「9条守る私の原点」 赤旗ー『読者の広場』 ⑮

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。いま各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を掲載させていただきます。今回は15回目(6月7日付)です。      教科書破られ 立ちつくして            大阪・枚方市 上野 崇之(76歳)    私の父は校長だったが、教え子をせっせと戦場へ送ったわけではない。植民地下朝鮮の国民学校で戦闘帽をかぶり国民服を着て、朝礼台から朝鮮人の子弟に号令をかけた。朝鮮神宮を礼拝するばかげた儀式だ。  民族の言葉ではなく日本語の教科書。彼らは歴代の天皇の名前もそらんじ、教育勅語だってへっちゃらだった。父たち日本人教師は「皇民化教育」の先兵だった。  敗戦翌日の朝、私たちは見る。教員住宅の裏の野菜畑に破られ、、ちぎられた国語の教科書が散乱する光景。加害と被害が交錯する時代の十字路に、否応なく私たち家族も立っていた。  引き揚げてすぐに逝った父。教壇に復帰し教科書に墨を塗らせた母は、「先生、民主主義ってなに?」と問う子どもたちに、「あたらしい憲法のはなし」を熱く語った。  引き揚げ時、「石を持て追う」ことなく手を伸べたオモニたちを忘れず、母は在日の子らにとりわけやさしかった。長じて教師になった私は、父と母の遺言「子どもたちを二度と戦場に送らない」を死守して生きた。

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「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑭

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。いま各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を転載させていただきます。今回は14回目(6月2日付)です。     戦病死した兄 形見は石ころ                 兵庫・姫路市 岸本 守(81歳)  私は8人兄弟の6番目に生まれました。長兄が赤紙1枚で収集され、戦後1946年に西部ニューギニア・エフマン島でマラリアに侵され戦病死しました。  兄は国鉄神戸港駅に勤務し、経済的にも支えになっていました。「おまえが国民学校2年生になったら帰ってくるんや」と聞いて育っていたけれど、最後の復員船が出る5カ月前に亡くなってしまいました。  兄の木箱に入っていたのは石ころだけでした。母は一晩中、木箱にすがりついて泣いていました。私が国民学校2年生の時でした。今もその光景が目に浮かんでは母の嘆きと悲しみが伝わってきます。なんで、戦争が起こるのかと考えていくうちに教育こそ大事だと考えるようになり、私は教師への道を選びました。そして36年、高校の教師を定年退職。  現役の時の「教え子を再び戦場へ送らない」のスローガンを、今も瞳のように大切にして、孫やひ孫を戦場の兵士にさせてはならないと、アベ9条改憲に命をかけてたたかっています。

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「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑬

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を転載させていただきます。今回は13回目(5月30日付)です。     ひもじい生活 働く仲間たち            大阪市 松田 安弘(84歳)    国民学校(現小学校93年生のときに、広島・呉へ集団疎開しました。子どもたちを死なせず、兵隊づくりのためでした。  大阪の空襲がはげしくなり、家族全員6人が縁故疎開することになり、父が私を迎えにきました。岐阜・羽島の母の実家で百姓の納屋に住むことになりました。自宅は6月1日(1945年)の大空襲で焼かれてしまいました。疎開先でのひもじい生活が本当にいやでした。戦争のためだと子ども心にしみつきました。  戦争中の言い知れないひもじい思いが、憲法を知り、9条を知り、「9条を守る私の原点」になっています。  就職し、労働運動を知り、その中で党を知りました。そして、「9条を守る私の原点」は、ますます、みがかれていくことになります。  「第九条」を色紙に書き、いつも見えるところに置いています。覚えてしまいました。  安倍改憲を絶対に許してはなりません。9条を守るために、きたる参院選で躍進し、安倍政権を倒しましょう。

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「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑨

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今、各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は9回目(5月5日付)です。     2人の恩人と 9条と出会い            香川・小豆島 村上 洋(72歳)    中1の道徳の時間、「僕は自衛隊を志願します」と宣言。高1になって、防衛大学校へ進学することに心を決めた。残念ながら入試に失敗し、自衛隊に勤務しつつ防衛大への再挑戦をめざし入隊。しかし実際の経験から、「自衛隊は俺の生きる世界ではない」と痛感し退職した。  人生行路の転換は、2人の恩人と憲法9条との出会いによって訪れた。Tさんは、「大戦で未曾有の惨禍を体験した世界人民の平和への渇望と運動が、戦争放棄・戦力不保持の9条に結実したんや」と話した。そして私は、命がけで侵略戦争反対を貫いた日本共産党のたたかいを知り、深く感動して入党した。  またKさんは、中小企業の営業と生活を守る活動について語り、「戦争体験を通じて、『平和こそ商売繁盛の道』を教訓としてへいわ運動にとりくんでいる。その礎となってるのが9条だよ」と強調した。私は共感して高松民主商工会に就職した。  これらが9条を守る私の原点に違いない。微力ながら今は「安倍9条改憲NO!3000万人署名」を続けている。(団体役員)

