉藤秋子先生とのお別れ式のことは今も目に残っている。講堂の白い壁を背に壇上に立たれたお美しい先生の袴姿。先生のお好きな「故郷を離るる歌」を全校生徒が歌った。(記念誌142頁下段)    「故郷を離るる歌」       島 綾野(旧姓井田・17回生)  歌い出しの「園の小百合、撫子・・・・・・」の「サーユーウリ」のウリは瓜のことかと思っていたくらいの幼さであったが、先生から教えて頂いたこの歌を歌いながら、お別れの悲しさが身にしみた。以来この唱歌は私の愛誦歌となった。  先生にはまた新しい童謡「風」も教えて頂いた。あとで知ったことだが、この歌は大正10年、童話童謡雑誌「赤い鳥」に発表されたもの、西条八十訳、草川信作曲で、文部省の検定認可となっている。「誰が風を見たでしょう? 僕もあなたも見やしない。けれど木の葉をふるわせて、風は通りぬけてゆく」という歌詞がいかにも新しい感じがした。今も折々に歌っているが、同年輩の人に聞いても死っている人は案外少ない。  先生はご結婚後、撫順に住まれたが、戦前に亡くなられた。先年、弟さんが埼玉県におられることを知り、お電話させていただきたいたことがある。

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -11-

 私が6年になった大正9年春のこと、斎藤繁樹君の長姉で小学校の先生だった秋子(ときこ)さんが突然に来て「今日、奉天のイギリス人宣教師あ来るんだけど、日曜学校は幼稚園児と低学年の生徒ばかりだから出席して頂戴」という。不承不承、幼稚園に行って後ろの方で席に着いた。(記念誌142頁上段)    英宣教師クリスティ          伴野満美(13回生)   斉藤先生に紹介された宣教師は「皆さんは満洲に住み、満鉄の小学校に通っておられますが、支那語で、お早ようございますは何といいますか」と質問をした。だれも答えられない。僕も困ったなァと思った。ニーヤ、ライライ、ポコペン、クイクイ、ブヨ、テンホウ。ショマショマくらいしか知らない。  そうしていると「その後ろのお兄サン、お早うございますは何といいますか」と指名されてしまった。小さな声で「わかりません」。  その後、どんな話があったか全く覚えていない。秋子先生の面目をつぶしたこと、そして満鉄の植民地教育はダメだと思われたのではないかと、これは長い間私の心を苦しめてきた。この宣教師は、満洲建国後「奉天三十年」という本を出した有名なクリスティだったのである。 【注】中国語訳文

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -10-

 第一次大戦中、オーストリア帝国の支配下にあって、ロシア戦線深く戦っていた6万のチエコ軍団がボルシェビ革命軍と衝突、危機に瀕した。それを救援するため、日本も要請を受けて、米英佛伊加などの連合軍と一緒に出兵することになった。   時ならぬ写真ブーム       伴野満寿美(13回生)    チェコスロバキア軍は大正8年4月にはイルクーツクまで下がり、大正9年2月にはシベリアを脱出することが出来て、ハルビンを経由、長春から公主嶺を経て、大連へ南下して行った。  このチエコ軍の貨物列車が公主嶺に到着すると」、時ならぬ交換風景が見られた。その貨車には、北欧美人の奥サン、娘さん、可愛い子供達がたくさん乗っていた。これはチェコの人ばかりでなく、ロシアの亡命者、避難民もまじっていたのでしょう。  このころ、町ではコダックの写真機が流行していた。初めて見る西洋人の物珍しさから、公主嶺の若いインテリは、こぞってこれら北欧の人をカメラにおさめた。学校の先生方も飛んできて写していた。  東京オリンピックのとき、チェコの役員でこの日本の救援を感謝していた人があったので、ああ覚えている人もあるんだなァと昔を思い出した。 【注】シベリア出兵の関連図、記載がないが、公主嶺は長春の南70キロ地点。

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード ー9-

 僕が物心がつき、幼稚園に2年間通った大正7,8年ごろの住まいは「新宿舎」と呼ばれる当時としては一番近代的な建物であった。時代が変わって古くなったためか、会報では「軍艦長屋」となっている。(記念誌141頁上段)    ロス建てのあれこれ          湯本常雄(18回生)    六三社宅ともいって、6畳、3畳、炊事場、便所、裏に一畳くらいの倉庫があった。  その後、二度ロス建てに移った。ロス建てといえば、煉瓦造りで煙突がついておとぎ話に出てくるように思えるが、、ペーチカは一つで、どの部屋でも暖房がきくように設計されていた。ロシアの遺物としては申し分はなかったが、日本人が住むようになって改装されて畳が入っている。周囲に出来た余分のところは板張りになっていた。床の間、押し入れはないが、大きな木の箱が押し入れの代用として、一戸に一つ置かれていた。  かまどはロシア式で石炭使用、鍋釜を置くところの隣に煙突を利用したパン焼き用のオーブンがついていた。電気、水道はすでに入っており、どの家にも炊事場に水を溜めるための大きな水がめがあった。玄関を入ったところに木のふたがあって、開けて階段を下りると一坪くらいの地下室があった。 【注】木下町の軍艦長屋

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -8-

 木下町の満鉄社宅の道路の両側はたしか柳並木であったが、即溝はなく、ただ溝のように土を掘ってあって草ぼうぼうであった。(記念誌140頁下段)    まくわ瓜と粟ぬくい         神田誠之(14回生)  われわれ悪童連、関原庄太郎、国米正秀君ら3,4人が満を持している。やがて天秤棒にまくわ瓜を盛ったニーヤが現れる。2,3人が前の籠のほうで何だかんだと冷やかしながら交渉を始める。その間に一人が何食わぬ顔で後の籠のほうに回り、まくわの一つ二つを草ぼうぼうの溝に投げ込む。  ニーヤが交渉不成立で立ち去ってから、その戦果に喚声。正に「非行少年」の原型であった。  そのニーヤが冬になると粟の行商になる。綿入れ布団のような外套を着て、大きな竹籠に黒光りの甘栗を山盛りにし、それを厚い布に包んで「泡ぬくい!」「粟ぬくい!」と寒い夜空に長く余韻を引いて売り歩く。  父は毎年、札幌の祖父母にこの粟と公主嶺自慢のかきもちを歳暮として送っていた。札幌からは決まって鮭とするめのお返しが送られてきた。鮭は学校のお弁当に毎日々々お供してきた。隣の佐藤久夫君のお弁当は卵焼きやかまぼこやらで羨ましかった。 【注】木下町の満鉄社宅  

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -7-

 公主嶺幼稚園(当時はまだ幼児運動場といった)の主任さんは田中菊江という方で、長崎県の活水あ(いけみず)保育専門学校のご出身。熱心なクリスチャンだった。(記念誌140頁上段)   生田先生と田中先生      小川スエ(旧姓小館・幼稚園)  出勤前は必ず正座して聖書をひもとき、お祈りをされた。「全人教育」を打ち出してゆるぎなく、私が幼児教育に一生を捧げた基礎はここで作られた。  集団遊びの指導がお上手で、5人くらいずつ肩に手をかけてピアノに合わせ、軽くスキップで自由な芳香に移動する。お話も歌も遊戯もすばらしかった。私も懸命に見習おうと努力した。  小学校の校長先生は生田美記という方だった。勉強家で、満鉄から米国留学を命ぜられておられるとのことだった。米国にいた私の兄から雑誌や本が送られてくると『見せろ見せろ』と読み出された。  公主嶺での宿舎はロシア建てで、恐ろしく広い家だった。老夫婦が留守番で居た間は良かったが、引き揚げてしまったので淋しさを通り越して不安に襲われ、一人居は不可能であった。裏はロシア墓地だと聞いてからは、たまりかねて、向かいの校長先生宅に寝間着を持って泊めてくださいと言った。毎夜、快く泊めてくださったものと感謝している。 ■幼稚園 公主嶺の幼稚園は明治42年4月、幼児運動場として開園。大正3年11月幼児が多くなったため、駅前の堀町に移転、大正11年4月に「幼稚園」と改称された。

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -6-

 大正7年秋、同級生の橘美佐雄君と下校のとき、泰平橋を渡りながら橘君が「お前も見たんだってなあ」「エッ、何?」「あれさ、支那人の幽霊のことだよ。だれにも話さんから教えろよ」。(記念誌139頁下段)    お前も幽霊を見たか         田中清蔵(13回生)    二学期早々、ちょっと熱が高くて数日間学校を休んだことがあった。朝起きて裏庭の共同便所へ行った私はそこでそれに出会ったのだった。その便所は、隣の栄商店、洋服仕立屋、田毎そば屋で使っていて、裏庭から九尺ほどの通路があり、佛心寺のほうからも来られるようになっていた。決して明るくはなく、むしろ薄暗い感じだった、  私は気持ちよく放尿を始めた。ところがである。便所の廊下の奥の上のほうに、何か黒っぽい灰色の煙のようなものが動いていて、それが段々に天井からぶらぶら下がった人間の半身になった。おまけに別の3,4人が現れて、その男を殴ったり、水をかけたりしている。私は小便もそこそこに戻り、父に男を助けに行ってくれるよう頼んだ。  もちろん何もなく、「熱のせいだ」ということになったが、橘君は「やはりそうか」と、橘医院が以前そこにあったころ幽霊が出た話をしてくれた。 【注】■橘医院 鮫島通り敷島町の角に橘医院が開業したのが大正4年6月、この写真はそれ以前の朝日町時代。石油ランプの門灯がついている。前列右に座っているのが橘十一郎。(写真集 満洲公主嶺94頁)

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -5-

 大正7年4月、青森県から公主嶺小学校の3年生に転校した。担任の先生の諏訪免先生、鹿児島の方で、お宅に伺ったとき奥様とのお話がちっとも分らなかった。(記念誌139頁上段)   美人がロシア墓地に      寺だ敏子(旧姓三浦・14回生)   社宅は木下町の古いロシア建ての家で、部屋の真ん中に黒いペチカがあり、天井一杯に素敵な飾り模様がついていた。仏心寺はまだなく、武士道までの右側にわが家があり、向かいは同級生の神田誠之さん宅だった。わが家と神田さん宅は一戸建てだったが、近所の他の家はみな二軒に分けられていた。  家の裏には農試の広い苗圃があり、ずっと先に無線局があり、その高い柱に雨の日はよく落雷の火柱が立った。そのはるか彼方にはロシア墓地がつづいていた。ロシア墓地といえば、こんな話もあった。  神田さん宅の裏は空き地になっていて、そこに共同水道の建物があった。社宅に父の出張中、留守番がてら泊まっていただいた。農試の若い人が、ある夜その前を通ったら夜目にもはっきりした美人が立っていて、そばに寄ったところ前へ進み、いくら追いかけても追いつかず、気がついたらロシア墓地だったという。そんな話がよくあった淋しい街だった。 【注】ロシア墓地の塀 ロシア墓地の付近は守備隊の演習地になっていた。子どもたちは射撃地の球拾いにあきると、このロシア墓地の塀を乗り越えて中に入り、かくれんぼをして遊んだ。左端に墓碑がひとつ見える。  

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -4-

 公主嶺駅前の小学校に着いたのは大正7年春4月、私は18歳で、旅順の女学校を出たばかりの西も東もわきまえぬ小娘だった。商店街もなく、社宅の並ぶ街は静かで、若い女性はほとんど見受けない。(記念誌138頁下段)    幼児運動場の日々に      小川スエ(旧姓小館・幼稚園)  ここでやって行けるのだろうかと心配になったが、職員室のなごやかな雰囲気は、社会に初めて出た私の胸をほっとさせてくれた。  生田校長の案内を受けて隣の園舎に行き、主任の田中先生と30人ほどの幼児たちに会う。大部屋を二分して事務室兼保育道具室と集会室とがある。フレーベル恩物(おんぶつ)が戸棚にぎっしり。クレヨンや鋏、色紙などが用意されている。庭は広く、平均台やブランコ、スベリ台などが配置され、まさしく幼児運動場という名の通りである。(また、幼稚園という名にはなっていなかった)。当時の保育料は1ヵ月16銭で、ちなみに私の給料は25円だった。  毎日、なわとび、輪投げ、かくれんぼ、ケンケンとび、ドッジボールと、幼児達と一緒の遊びに熱中した。ドッジボールで、球にあたるまいと逃げ回るスリルは、我を忘れて幼児になりきり、実にさわやかな面白さだった。 【注】下写真 大正末期の幼稚園(左)、右は消防署

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -3-

 父が満鉄に勤めていて、私が尋常2年生のときに転勤になったため、安奉線の草河口尋常高等小学校から公主嶺小学校に転入した。勿論、当時は駅前の煉瓦造りの校舎であった。住んでいた社宅が堀町にあったので、学校の裏門から近かった。   「駆逐水雷」駆け回る          岡積 満(14回生)  クラスは男女一緒で、全校では2、3百人くらいであったと思う。冬に裏の運動場にまいた水のこおった氷上でのスケート、男子生徒だけの遊びで、兵隊の位(大将、中将・・・)、工兵、間者などと書いた札をのってのぶつかり合いなどは今でも頭に残っている。  「駆逐水雷」という遊びもあった。帽子のひさしの位置によって、戦鑑、駆逐艦、水雷艇になり、戦艦は駆逐艦を、駆逐艦は水雷艇を、水雷艇は戦艦を追いかけた。日露戦争のような遊びだった。  日曜日は独立守備隊のなかで兵隊ごっこをした。コーセン山、機関車がいないときの機関庫なども楽しい遊び場であった。  6年生のとき、父が満鉄をやめて桜町で商売についたため、それからは泰平橋を渡っての通学となった。橋の上から眺めた列車を懐かしく思い出す。 【注】泰平橋から見た公主嶺駅プラットホーム。

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -2-

 私が公主嶺小学校に在学した当時(大正5~10年)始業の朝礼からラッパ吹奏により開始、当時のラッパ手は13回生の伴野満寿美氏で、名手として有名でした。全員集合から正午の知らせ、その他常に規律よく進行したものです。(記念誌137頁下段)    全満野球大会に出場         熊谷満雄(14回生)    スポーツも中々盛んで、特にスケートは奉天の満洲医大リンクで行われた大会には毎年出場していました。私も参加したことがあります。  また野球はハルビン学院出身の熊野先生の指導で5年生ごろから盛んになりました。投手は柳瀬五郎君、捕手はだれか思い出せません。私は内野手で、斉藤繁樹勲も内野手として活躍していました。当時機関区が相当協力チームで、私たち小学生もこのチームについて回り、コーチをうけました。尋常科は軟式で、高等科が硬式だったと思います。いまでも当時の硬式用のグローブをもっています。  6年生のときか高等科1年のとき、奉天で開かれた全満大会に出場しました。これまで見たこともない大観衆の前出全員あがってしまい、とくに外野が大きなトンネルをして大敗してしまいました。相手がどこだったかも思い出せません。 

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公主嶺小同窓会誌 第4章 エピソード -1-

 私は大正6年、4年生のとき、撫順小学校から公主嶺に転校して来た。一番珍しかったのが、授業開始、修了、食事などがラッパの合図だったことだ。(記念誌137頁上段)    僕は学校のラッパ手           伴野満寿美(13回生)    そのころのラッパ手は上級生の高見誠一さん(10回生)だった。その前は曽根秀雄さん(8回生)だったという。高見さんとは社宅も近かったから、帰宅後も時々吹いているのを見ていた。「僕も欲しい。吹いてみたい」。父に話してみたら早速、鉄嶺から買って来てくれた。  そのころ社宅が菊地町の一番北の端だったので、裏に出ると真っすぐコーセン山を通して敷島台まで遮るものは何もない。騎兵隊の新兵のラッパ練習も手にとるように聞こえる。僕はそれに合わせて、起床、食事、消灯、気を付け、前へ進め、駆け足、突撃、撃ち方止め、分列行進、集合、君が代など、片っ端から覚えてしまった。  高見さんが大連工業学校に進学されたのち、尾木先生からすすめられて、僕がラッパを吹くことになった。シーンと静まり返った廊下で、「授業終わり」の第一声わ吹いたとき、ビーンと響き渡るその音は、んんともいえないいい気分だった。 【注】中国語訳文

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -終ー

 幼いころ、お正月に小山良江さんと可愛い名刺を持ち、よく近所へお年始に行きました。着物が長いので裾を踏まないように浅野さんの石段を上がり、「おめでとう」というと、奥様が笑顔でキューピーや女の子を描いた絵葉書を下さった。(181頁上段)    浅野兼右衛門ご夫妻          高橋富子(27回生)    それが子供心に大変嬉しかった。浅野兼右衛門さんは、もと騎兵大尉とか、やせて背が高く、目のギョロとした方だった。また大変子ども好きで、よく可愛がって下さった。でも傍にきて抱き上げて頬ずりされ、「痛い痛い」というと益々強く抱かれて閉口しました。  ある日、父の用事で浅野さんへ行き、帰ろうとしたら、「富子ちょっと待て」と何か封筒に入れて「これをお父さんに渡して」といわれ、すぐ帰り父に「こんな物を貰ったよ」と手を高く上げて渡すと、封を開けて父は急に笑い出した。中の便箋には大きな字で、たった六文字「トミコノバカ」と書いてあったのでした。  このユーモラスななかに深い愛情がこめられ、あのいかめしい感じの浅野兼右衛門さんと、何時もニコニコとやさしいおば様のお姿が目に浮かんで懐かしく思い出されるのです。 【注】下 右が浅野兼右衛門、左小松光治さん。公主嶺の草分けのお二人。大正末期の写真。(写真集・満洲公主嶺95ページから)

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -13-

 公主嶺の母親たちは、いまから考えると大変な働き者だったようだ。男の子の洋服は買えるけれど、女児服は数が少なく、ほとんどの子供がお手製の洋服を着ていた。母親たちはいつもいつも洋服を縫ったり、セーターを編んだりしていた。(記念誌181頁上段)     大正末期の母親たち        手塚明石(旧姓宗・24回生)    割に垢抜けた格好をしていられたのは「婦人の友」「主婦の友」などを購読していて、流行に後れなかったせいだと思う。  また、いろいろな講習会も多かった。神田さんの家ではお料理の講習会がよく開かれた。ロシア建ての家にはガッチリした地下室があり、貯蔵庫になっていた。それでも秋にトマトがたくさんとれると、ピュレーの一升瓶が玄関や廊下に所狭しとばかり並んでいた。  音楽では、お琴、三味線など、年に1回くらい学校の講堂で温集会を催した。町の浅野さん、足立さんの家でお稽古をしていた。私も母と一緒に通った覚えがある。先生は長春あたりから招いたように思う。尺八は奉天から名輪先生という方が見えていた。父たちは中本さんの家でお稽古をした。我が家も回りもちで稽古場になったりした。 【注】戦時中発行された「主婦の友」。

