「9条守る私の原点」 赤旗-『読者の広場』 ⑯

 しんぶん「赤旗」が「読者の広場に投稿を募集している「9条を守る私の原点」。本ブログにシリーズで掲載してきましたが、今夏はその16回目。東京・板橋の佐藤洋子さんからのものです。(「赤旗」6月18日付)     叔父の体験の 感想文に涙し       東京・板橋区 佐藤洋子(83歳)  叔父が5月14日、95歳で亡くなりました。原爆投下時、広島の軍港呉にいた叔父は翌日から3カ月、遺体処理や被爆者の救援にあたりました。黒い雨の2次被害は免れようもありません。  アメリカは叔父たちの体を探るように調査したといいます。その報告は死ぬまでなかったことを「アメリカのやつめ」と口々にしていました。  結婚してうあれた子は小頭症で、4年の命で終わりました。おばは再び産むのを絶ちました。叔母はこのつらい日常を書いています。生まれた子の定期検診で「かたわ」呼ばわりされたこと。おぶって外出することもできずに息を殺したような暮らしだったと。  船員だった叔父は退職後、故郷の新潟で被爆者として学校やお寺の集まりで、体験を語って回りました。感想文を読ませてもらった時、もらいなくしました。県の被害者団体で活動し、広島の原水爆禁止世界大会に毎回参加していました。  死後叔父の本棚を見た時これらの書物で埋まっており、叔父の一生は書く廃絶一筋だったのです。             

続きを読む

「100年安心」 公明党、打消し躍起

 老後の資金が年金だけでは足りず2000万円必要とした金融庁審議会の「報告書」を打ち消そうと公明党が躍起です。(しんぶん「赤旗」16日付ー日刊紙2面)  (中略)もともと年金の「100年安心」を言っていたのは公明党です。2003年総選挙の前には公明新聞10月号外で「こうすれば100年は大丈夫ー『公明党の年金安心プラン』」を発表し、「今もらっている年金は下げません」「暮らせる年金額を確保」などと大宣伝していました。「100年安心」の看板の崩壊に、責任の矢面に立たされのを恐れて動揺しているのです。 ■永井至正ファイル

続きを読む

鈴木八千代さん 「赤旗」日曜版に投稿

 6月8日付しんぶん「赤旗」日曜版を繰っていたら、「読者のページ」に鈴木八千代さんの投稿を見い出して思わず「オー」。つい2,3日前の日刊紙にも彼女が書いたものを見たばかりだったからだ。見出しは「参院選躍進を」。地方選での挿話をはさんで並々ならぬ決意を述べている。  久し振りの文章での再会、懐かしい。40数年前からの知り合いで元区議・鈴木康吉さんの奥さん。新婚早々の夫妻の住む深川の住居をたずねたりしていた。男どもは天下国家を論じたり、家内同士は子育てのノウハウを聞いたり、教えたりで家族同士の交流が続いていたことを思い出す。  写真は確か45年前か、「赤旗祭り」での記念写真。若かった。左に鈴木源太郎区議、右に共産党後援会長の中川冬至郎さんに囲まれて3人の子どもを抱えた鈴木一家。それに私が添えられている。 ■参院選躍進を 鈴木八千代 東京都 77歳

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー『読者の広場』 ⑮

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。いま各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を掲載させていただきます。今回は15回目(6月7日付)です。      教科書破られ 立ちつくして            大阪・枚方市 上野 崇之(76歳)    私の父は校長だったが、教え子をせっせと戦場へ送ったわけではない。植民地下朝鮮の国民学校で戦闘帽をかぶり国民服を着て、朝礼台から朝鮮人の子弟に号令をかけた。朝鮮神宮を礼拝するばかげた儀式だ。  民族の言葉ではなく日本語の教科書。彼らは歴代の天皇の名前もそらんじ、教育勅語だってへっちゃらだった。父たち日本人教師は「皇民化教育」の先兵だった。  敗戦翌日の朝、私たちは見る。教員住宅の裏の野菜畑に破られ、、ちぎられた国語の教科書が散乱する光景。加害と被害が交錯する時代の十字路に、否応なく私たち家族も立っていた。  引き揚げてすぐに逝った父。教壇に復帰し教科書に墨を塗らせた母は、「先生、民主主義ってなに?」と問う子どもたちに、「あたらしい憲法のはなし」を熱く語った。  引き揚げ時、「石を持て追う」ことなく手を伸べたオモニたちを忘れず、母は在日の子らにとりわけやさしかった。長じて教師になった私は、父と母の遺言「子どもたちを二度と戦場に送らない」を死守して生きた。