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「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑧

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を、順次転載させていただきます。今回は8回目(5月4日付)です。      燃える民家が 目に焼きつく                     堺市 長田 平(88歳)   1930(昭和5)年生まれで1年後に中国東北部で戦端が開かれ、小学1年生で日中戦争、国民学校となった5年生で太平洋戦争開戦、旧制中学3年生の1945年8月15日で終戦となり、子ども時代を戦時中に過ごしました。  ”欲しがりません勝つまでは”と』軍隊優先で国民は食糧不足でひもじい思いをしました。小中学生時に軍事教練で絞られ、空襲で湊の浜辺に逃げて一夜を明かし、家への帰途で民家が燃える炎が見えて、今もそれが目に焼き就いています。  小学生の時に近所の人が軍隊に招集され、その出征を見送った奥さんが悲しんで泣いているのを見たり、中学生になって戦死者の遺骨の出迎えに動員されたりしました。  終戦となって平和憲法9条が制定され平和が守られています。  これらの体験から、安倍政権の9条改憲の阻止へむけて、私のできることは「安倍9条改憲NO!3000万人署名」に取り組むことだと強く思っているところです。

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「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑦

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第7回目(5月4日付)です。     「戦争放棄」を 確かめた感動            静岡・伊豆市 佐々木武志(85)    私は1934(昭和9)年の昭和一桁生まれです。太平洋戦争がはじまる年の4月に、戦前からの「小学校」名が「国民学校」に改名され、私たちがその時の1年生でした。そして終戦を迎えた時が5年生で、その後、47年に戦中の「国民学校」が改名されるという「国民学校の満期生」で、いわゆる「軍国少年」時代でした。  そして戦後6・3・3制度となり、私は新制中学の1年生で「新憲法」に出会い学びました。文部省が発効した『あたらしい憲法のはなし』を手にして最初に目にとまったのが、『戦争の放棄』でした。  その時は教室内で、あっちでもこっちでも「やった!」「今度は戦争なんかしないんだぞ!」の歓声が沸き起こり、再度「戦争の放棄」と「第9条」をしっかりと自分の目で確かめました。この感動は、とくに青年時代からの60年安保反対から、今日にいたる憲法を守るたたかいを続けてきた私の、何よりの原点であり原動力です。  この日本の宝である日本国憲法、とりわけ9条を私の生涯の原点としてたたかいぬく決意です。

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「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑥

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第6回目(5月3日付)です。    戦場に送るな 心に深く刻み            東京・大田区 柿沼 昌芳(82)    小学3年で終戦になり、焼け野原の東京に帰ってきました。『新しい憲法のはなし』で日本は二度と戦争をしない国になったと教えられました。「戦争放棄」と書かれた坩堝(るつぼ)に戦車など投入された口絵を記憶しています。  中学2年の時、カービン銃を肩にした警察予備隊の写真を新聞で見ました。衝撃を受け、戦争中、日本は戦争に負けることはないと教えてくれた先生、これからは戦争しない国になったと教えてくれた先生。先生に2度だまされたと思いました。  数学の楽しさを教えたいと教師になりました。教師の置かれている位置に関心もありませんでしたが、職員室の「勤評(勤務評定)は戦争への一里塚」というステッカーはこれまでのことを想起させてくれました。「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」というスローガンも心に深く染み入りました。9条を改悪しようとする安倍首相を許すことはできません。

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「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ⑤

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第5回目(5月3日付)です。     全てが狂った 高松市の空襲           埼玉・北本市 三好あきお(90歳)  私の9条を守る原点は、戦災者ということである。世界の人々がうらやむ日本の平和憲法第二章は9条のみで戦争は「永久にこれを放棄する」という条文である。  敗戦の年(19455年)の7月4日、米軍機の高松市の空襲により、家屋・家財を全焼され、後は放浪。大叔母も恩師も死亡。学校も中途退学し何もかも来るってしまった。人生なんか頭にはなかった。  戦争なんか、とんでもないことである。地球上の人たちがお互い武器をとってたたかい合うなど・・・。  

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「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ④

