満州っ子 平和をうたう

アクセスカウンタ

zoom RSS 石碑と早乙女勝元さん

<<   作成日時 : 2011/11/12 07:18   >>

ナイス ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

1976(昭和51)年8月15日に発行された、写真集「石碑の誓い」の序文を作家の早乙女勝元さんが書かれた。「江東の空襲慰霊碑をつくる会」(代表・橋本代志子)が運動の一環として出されたものだが、終始サポートされてきた早乙女氏の一文は30年余を経た今もなお光彩を放っている。

画像
       忘れてならぬことに                
                           早乙女 勝元
 
 つらかったこと、苦しかったことは、忘れたい。人間の心情であろう。
 忘れようと意識的に努力せずとも、それらの記憶は歳月とともに薄まっていく。かわりに、楽しかったことや美しい思い出は、より楽しく美化されて、心の中に永く生きつづけるのかもしれない。過去の記憶をよりわけて、それらの大半を「忘却」の中に葬ることができるからこそ、人間はフランクに生きていられるにちがいないのだ。
 しかし、日本人は(などという他人事めいたいい方は好きでないが)一般的にいって、忘れてならぬことまで「忘却」の中に葬る才能に長じているような気がしてならないのだが、これは、私だけの思いすごしだろうか


 戦争体験もまた、その例に漏れない。

 四年ほど前、私は仕事があって、東ヨーロッパを訪れる機会があったが、この旅で、かれらと日本人との戦争感を、歴然と見せつけられたような気がした。

 たとえばハンガリーだが、首都ブタベストは、あの第二次大戦によってその75%を破壊されている。もちろん空からの爆撃もふくまれており、戦争による民衆の犠牲は大きい。しかし、弾痕のあとも生々しく残る建物を国家的に保存し、毎年補修しながら、町の中心地に残してあるのにおどろく。しかも、そればかりではない。戦争による民衆の犠牲者とその遺家族には、終生の年金保障がある。

 「金額は、傷の大きさ深さ、また死亡したのが親だったか、子どもだったかということで、みなちがいますが、その額は昔のままではありません。物価の上昇に比例して2〜3年ごとに、スライド改正されるしくみになっています」ということだった。一般民衆の戦争犠牲者には、ビタ一文出さなかったどこかの国とは、わけがちがう。


画像
 ついで、私はまたルーマニアへむかったが、そこでも、第二のショックを味あわされたのである。路地裏・・・・・・というにふさわしい横丁を歩いていくと、時にして、小さな家の外壁に直径50センチばかりの草であんだ輪(花輪みたいな)がかかっているのを見かける。私は足をとめた。力士みたいなふとった老婆をとらえて、これはなにかときいてみると、有名人が家をたたえる場合もあるが、自分のところはそうではなく、「あの戦争中、×月×日、うちの××ちゃんが、ここで機銃掃射で死にましたのでね。あたしは、それを忘れません。老婆は言葉すくなめにそう語った。

 昨年の二月にまた私は、ベトナム民主共和国にまねかれたが、全土解放直前の北ベトナムで見たものは、おびただしい数の記念碑であった。それは一つの町一つの工場にあるといってもいいすぎでない。それほど北爆の嵐はようしゃなくふきまくったということもできるが、しかし民衆の、犠牲者をなげき悲しみ、爆撃をした侵略者に対する怒りとのろいはすさまじく、遺家族はある一定期間みな額に白い鉢巻をしめ、どの記念碑にも申しあわせたあように読める文字は、「いつまでも、いつまでも、忘れない!」である。

 そのような決意の表現が、民衆の中に二度と戦禍をくりかえさせまいという心を、いやが上にも強固なものにしていくように思われる。そして、国あるいは自治体が、平和への熱意をこめて、犠牲者ならびにその遺家族への生活保障を法律で決めているケースが、すくなくない。どう考えても、日本とはちがう。

画像
 私たち日本人の場合には、昔から、たとえば「水に流す」というようなひとことで、過去のわだかまりやこだわりを忘れてよしとする傾向があった。それが日本人ならではの、何事も、いさぎよしとする生き方を形成したのではないか。たしかに人間の生活の中には、忘れてよいことは無数にある。だが、忘れてならぬこともあれば、許せぬこともある。もちろん、三十年前も前の“炎の夜”を語ったところで、たしかにあの子が生きかえってくるわけでも、あの人がよみがえってくるわけでもない。ただどうしようもない思いが心をしめつける結果になるが、しかし、私たちの一人びとりがいま語らずして、誰が語ってくれよう。

 語ればつたわる。もし、つたわりにくいとすれば、それは語る側にこそ、問題があるのだ。語り手が、こんにちの平和について真剣に考え、その平和を阻害していくものに対して、まなじり上げて立ちむかっていくだけの気迫を持たぬかぎり、戦争体験の伝達は30年前の過去形になってしまう。それでは、子どもたちも信用してくれまい。過去形の戦争体験は、現在と未来の平和にどこかで結びついてこそ、地下に眠る人びとの霊もよみがえるのだ。

 私はそんな心づもりで、「東京空襲を記録する会」の仕事に乗り出したのだが、この仕事に最初から手を貸していただいた橋本代志子さんをメンバーとする「江東の空襲慰霊碑をつくる会」の運動に、大きな深い関心をはらわずにはいられない。足かけ4年、せっかく江東区議会で全会一致の採択を見ながら、慰霊碑はまだ実を結ばないでいる。実に残念なことである。こんにちの時点で、魂のこもった空襲慰霊碑を作ることが、どれほど切実な意味を持つかは、この一冊の写真集が物語ってくれよう。


画像
 忘れてならぬことを、いつまでも、いつまでも、忘れずにいる日本人の一人でありたいと思う。
  
  江東の空襲慰霊碑をつくる会
1971年3月  発会
  〃       区議会に建設の請願提出
1973年5月  区議会全会一致で採択
1975年10月 建設促進の請願提出
         ↓
1982年3月  区役所前庭に建設なる

【参照】http://www.nagai-yoshi.jp/

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
ナイス ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石碑と早乙女勝元さん 満州っ子 平和をうたう/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる