コラム「雲流れる」永井至正⑪

ドイツはチエコとの国境沿い、エルベ川のほとりのドレスデン。中世の面影を残し、ドイツの京都ともいわれる文化都市。ヨーロッパ戦線では戦争末期の1945年2月12~13日、米英軍の猛爆を受け廃墟と化した。死傷者は2~5万といわれ、東京大空襲と並び立てられている。 ▼2012年2月、日・独大空襲被災者が交流 ▼戦後、英、エリザベス女王はこの地を訪ね、哀悼の祈りを捧げたという。これはドイツのシュレーダー首相が以前にイギリス中部の工業都市、コベントリー(ドイツV2・ロケット攻撃で壊滅)に赴き謝罪したものの返礼といわれている▼そこで思うのは、沖縄返還を金銭で解決したにもかかわらず、ノーベル財団から平和賞を授与された佐藤栄作元首相。彼が南京に行き頭を垂れただろうか▼チエコのプラハで核兵器の廃棄を訴えただけで平和賞を受けた米のオバマ大統領。広島の原爆追悼式に参加したことがあっただろうか▼この違いはどこからくるのか。ノーベル平和賞の曖昧さと、血塗られた現代史、とりわけあの大戦の総括についての日独の違いをそこに見る。

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コラム「雲流れる」永井至正⑩

1940(昭和15)年、世は戦時色にあふれていた。8歳の小学生の私は兄に手をとられて九段坂を上っていた。「いつか、きっとここで会えるからからなあ・・・」。よく覚えていてくれと言われていた。 ▼1946(昭和21)年の春、あたりは焼け野原、そんな中で、靖国神社をたずねた。だがそこには兄はいなかった。「~春の梢に咲いて会おう」(同期の桜)を本殿で歌う同期生とその遺族の目はうるみ、うちふるえていた▼毎年10月になるとさまざまな思いがよみがえって来る。1943(昭和18)年10月21日、雨ふりしきる神宮外苑での学徒出陣壮行会。翌年の10月25日は、神風特別攻撃隊の先陣がフイリピンで突っ込んでいった。以後、終戦まで、3千人を超える若者たちが帰らぬ空に飛び立っていった。その中に兄もいた ▼鹿児島県知覧町の「知覧特攻平和会館」で若き兵士たちの遺影を前に立ちすくみ涙した小泉首相。「ああ同期の桜」という第14期海軍飛行予備学生の遺稿集に感動し、鎮魂の想いで首相は靖国にいくという。「いろいろ」口癖のコイズミ首相。靖国への思いは一つでなくていい。ただ一つ同じでなくてはならないもの、それは、本当に「もう二度と戦争はしない」だ。先の大戦で多くの日本人は肉親をなくし、日本軍は数多くのアジア人を殺し、傷つけた▼今月末にも出されるであろう自民党の新憲法草案には、憲法9条にある「戦争の放棄」について「武力行使」が可能になるような文言が入ってこないだろうか。仮にもそのようなことがあれば「靖国の英霊」たちは何と言う…

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神風特攻の第一陣は10月25日でない

昭和の戦争史(70年前のことともなれば、太平洋戦争はもう歴史の範疇に入る)をひもとけば、あの神風特別攻撃隊の第一陣は1944(昭和19)年10月25日の関行雄大尉率いる敷島隊とされ、大本営もそう発表、軍神としてあがめられたが実情はそうでなかった。     第一陣は海兵出身でなければ    敷島隊がフイリピンのマバラカット基地を飛びたったのは10月21日。それ以来同隊は、3度出撃したが索敵不能で引き返してきた。左写真(ニュース映画で当時大々的に上映されていた)はいつの日のものか判明しないが、25日4度目の離陸寸前、基地の司令官は関大尉に「もう帰ってくるな」と言い放ったという。   海軍飛行予備学生誌によると既に24日には大和隊の久能中尉がレイテ沖に突っ込んでいたという。軍司令部は軍神の第一号はどうしても海軍兵学校出身者でなければ面目が立たないということで、発表を遅らせ、前出の「帰ってくるな」という命令になったのだという。  年功序列、キャリア優先は今の日本でも通用、軍国日本は死に行くものにも順位をつけたという恐るべき慣わしになっていたのである。 【注】「敷島の大和心を人問わば 朝日ににおう 山桜かな」といえば、知る人ぞ知る本居宣長の一首。太平洋戦争の末期、1944年10月、神風特別攻撃隊の先陣を切った4隊のネーミングに使われた短歌。敷島、大和、朝日、山桜という美名に若者たちはあおられるように死地に。なお、私の兄は12月15日、フイリピンのセブ基地を飛び立ち帰らなかった。神風特…

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コラム「雲流れる」永井至正⑨

「歌」は悲しいとき、つらいとき、人の心を和ませ、癒してくれます。凄惨(せいさん)な戦争の最中(さなか)にあってさえも、兵士たちの狂気を平常心に呼び戻してくれたようです。 ▼1939年ドイツで発売の「リリー・マルレーン」 ▼先の大戦のヨーロッパ戦線では、ラジオで「リリー・マルレーン」が流されると、一時銃火はやみ、ドイツ軍と連合軍の兵士たちが涙を浮かべて歌い、ナチス・ドイツをあわてさせたといわれています▼しかし、15年もの戦火を交えた隣国・中国軍と日本軍のともにした歌が不幸にも見当たらず、「蘇州夜曲」「何日君再来」ぐらいでしょうか▼米大統領の前で、プレスリーを歌い、失笑をかったあの人が駄目にした日中関係。近くて遠い国にしないために、いま望まれるのは、次期総理の靖国不参拝です。草の根から生み出せるいっそうの文化交流、そして中国の人びとと声をそろえてうたうことではないでしょうか。 【追記】これは2006年の8月の初旬に、しんぶん「赤旗」に投稿したもの。8月は日本人にとっては戦争を反芻する月。「歌」がごとき「やわい」テーマは恐らく「没」になるだろうと推測していたが、やはり、掲載されたのは一ヶ月もたった9月の12日だった。だが、遅れた理由は「やわ」だったのではなく、私も考えていたように、中国人とともに歌う曲に「蘇州夜曲」を引用したことに、「赤旗」の編集者も苦慮していたにちがいない。「蘇州夜曲」は服部良一氏の曲になるものだが、日本人のための中国を題材にした歌、中国人にとってはどちらかという…

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コラム「雲流れる」永井至正⑧

今年の夏至は6月の21日。昼が最も長く、夜が最も短い日です。その長い日をがんばりましたが日が変わって22日、0時5分力尽きました。小原うめ子さんが逝かれたのです。83年の人生を人のため、信念を貫いた彼女らしい最後です。 ▼私はかつて(1974年)京都の知事選挙応援で京都でご一緒しました。蜷川虎三さんの7選目の時です。当時伏見区の責任者だった市田忠義さん(現共産党副委員長)の言葉が今でも忘れられません。「江戸の江東区から凄い美人が見えた。大輪の薔薇の花のような人です。伏見中が明るくなっていますよ」と▼彼女を知る誰もがいいます「あのすきとおった声、見方を励まし、相手を身震いさせた声、聞こえてくるようですよ」。2月14日、さいたまアリーナで「医療制度改悪許さないぞ!」とこぶしをふりあげていらっしゃった小原さんの姿、元気いっぱいだったのに、わすれません、いつまでも。(2002年6月記)

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コラム「雲流れる」永井至正⑦

いまからちょうど60年前の1952(昭和27)年、慶応に入って通い始めたのは、東横線・日吉の校舎。旧満州生まれの僕が第三語学として選んだのがやはり中国語だった。そのはじめての授業のことである。  ▼江戸っ子で気風(きっぷ)のいい粋(いき)な永沢という講師が、端(はな)から黒板に「何日君再来」の歌詞を書き始めた。「好花不常開 好景ふ常在~」。黒板を指さしながら「君たち、これ知っているだろう、一人ずつ歌ってみろ!」と笑いながら言う。「何てことだ!」と驚きながら、それでも歌詞にルビをふってくれたので、それぞれの発音で歌いこなしたが、講師がいちいち修正した。はからずも「歌の教室」になっていた▼今でもそのことは懐かしく記憶に新しい。かつて、子どものころ満洲で、あの美貌歌手で女優の李香蘭の美声に聞きほれていたことがあった。この「歌の教室」がきっかけで中国語の語感と抑揚に魅せられて、進む道は中国文学科へ一直線。 ▼戦前、戦中なら「何日君再来」を歌ったのは、渡辺はま子か李香蘭だったが、戦後はやはりテレサ・テンだ。吸う金運命をたどったテレサ。1995年、惜しまれながら亡くなったが、彼女の歌う「何日君再来」は絶品だった。きっちりとした北京語で歌い、その歌声は日本だけではなく中国でも大流行した。僕の中国語との出会いは「何日君再来」。今でも時おり、流暢(?)な調べで口ずさんでいる。 【追記】1980年代、テレサ・テンの歌声は日本だけではなく中国でも大流行した。台湾生まれで中国で歌うのが彼…

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