続きを読む

「天安門事件から30年」 日本共産党が批判 

 天安門事件の「遺族らへの抑圧・情報隠しは「人権保障の国際的流れに逆行」と日本共産党機関紙「赤旗」は6月5日付一面左肩で、大きく取り上げ批判しています。  日本共産党は天安門事件について、その発生直後の1989年6月4日、言語道断の暴挙と厳しく糾弾する声明を発表しました。その後も中国共産党指導部に対して、「言論による体制批判については、錦糸するのではなく、言論で対応する」べきだと繰り返し提起してきました。また、現在の中国の党・政府が、弾圧への謝罪を求める学者らを抑圧し、事件に関する情報さえ国民の目から隠す動きを強めていることについて「人権保障の国際的流れに逆行した、憂慮さるべき事態」(本紙4日付け」「主張」)と批判しています。

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑭

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。いま各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を転載させていただきます。今回は14回目(6月2日付)です。     戦病死した兄 形見は石ころ                 兵庫・姫路市 岸本 守(81歳)  私は8人兄弟の6番目に生まれました。長兄が赤紙1枚で収集され、戦後1946年に西部ニューギニア・エフマン島でマラリアに侵され戦病死しました。  兄は国鉄神戸港駅に勤務し、経済的にも支えになっていました。「おまえが国民学校2年生になったら帰ってくるんや」と聞いて育っていたけれど、最後の復員船が出る5カ月前に亡くなってしまいました。  兄の木箱に入っていたのは石ころだけでした。母は一晩中、木箱にすがりついて泣いていました。私が国民学校2年生の時でした。今もその光景が目に浮かんでは母の嘆きと悲しみが伝わってきます。なんで、戦争が起こるのかと考えていくうちに教育こそ大事だと考えるようになり、私は教師への道を選びました。そして36年、高校の教師を定年退職。  現役の時の「教え子を再び戦場へ送らない」のスローガンを、今も瞳のように大切にして、孫やひ孫を戦場の兵士にさせてはならないと、アベ9条改憲に命をかけてたたかっています。

続きを読む

「平和のための名言」 2019年6月

 「平和のための名言集」(大和書房・早乙女勝元編9から月の初めに当たり、今年は毎月3人。しんぶん「赤旗」のカレンダーに添えて、女性の名言を転載します。今月の花はあじさいです。 ■6月6日 千野敏子(1924~1946)=真実は悲しきかな。それは本質的にはすべてに愛され、うけいれられるべきものでありながら、しかも終始すべてに反逆視される宿命をもっている。 ■6月12日 沢地久枝(1930~    )=アメリカでは第二次世界大戦後も常にどこかの国と戦争をしていた。しかし日本は第二次世界大戦後は一人の公的な戦死者も出さないで来た。ということは、日本人によって殺された他国の人もいないということです。それがなぜ可能だったのかというと、シロアリに食われたような形になりながらも、憲法、特に九条が生きていて歯止めになったからだと思います。 ■6月15日 樺美智子(1960年6月15日死)=でも私は/いつまでも笑わないだろう/いつまでも笑えないであろう/それでいいのだ/ただ許されるものなら/最後に/人知れずほほえ。みたいものだ

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑬

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を転載させていただきます。今回は13回目(5月30日付)です。     ひもじい生活 働く仲間たち            大阪市 松田 安弘(84歳)    国民学校(現小学校93年生のときに、広島・呉へ集団疎開しました。子どもたちを死なせず、兵隊づくりのためでした。  大阪の空襲がはげしくなり、家族全員6人が縁故疎開することになり、父が私を迎えにきました。岐阜・羽島の母の実家で百姓の納屋に住むことになりました。自宅は6月1日(1945年)の大空襲で焼かれてしまいました。疎開先でのひもじい生活が本当にいやでした。戦争のためだと子ども心にしみつきました。  戦争中の言い知れないひもじい思いが、憲法を知り、9条を知り、「9条を守る私の原点」になっています。  就職し、労働運動を知り、その中で党を知りました。そして、「9条を守る私の原点」は、ますます、みがかれていくことになります。  「第九条」を色紙に書き、いつも見えるところに置いています。覚えてしまいました。  安倍改憲を絶対に許してはなりません。9条を守るために、きたる参院選で躍進し、安倍政権を倒しましょう。

続きを読む

戦闘機の「爆買い」やめて待機児解消 -赤旗ー

 「子どもを預ける保育所が見つからない」「何度申し込んでも子どもが保育所に入れない親が仕事復帰をあきらめた」。解消されない待機児童問題。すべての子が豊かな保育、幼児教育を受けられる体制を整えることが求められます。(しんぶん「赤旗5月16日付一面トップ)  欠陥が指摘される戦闘機の購入をやめることで、保育所を増設し、保育士の処遇を改善して希望する全員が保育所に入れる道が開けます。

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑨

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今、各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は9回目(5月5日付)です。     2人の恩人と 9条と出会い            香川・小豆島 村上 洋(72歳)    中1の道徳の時間、「僕は自衛隊を志願します」と宣言。高1になって、防衛大学校へ進学することに心を決めた。残念ながら入試に失敗し、自衛隊に勤務しつつ防衛大への再挑戦をめざし入隊。しかし実際の経験から、「自衛隊は俺の生きる世界ではない」と痛感し退職した。  人生行路の転換は、2人の恩人と憲法9条との出会いによって訪れた。Tさんは、「大戦で未曾有の惨禍を体験した世界人民の平和への渇望と運動が、戦争放棄・戦力不保持の9条に結実したんや」と話した。そして私は、命がけで侵略戦争反対を貫いた日本共産党のたたかいを知り、深く感動して入党した。  またKさんは、中小企業の営業と生活を守る活動について語り、「戦争体験を通じて、『平和こそ商売繁盛の道』を教訓としてへいわ運動にとりくんでいる。その礎となってるのが9条だよ」と強調した。私は共感して高松民主商工会に就職した。  これらが9条を守る私の原点に違いない。微力ながら今は「安倍9条改憲NO!3000万人署名」を続けている。(団体役員)

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑧

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を、順次転載させていただきます。今回は8回目(5月4日付)です。      燃える民家が 目に焼きつく                     堺市 長田 平(88歳)   1930(昭和5)年生まれで1年後に中国東北部で戦端が開かれ、小学1年生で日中戦争、国民学校となった5年生で太平洋戦争開戦、旧制中学3年生の1945年8月15日で終戦となり、子ども時代を戦時中に過ごしました。  ”欲しがりません勝つまでは”と』軍隊優先で国民は食糧不足でひもじい思いをしました。小中学生時に軍事教練で絞られ、空襲で湊の浜辺に逃げて一夜を明かし、家への帰途で民家が燃える炎が見えて、今もそれが目に焼き就いています。  小学生の時に近所の人が軍隊に招集され、その出征を見送った奥さんが悲しんで泣いているのを見たり、中学生になって戦死者の遺骨の出迎えに動員されたりしました。  終戦となって平和憲法9条が制定され平和が守られています。  これらの体験から、安倍政権の9条改憲の阻止へむけて、私のできることは「安倍9条改憲NO!3000万人署名」に取り組むことだと強く思っているところです。

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑦

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第7回目(5月4日付)です。     「戦争放棄」を 確かめた感動            静岡・伊豆市 佐々木武志(85)    私は1934(昭和9)年の昭和一桁生まれです。太平洋戦争がはじまる年の4月に、戦前からの「小学校」名が「国民学校」に改名され、私たちがその時の1年生でした。そして終戦を迎えた時が5年生で、その後、47年に戦中の「国民学校」が改名されるという「国民学校の満期生」で、いわゆる「軍国少年」時代でした。  そして戦後6・3・3制度となり、私は新制中学の1年生で「新憲法」に出会い学びました。文部省が発効した『あたらしい憲法のはなし』を手にして最初に目にとまったのが、『戦争の放棄』でした。  その時は教室内で、あっちでもこっちでも「やった!」「今度は戦争なんかしないんだぞ!」の歓声が沸き起こり、再度「戦争の放棄」と「第9条」をしっかりと自分の目で確かめました。この感動は、とくに青年時代からの60年安保反対から、今日にいたる憲法を守るたたかいを続けてきた私の、何よりの原点であり原動力です。  この日本の宝である日本国憲法、とりわけ9条を私の生涯の原点としてたたかいぬく決意です。

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑥

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第6回目(5月3日付)です。    戦場に送るな 心に深く刻み            東京・大田区 柿沼 昌芳(82)    小学3年で終戦になり、焼け野原の東京に帰ってきました。『新しい憲法のはなし』で日本は二度と戦争をしない国になったと教えられました。「戦争放棄」と書かれた坩堝(るつぼ)に戦車など投入された口絵を記憶しています。  中学2年の時、カービン銃を肩にした警察予備隊の写真を新聞で見ました。衝撃を受け、戦争中、日本は戦争に負けることはないと教えてくれた先生、これからは戦争しない国になったと教えてくれた先生。先生に2度だまされたと思いました。  数学の楽しさを教えたいと教師になりました。教師の置かれている位置に関心もありませんでしたが、職員室の「勤評(勤務評定)は戦争への一里塚」というステッカーはこれまでのことを想起させてくれました。「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」というスローガンも心に深く染み入りました。9条を改悪しようとする安倍首相を許すことはできません。

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑤

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第5回目(5月3日付)です。     全てが狂った 高松市の空襲           埼玉・北本市 三好あきお(90歳)  私の9条を守る原点は、戦災者ということである。世界の人々がうらやむ日本の平和憲法第二章は9条のみで戦争は「永久にこれを放棄する」という条文である。  敗戦の年(19455年)の7月4日、米軍機の高松市の空襲により、家屋・家財を全焼され、後は放浪。大叔母も恩師も死亡。学校も中途退学し何もかも来るってしまった。人生なんか頭にはなかった。  戦争なんか、とんでもないことである。地球上の人たちがお互い武器をとってたたかい合うなど・・・。  

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ④

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第4回目(5月3日)です。       叔父らの人生 私は語り継ぐ                熊本・八代市 横林 政美(70歳)  憲法9条を守ることは、叔父たちが残した私への遺言。叔父は1940年21歳で入隊。43年待つ戦地からの「今まで頼り不可、最後にこの体が粉になるまで奮闘する。皆々も御元気で働かれよ。御父母様」と書かれた手紙が最後に。44年3月7日ニューギニアにて26歳で戦死。帰ってきたのは戦死の公報1枚。  父は1937年正月、台湾に出征。7月7日、日中戦争が始まり、9月14日左膝関節部に迫撃砲を受け21歳で負傷。以後この機能は回復せず曲げることが不可能に。不自由な体で、母と農業で4人の子どもを育てた。  祖母は1985年、90歳で自分の人生を振り返り、「夜寝ていても靴音が聞こえると、戦死の公報ではと眠れない日が。2人の息子が戦地にいても、お国のために働いてくれていると。そんな気持ちにさせたのは、本当の気持ちを言える時代ではなかったから」と。  召集令状一枚で戦地に送られ、殺され、負傷する不条理。当時の状況を知り、語り継ぎ二度と親、子どもを悲しませない。祖母、父、叔父の仁背宇賀私の原点だ。

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ③

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条を守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第4回目(5月3日)です。      私の名前には 「憲」の一字が                大阪市 林 政憲(65歳)  瀬戸内の半農半漁の豊かではない家の長男として生まれた父は、17歳で海軍に志願、戦後すぐ地方警察官となった。  戦争については、空母に乗艦して数多くの海戦に参加したこと以外は語らず、炭鉱町の警察官として在日朝鮮人の運動の弾圧に苦悩していたじょとを母から聞いた。そのせいか数年で退職し、3年ばかり無職ののち民間会社に職を得たが、亡くなるまで朝鮮問題の専門書まで読んでいた。それは当時の自省からか。  ところで、私の名前には憲法の一字が入っている。なぜ、そうしたのだろうか?戦争は絶対だめだ。民俗差別は酷いと寂しく言っていた父は、憲法9条を全身で喜び読んだに違いない。  最晩年に、父が渡しになぜ共産党が好きか問うたことがあり、戦争は理不尽な死を強いるから絶対嫌だと答えたところ、沈黙のまま私の目をじっと見つめた父を懐かしく思い出す。  反戦平和の党であることを十分知っていたのだ。私は父の子であり、憲法9条を汚すあらゆる動きに反対する。(地域労組専従ボランティア)

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ②

 しんぶん「赤旗」の「読者の広場」が企画したテーマ「9条を守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次掲載させていただきます。今回は第2回目(5月3日)です。     特攻隊員の兄 生きていたら                千葉市 田中 優(87歳)   1945(昭和20)年3月27日、私の三兄は、海軍特別攻撃隊彗星隊103飛行隊の1番機の操縦をして、沖縄の海に自爆しました。満20歳でした。  長兄は釜山郵便局に勤務しながら2度召集され、「北支戦線」に従軍しながらも、無事除隊になりました。  次兄は志願した海軍航空隊の整備兵として軍務中に、戦友のミスで負傷して除隊になり、それが原因で戦後、膿胸(のうきょう)になり、町議会議員2期目で将来を嘱望されながら死去しました。  三兄は家族に内緒で特攻隊員になり、戦死する10日前で生家の上をせん回し、操縦席から白い絹布を降っていました。帰宅して、押さなかった末弟を腹に乗せて飛行隊歌を歌っていました。  戦死公報が届いたのは敗戦後の9月末で、それまで毎朝陰膳を備えていた母は、「コゲナ負ケ戦ニナイゴテ死んだか」と狂い泣きしました。  剣道が強くて、裸馬乗りが特意で、親孝行者だった兄が生きていたらー悔しいです。平和憲法9条を死守します。

続きを読む

「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ①

 しんぶん「赤旗」の「読者の広場」が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第1回目(5月2日)     終戦の4年目 先生の熱い話               埼玉県 佐久間 純(81歳)  終戦後、4年目。私は小学校6年生、社会科の授業。担任のT先生は、「これからの日本は、戦争はしないんだ。憲法で、そう決めたんだ。そのことをよく知っておくんだ」と、強い口調で話しました。  それを聞いた私は、「そうか、戦争はもうしなくていいんだ。爆弾は落とされなくてすむんだ」と、安心した気持ちになりました。  さらにT先生は、「これからは、みんなの時代だ。戦争は、絶対しちゃいけない。平和を守っていくのは、みんなだ。決して忘れるな」と、熱っぽく語りました。その時のT先生の口調、語った顔を、今でもハッキリと覚えています。  今、私が「赤旗」を読み、革新懇で活動しているのは、T先生の言葉を忘れないからです。9条を守る原点は、そこにあります。  安倍首相は、戦争法案を強行採決し、日本を戦争する国にしようとしています。最近では、米国から武器を爆買いし、着々と戦争への準備を進めています。危険な安倍政権。許せない安倍政権。一刻も早く、退陣させましょう。  

続きを読む

学生運動の指針だった 5・4運動

 中国の5・4運動って何? ほとんどの人は答えられないでしょう。私たちが学生(1952年の初期)のころ、中国の学生たちが立ち挙がった「5・4運動」は、日本の学生運動の指針だった。講師を呼び学習会、大小のイべントを開くなどしたものた。今年は丁度百年になるという。新聞「赤旗」が解説記事を載せた。  東京新聞も5月1日付けで関連記事を載せ、次のように書いている。  五・四運動は中華民国統治下の1919年5月4日、学生数千人が天安門広場からデモを始め、全国に広がった。抗日、反帝国主義などを掲げ、愛国主義が大衆化した転機とされる。  (前略)4月30日、人民大会堂で演説に立った習近平国家主席は「中華民族が民族独立と発展を求めた歴史において記念碑的な意義を持つ」

続きを読む

しんぶん「赤旗」 2019年(令和元年) 5月1日

 新天皇の即位にあたって日本共産党の志位委員長は、次の談話を発表しました。(しんぶん「赤旗」2019年(令和元年=5月1日付一面)  新天皇の即位に祝福を表します。象徴天皇として、新天皇が日本国憲法の精神を尊重し擁護することを期待します。

続きを読む

「平和のための名言」 2019年5月

 「平和のための名言集」(大和書房・早乙女勝元編)から月の初めに当たり、今年は毎月3人、しんぶん「赤旗」のカレンダーに添えて女性の名言を転載します。今月の花は「アヤメ」です。 ■渡辺えり(5月12日)=戦争をしないという憲法を守れなかったら、もう全世界共倒れです。・・・・・・それを大声で言えなくなってしまっている今の日本は異常だと思います。こういうことを言うと仕事がなくなる、自覚しなくてはいけない。すでに戦争のニオイがするでしょう? ■東ちづる(5月13日)=沖縄県に駐留するアメリカ軍関係者の不祥事が後を絶たない。・・・・・・今回の事件の報道に「県民の怒り」や「県民の不信感」等とあるが、「国民の怒り~」とならなくては、沖縄問題は、沖縄以外に住んでいる私たちが向き合わなければならない問題だ。沖縄はずっと戦う歴史でもう我慢の限界、ヘトヘトだ。 ■山崎豊子(5月22日)=その三十八度線とベルリンの壁は、私に強い影響を与えたのです。私の小説がいつも反戦思想で終わるのは、私自身の戦争体験から発していますが、同じ民族が祖国を二つに分かった戦争の悲惨さ、いつもそうしたことが脳裏にあります・・・・・・。 【注】毎月3人と決めたのは、8人も9人もいれば記入するのが大変だと思ったからだ。ところが先月4月もそうだったが今月も掲載文のなかにいずれも女性は3人しかいなかった。月30日とすれば、約1割しか女性は登場しない。この世界でも女性は10%の進出なのだ。

続きを読む

兄が出世した日 おえつした母

 57年前の七夕の未明に他界した母さんに、今頃になっておわびの手紙を書くなんて、親不孝者ですね。敗戦の3カ月前に出世した兄は、「勝手くるぞと勇ましく」と歌う女性たちに、駅まで見送られたけど、母さんはリウマチで外には出ず。駅から戻った僕が目にしたのは、おえつする痩身(そうしん)の母さんだった。(しんぶん「赤旗」25日「読者の広場」)  「泣くなんて非国民やで!」、言葉にしなかったけど、憎悪と侮蔑の目でにらみつけた僕。小学校で君が代・日の丸・教育勅語・修身、中学校でその上に軍事教練と「海ゆかば」のうたで、従順な「皇国の小国民」になっていた僕。  兵士として出て行く息子は遺骨で帰ってくるだろうと思えば、母親の涙は絶望の悲しみのうめきだったろうに、僕は人でなしになり果てていたのですね。  僕はかあさんを非国民だとののしる心で中学2年生の8・15まで生きていたのです。この愚かさお罪深さをざんげして、日本国憲法を抱きしめて不正義とたたかう生活60ねんです。(京都・宇治市 須田 稔=87歳) 【追記】あの頃日本中のお母さんが泣きました。ホームの影でハンカチで目をぬぐいました。「さよなら」も言えず見送ったんです。

続きを読む

改憲への予行演習? 「朝の風」

 「4月1日に新元号の発表があった。元号は君主の時間支配の象徴であり、国民主権の原理に反するものであるが、ここではその点は置いておく。」しんぶん「赤旗」4月23日のコラム「朝の風」が警鐘を打ち鳴らす。見てみよう。

続きを読む

空襲の実態を知る 『熱田空襲』

 名古屋市名東区の資料館「ピースあいち」では5月5日まで、企画展「『熱田空襲』-6月9日愛知時計・愛知航空機への空襲8分間で奪われた2000人のいのち」を開催しています。(しんぶん「赤旗」4月11日付ー「列島だより」)

