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zoom RSS 『石碑の誓い』 訪ねてC

<<   作成日時 : 2009/07/04 06:56   >>

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 そのオルゴールの音は、夕方家業のパッキング加工の仕事が終わって手を洗っている頃、ある時はお勝手で野菜をきざんでいる頃、また遊び呆けている子どもたちを呼んでいる頃、静かに聞こえてくるのでした。夕方の街を水色に浸していくような音色は、雨の日にはうるんで、お天気の日は軽やかに、また南風の吹く日は思いがけない近さで聞こえてくるのでした。
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   李さんのオルゴール    橋本代志子
 
 私はそのオルゴールが白河小学校(江東区、後廃校)から流れてくることと、それを送ったのは李さんという八十歳に近い朝鮮の方だと知ったのはだいぶたってのことでした。

 その人李仁株さんは、東深川橋の近くでお米屋さんを開業していて、清潔に刈り上げた白髪と、黒い太縁の眼鏡に特徴のある、肩幅の広いガッチリとした逞しい方でした。
 その李さんが故郷の北朝鮮から来日したのは昭和七年、貧しくて、着のみ着のままのみすぼらしい姿だと聞きました。

 来日した李さんは、石川島造船所の臨時工となり、罐焚きの作業につきましたが、異民族だというだけでとんがる差別の目といやがらせの毎日を耐えなければならず、李さんにとって日本の国は決して住みよい所ではありませんでした。でも李さんは必死で苦しい生活にしがみついていったのでした。

 そして大正12年9月、関東大震災のあった日、危うく虐殺をまぬがれた李さんの目に数多くの同胞が理不尽にも引かれていく姿がありました。胸はにえたぎり、日本を恨みぬいたといいます。しかし李さんはそれにもひたすら耐えぬき、しょうわ10年、20年間勤務した職場を退き、奥さんの徳株さんと力を合わせて、白河二丁目に食堂を開いたのです。

 やがて太平洋戦争に入り、昭和20年3月の空襲で下町は焼け野となり、李さん一家も焼けだされました。やがて敗戦、外地から、疎開地から引揚げてきた人々は飢えて住む家もなく、そのみじめな姿の中に、李さんはかって北朝鮮からはじめて日本の地をふんだ頃の自分自身の姿を思い起こしていました。

 「大震災のことやいろいろのことをいいだしたらきりがない。水に流して日本人民と朝鮮人民と手をつながなければ」そのとき李さんは強く決心したといいます。早速二棟のバラック建ての無料宿泊所を作り、主に婦人や子どもを住まわせました。食事も無料で提供し、またこの人たちのためにと,洋裁の教習所も作ったのでした。
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 李さんはまた、昭和30年4月、戦災で亡くなった白河町の七百余名の霊をなぐさめるために戦災地蔵尊を建立してくださいました。

 このように、李さんは私たち江東の地に数々の善意の灯をともしてくださいましたが昭和46年夏、奥さんの徳株
さんの強い帰郷の願いに心を動かされ、最後の帰国船で北朝鮮にお帰りになってしまいました。来日してから54年、親しんでくれた町の人たちに心を残し、帰国記念の平和を願う碑を東深川橋の袂に建立して日本を離れたのです。碑文には仁株さん81歳、徳株さん80歳と刻まれています。
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 私は李さんを知り、平和の碑や戦災地蔵尊のことを知ってから、よく東深川橋へたちよります。碑にまむかい、川風に吹かれていると、悲しみや恨みを昇華させていった李さんの心が伝わってくるのです。

 今日も風の中を李さんのオルゴールが鳴っています。白河町から夕映えの小名木川を渡り、にぎわっている高橋の商店街を越え、森下の私の家の窓に聞こえてくる李さんのオルゴールは、
国境があっても人間には変わりがないはず、私たちはみんな兄弟なのだ」と云っているようです。(はしもと・よしこ)

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