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ソ満国境から 旧制中学生 必死の逃避行
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作成日時 : 2016/08/17 09:21
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「国からも、軍隊からも捨てられた」。11日、長野県飯田市で開かれた「2016ミニ戦争展『平和を考えるつどい』」で、第2次世界大戦末期に、旧ソ連と「満州」(現中国東北部)国境に送られた旧制中学の少年たちが味わった苦難、英和への思いを、倉科武夫さん(85)が証言しました。(しんぶん「赤旗」8・4付)
▼映画化された「体験談」
国からも軍からも捨てられた
ー戦争体験者が証言ー
1949年5月下旬、倉科さんたち120人に国境地帯の農場への勤労動員が命じられ、前線での生活が始まりました。ソ連軍参戦の8月9日未明、突然の爆発音に目を覚ますと、関東軍が応戦する気配もなく、守備隊の大半が既に南下していたことが分かったのは、後のことでした。
必死の逃避行が始まり、徒歩での山越え、ソ連軍の機銃掃射・・・。「山道には、女性や子ども、老人が点々と座り込んでいました。私も学用品を全部捨てました。保護を求めた警察署は、もぬけの殻で、『捨てられた』とおもいました」
逃避行の末、捕虜収容所を転々とさせられました。脱走を試みた報復の処刑寸前で一命を取りとめたことなど、、筆舌に尽くし難い体験を語りました。
戦後、教員となり、文部省(当時)の欧州派遣団長野県団に参加したときに出会った、アウシュビッツ強制収容所について学ぶドイツの高校生のことにふれた倉科さんは「ドイツは過去の”恥2を子どもたちにしっかり見つめさせる。日本も過去の行為を子どもたちに見つめさせることが大事」と語りました。
【
注
】ここで取り上げられた旧制中学は新京第一中学校のこと。当時僕も在校生。昭和20年4月に入学し、1年生だった。5月に上級の3年生が見られなくなったが特に気にもせずにいたが、このような悲劇が展開されていたことを知ったのは戦後になってのこと。昨年映画化された。
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