「あのころ」 伊藤 聖さん語る 満洲・公主嶺⑩
このたびの訪中(1983年)では、できたらロシア人墓地にも行ってみたいという希望がかなえられた。ハルビンの中央寺院や墓地もそうだったが、公主嶺のロシア人墓地は、文化大革命のときに破壊しつくされ、その跡には農業科学院の生物物理研究室の建物が建っていた。ただ、その敷地の塀は昔のロシヤ人墓地の塀があったところに再建されたものと思われ、その塀を回ったところに、射撃場の射梁がそのままの形で残っていた。
「武士道」という変わった名前の小暗い道を行くと、その先に旧独立守備隊の官舎があり、いくつかの連隊があった。私たちのころには敷島台の連隊のほうが規模は大きかったが、それは昭和9(1934)年以降のことで、それまでは公主嶺には独立守備隊1個大隊と駐剳師団の騎兵2個中隊が置かれていただけだった。だからこのあたりは軍都公主嶺の発祥の地であった。
その連隊の先は明るい草原になっていて、そこに射撃場があった。昭和2年4月現在の公主嶺付属地平面図には「射的場要地」と書いてあり、600mの距離がとってある。600mといえば、鮫島通りの端から端まであるが、父によるとそれが正規の射撃場の広さだったとのこと。ただし、一般の射撃訓練は300mで行われたという。
子供のころの私たちは、よくそこえ弾拾いに行った。小山になった射垜の斜面からは臼のような形をした空砲の弾が出たが、ときには先のとがった小銃の実弾が見つかることもあった。先が丸くなったピストルの弾や薬莢はめったになく、子ども達にとっては宝物だった。…