続きを読む

元号は時代を画すものではない

 昨日4月1日は新元号制定にともないテンヤワンヤの大騒ぎ。「令和」と決まったがいただけない。そもそも論で言えば、私は天皇制にまつわる制度に辟易しているからだ。しんぶん「赤旗」は4月2日のコラム「潮流」で「元号は時代を画するものではない」と論じている. 【潮流】   きっかけは宮廷内のクーデターでした。さかのぼること、およそ1400年前。当時、朝廷で実験を握っていた蘇我氏一族を中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が滅ぼすという政変が起きました▼645年、権力争いの後に新しい天皇が即位。「大化元年」とされたのが日本の元号の最初だとされています。その後、大化改新によsつて中央集権的な国家体制の足がかりとなる改革が進められました▼もともと元号は紀元前の中国、漢の時代に武帝(ぶてい)が即位後に「建元(けんげん)」としたのが始まりといわれます。武帝は天変地異や政局の転換などを理由になんども改元。それによって時間や年月を自由に操れるのが皇帝の特権であることを示したといいます(『元号と日本人』▼平成回顧のけん騒のなかで、新元号「令和」が発表されました。延々と映すテレビをはじめ、これほどの大騒ぎに違和感をもたれた方も多いでしょう。天皇の代替わりまでこうした報道が続くのかと思うと、うんざりしてしまいます▼国民が主人公の今の世にあって、天皇が代わるたびに改められる元号が時代を画していくわけではないでしょう。ましてや政府がその使用を押し付けるようなことはあってはなりません▼安倍首相は新…

続きを読む

「平和のための名言」 2019年4月

 「平和のための名言集」(大和書房・早乙女勝元編)から月の初めに当たり、今年は毎月3人。しんぶん「赤旗」のカレンダーに添えて、女性の名言を転載します。今月の花は「モモ」です。 ■高遠菜穂子=私は大したことは出来ないけど、せめて苦しんでいる子どもたちや、、婦人たちに、何かしてあげたい。・・・・・・罪も無いつぶらな瞳の子どもたちの涙と苦悩・・・・・・。そんな現実を世界の人々が何も知らずにいる。知らされずにいる。報道さえされない。そのことに耐えられないのである。(4月7日) ■宮本百合子=村じゅうは、物音一つしなかった。寂として声なし。・・・・・・八月十五日の正午から一時まで、日本じゅうが、森閑として声をのんでいる間に、歴史は、その巨大な頁を音もなくめくったのであった。(4月10日) ■近藤芳美=おどおどと伏せる眼にいつの日にも真実見てウゐし民衆よ(4月12日) 【追記】今朝のしんぶん「赤旗」に江東区の二宮 剛さんが「ほっと」欄に投稿しています。

続きを読む

満洲生まれの父 「つなげてもらった命」 斉藤とも子 

 日韓の厳しい局面を報じるニュースをみていたら、どうしてもお伝えしたいことが沸いてきました。私の父は昭和4(1929)年、旧満洲で生まれました。その後、今の北朝鮮の羅津(らしん)に越し、16歳で敗戦。9カ月余りかかって引き揚げました。(しんぶん「赤旗」日曜版・3月10日付ー「風の色」 女優・斉藤とも子)  昭和20年8月9日の朝、ソ連の侵攻を知らずに登校した父は、そのまま、避難指示をうけます。先生や生徒たちと山越えの最中、敗戦の報が。各自逃げるようにと言われ、父は数人の友人と取り残されました。  それまでの植民地支配で反日感情の湯良い地を、着のみ着のままの少年たちが逃げるのです。途中で息絶えることがあっても不思議はなかったでしょう。  けれど父は、生きて帰ってきました。かつて占領していた国の人たちに、命を助けられたからです。  空腹の父たちを泊め、なけなしの食事をふるまってくれた人。ソ連兵に捕まり、日本人と判れば殺されそうになった時、「この子は朝鮮人!」と証言した農夫。  その農夫には父たちが日本人であることが判っていたのに・・・。お礼の言葉を発すれば最後、その方の命も危ない。父は目礼だけで、その場を去るのです。  奇跡的に帰国した父は、すぐに長文の手記を書きました。忘れてはならない人達のことを、遺(のこ)さずにおれなかったのだと思います。その中の誰ひとり欠けても、私は、生まれることができなかった。  国や政治がどうであっても、私にとっては、命の恩人の暮らしていた国。その子孫の暮…

続きを読む