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zoom RSS どこまでも素朴な叙事詩よ!

<<   作成日時 : 2010/11/26 12:40   >>

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詩人会議を立ちあげた一人、詩人の故坂井徳三氏が永井和子さんの詩を評して、つねひごろいっていた「よそ行きの興奮でない感動を、私たち自身の生活の手もと、生命の足もとに引きよせた形で、吹きあがっていく」と。復刻版・「沖縄詩集・抄」では氏の言葉を「あとがき」で引用している。

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 永井和子さんの「沖縄のための連作」中、私が最初に接したのは、「小指の痛み」「悲しい人たち」「聖火」「小さな摸倣」などの作品だった。ここには押しつけとか、お説教とか、そういうジャマモノがない。自分へのなっとくが、ほとんどそのまま読む人へ、なっとくとして受けとられよう、という形になっている。沖縄を題材とする時、私たちの詩作は、どうかすると、まっさきに政治的主張をしたがるけれども、詩作である以上それは、何よりも形象による詩のなかでなくちゃならない。いや、そんなこと頭では全部承知していても、体がリクツを先に立ててしまう。本質的にこれはイメージ(形象)の委縮なのだろう。

 生活・実践の衰弱と結びつく形象の委縮なのだろう。上記四作品は、そうしたエネルギーをもっていた。この作品は郭新陣営内に唯一の、読者百万をもつ週刊新聞「日曜版」の新年号で、その第一ページいっぱいのグラフとともに大きな活字で、六五年度年頭の読者の目に飛び込むことになった。

 その次に私の接した作品は「こわれたオルガン」「いまもその島はなどだ。これらの作品について私は当時、こう記している。「どこまでも素朴な叙事詩としての、その映像形式のなかで、痛切な民族的・人間的な問題が次々とリズムと言葉を獲得してゆく。・・・・・・多忙な主婦がこういう仕事にとりかかるなど、まことにすばらしいことですね。」

 次に私は作品「祖国復帰大行進によせて」に接した。当時、こう私は書いている。「力のこもった足どりが、ここにふみしめられ、ふみすすめられ行進します。いまこの場面では、りくつも、合い言葉も後景にしりぞいていますが、この意義深い行進は現実の現地ともども、作品主人公の胸のなかを、力強くすすんでゆきます。

 以上はすべて、一九六五年の前半分にあらわれた作品群の一部だ。
 その頃あたりから以後、私たちは、沖縄取材作品のほかに、ベトナムをあっかったもの、戦火をあつかったもの、育児をあつかったもの、等等と、直接に沖縄でなくとも、かならずどこかで沖縄と堅く結ばれている・・・それ故にかえって切実に沖縄ことと連鎖して考えさせられる…諸作品と接することができるようになっている。

 じっさいに私は、今日の革新陣営の詩作の中で沖縄に取材の場合は勿論、ベトナムに取材の場合でも、できるだけ私たち自身の生活の手もと、生命の足もとに引きよせた形でとらえられるべきだ、もうもう、よそ行きの興奮ではいかん、ということを考えさせられている。

 沖縄のための可愛いい詩集よ、行進の足はととのったか?

  1966年 8月記                              坂井徳三

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
非常に素晴らしい思いを持ってらっしゃる方だと思い

こうして出会えて嬉しい限りです

「何事も自分のこととして、受け止めるとよい」

これに尽きると思います

人が叱られているのを見ても

自分に置き換えてみるとか、すべてに対して、そう思います

失礼しました

才木広之
2010/11/26 19:09

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