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -12-

 送って頂いた『80周年記念誌』目次によると、公主嶺小学校にスチーム暖房が備わったのは大正末期のゆである。冬の満州を偲ぶよすがにと北国の雪を訪れ、静まり返った夜の宿でスチームの音を耳にしたとき、ふっと心に浮かんでくるのは、小学校の廊下で聞いた幼いころのスチームの音である。   スチーム暖房と沢庵         松本 彰(25回生)    寒い冬になると、昼の弁当は温かい方がいいのは当然のことで、2時間目の授業が終わるころになると、廊下のスチームの上には色とりどりの弁当の包みがずらりと並んだ。そして昼休みになると、スチームで適度に温められた弁当にありついたが、たまたまその中に沢庵(たくあん)が入っていると、弁当箱のふたを開けた途端、なんともいえない芳香がしたものである。農事試験場でとれた搾りたての山羊の乳を飲みながら食べた温かい沢庵の味と香りは、いまでも忘れられない思い出となって、ただよってくる。  最近は科学技術の進歩により、多種多様の合成された味と馨りが市販されているが、この公主嶺小学校のスチーム製の沢庵の味と馨りも、いつの日か、どこかで開発されて現れてくるのではないかと、少年のような夢にふけるこのごろである。 【注】中国語訳文

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード ー11-

 私は大正13年から2年間、公主嶺の幼稚園に通った。もうそのころは2年保育が珍しくなくなっていたのだと思う。小さい組のときは田中清子先生にお世話になった。(記念誌180頁上段)   幼稚園時代の師と友      川北和子(旧姓神田・24回生)    公主嶺にメソジスト教会を建てられた田中茂甫(しげすけ)牧師の夫人で、日曜日は教会のオルガンを演奏された。また日曜学校の先生として、聖書をやさしく話して下さった。  病気休みの多かった私は、折り紙、手工など、ずいぶんお手伝いいただいたけれど、幼稚園修了のときは、だれよりも薄い作品ノートであった。  幼稚園のお昼は遊戯室いっぱいにまるく椅子を並べて、みんなで家からもってきたお弁当をいただうた。中里三枝ちゃんのお弁当箱は、丸型の二段式、おはしがポンと引っ込むとても素敵なものだった。そのうえ、それに合わせた手編みの袋にピッタリとはいって、「いいお母様!」とうらやましく思ったものだった。  お母様は丸まげに結った小柄な方で、いつも「かっちゃん」と声をかけて下さった。ちなみに私は「かっちゃんカズノ子ニシンの子」で、「カンダカッチャン」の呼び名であった。 【注】下写真は戦後、訪中団が撮影した幼稚園だった建物。田中先生の後任は、公主嶺っ子の誰もがお世話になった峯タウ先生だった。

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公主嶺小同窓会誌 第5章 エピソード -10-

 大正14年、大連から公主嶺に移り住んだのは、5歳のときであった。駅から馬車(マーチョ)にゆられ、橘医院を左折して、一路騎兵隊を目指して走り、たどり着いた所は高い土塀に囲まれた広大な敷地であった。土塀の角々には哨楼があり、昼夜交代で見張りが立って、馬賊の襲来に備えていた。(記念誌179頁下段)    馬賊が襲来した一夜          長尾英男(26回生)  敷地内には軍隊へ納める食料の倉庫が立ち並び、また馬糧の牧草が家型に野積みされていた。青灰色の煉瓦の苦力(クーリー)宿舎もあった。自給自足だったのだろう。高粱を始め、胡瓜、ナス、トマト、南瓜などの広い野菜畑には灌漑用の井戸があった。赤煉瓦造りの住宅兼事務所は、ペチカを中心とした四部屋で、窓や扉には鉄格子がはまっていた。  何回襲われたか記憶に残っていないが、馬賊は漆黒の闇のなかを馬蹄の響きもすさまじく、喚声をあげ、銃を撃ち、流れ弾は窓ガラスを破り、敷地内では苦力がドラを鳴らして近所の中国人に知らせ、叫び声をあげて侵入を防ぎ、われわれ子供達は押し入れの布団のなかに滑り込み、こわい長い一夜だった。  昭和4年、市内のにぎやかな朝日町に移ったときには、子供心に別天地の感があった。 ■馬賊 司馬遼太郎「坂の上の雲」から   馬賊というのは満洲の治安事情のなかからうまれた特殊なものである。この地帯は、古来、近代的な意味での国家が成立したことがないため、村々は盗賊団から自衛する必要があり、馬賊のもともとのかたちは村落自衛団で…

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