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第4回目(5月3日)です。       叔父らの人生 私は語り継ぐ                熊本・八代市 横林 政美(70歳)  憲法9条を守ることは、叔父たちが残した私への遺言。叔父は1940年21歳で入隊。43年待つ戦地からの「今まで頼り不可、最後にこの体が粉になるまで奮闘する。皆々も御元気で働かれよ。御父母様」と書かれた手紙が最後に。44年3月7日ニューギニアにて26歳で戦死。帰ってきたのは戦死の公報1枚。  父は1937年正月、台湾に出征。7月7日、日中戦争が始まり、9月14日左膝関節部に迫撃砲を受け21歳で負傷。以後この機能は回復せず曲げることが不可能に。不自由な体で、母と農業で4人の子どもを育てた。  祖母は1985年、90歳で自分の人生を振り返り、「夜寝ていても靴音が聞こえると、戦死の公報ではと眠れない日が。2人の息子が戦地にいても、お国のために働いてくれていると。そんな気持ちにさせたのは、本当の気持ちを言える時代ではなかったから」と。  召集令状一枚で戦地に送られ、殺され、負傷する不条理。当時の状況を知り、語り継ぎ二度と親、子どもを悲しませない。祖母、父、叔父の仁背宇賀私の原点だ。

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「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ③

 しんぶん「赤旗」の『読者の広場』が企画したテーマ「9条を守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第4回目(5月3日)です。      私の名前には 「憲」の一字が                大阪市 林 政憲(65歳)  瀬戸内の半農半漁の豊かではない家の長男として生まれた父は、17歳で海軍に志願、戦後すぐ地方警察官となった。  戦争については、空母に乗艦して数多くの海戦に参加したこと以外は語らず、炭鉱町の警察官として在日朝鮮人の運動の弾圧に苦悩していたじょとを母から聞いた。そのせいか数年で退職し、3年ばかり無職ののち民間会社に職を得たが、亡くなるまで朝鮮問題の専門書まで読んでいた。それは当時の自省からか。  ところで、私の名前には憲法の一字が入っている。なぜ、そうしたのだろうか?戦争は絶対だめだ。民俗差別は酷いと寂しく言っていた父は、憲法9条を全身で喜び読んだに違いない。  最晩年に、父が渡しになぜ共産党が好きか問うたことがあり、戦争は理不尽な死を強いるから絶対嫌だと答えたところ、沈黙のまま私の目をじっと見つめた父を懐かしく思い出す。  反戦平和の党であることを十分知っていたのだ。私は父の子であり、憲法9条を汚すあらゆる動きに反対する。(地域労組専従ボランティア)

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「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ②

 しんぶん「赤旗」の「読者の広場」が企画したテーマ「9条を守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次掲載させていただきます。今回は第2回目(5月3日)です。     特攻隊員の兄 生きていたら                千葉市 田中 優(87歳)   1945(昭和20)年3月27日、私の三兄は、海軍特別攻撃隊彗星隊103飛行隊の1番機の操縦をして、沖縄の海に自爆しました。満20歳でした。  長兄は釜山郵便局に勤務しながら2度召集され、「北支戦線」に従軍しながらも、無事除隊になりました。  次兄は志願した海軍航空隊の整備兵として軍務中に、戦友のミスで負傷して除隊になり、それが原因で戦後、膿胸(のうきょう)になり、町議会議員2期目で将来を嘱望されながら死去しました。  三兄は家族に内緒で特攻隊員になり、戦死する10日前で生家の上をせん回し、操縦席から白い絹布を降っていました。帰宅して、押さなかった末弟を腹に乗せて飛行隊歌を歌っていました。  戦死公報が届いたのは敗戦後の9月末で、それまで毎朝陰膳を備えていた母は、「コゲナ負ケ戦ニナイゴテ死んだか」と狂い泣きしました。  剣道が強くて、裸馬乗りが特意で、親孝行者だった兄が生きていたらー悔しいです。平和憲法9条を死守します。

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「9条守る私の原点」 赤旗ー「読者の広場」 ①

 しんぶん「赤旗」の「読者の広場」が企画したテーマ「9条守る私の原点」。今各地から多くの投稿が寄せられています。その一つ一つの全文を順次転載させていただきます。今回は第1回目(5月2日)     終戦の4年目 先生の熱い話               埼玉県 佐久間 純(81歳)  終戦後、4年目。私は小学校6年生、社会科の授業。担任のT先生は、「これからの日本は、戦争はしないんだ。憲法で、そう決めたんだ。そのことをよく知っておくんだ」と、強い口調で話しました。  それを聞いた私は、「そうか、戦争はもうしなくていいんだ。爆弾は落とされなくてすむんだ」と、安心した気持ちになりました。  さらにT先生は、「これからは、みんなの時代だ。戦争は、絶対しちゃいけない。平和を守っていくのは、みんなだ。決して忘れるな」と、熱っぽく語りました。その時のT先生の口調、語った顔を、今でもハッキリと覚えています。  今、私が「赤旗」を読み、革新懇で活動しているのは、T先生の言葉を忘れないからです。9条を守る原点は、そこにあります。  安倍首相は、戦争法案を強行採決し、日本を戦争する国にしようとしています。最近では、米国から武器を爆買いし、着々と戦争への準備を進めています。危険な安倍政権。許せない安倍政権。一刻も早く、退陣させましょう。  

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