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<<   作成日時 : 2009/07/05 06:19   >>

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「年金者組合・江東支部」の機関紙「年金・江東」の名物ページ、「心のファイル」を本ブログにつづり続けて今回は18回となる。組合員一人ひとりの半生を点描したものだが多くの読者から好評を博している。振り返って驚くことはその大半の人があの東京大空襲の体験者・目撃者であったということだ。今回の棟田洋子さんもその一人。そして彼女は詩をよくする。(聞き手ー佐藤睦郎編集長)
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 憧れの道を一直線 それは看護師  
      棟田洋子さん
 
 年金者組合ではすっかり馴染みになった「朗読の会」のメンバー。はりのあるとても素敵な声の持ち主である。都本部の文化の集いでの発表に備え練習中の会場を訪ねた。

  船橋の空も真っ赤
 
 1935年5月14日、船橋市で生まれた。だから、東京大空襲の年には十歳になるわけで、記憶は鮮明である。その夜の東京の惨状は船橋でも恐怖をもって体験した。「フライパンやトタン屋根が飛んできたのだった」。火災で発生する強風による現象だったのだが、想像を超える強烈な印象として忘れられない。父が作った小さな防空壕の中で震えていた。

 終戦を迎えた。幸いにも家は焼かれずにすんだ。しかし、食べるものは何もなかった。いつもお腹をすかしていた。学校でのお弁当も、あけてみるとご飯が盗まれていることもあった。これが戦争だったんだと今にして思う。生きていくために何はさておき食料が必要だった。群馬県の父の里に縁故疎開をしたのはそんな事情からで、やむを得ない事であった。

  歌の好きな先生
 
 四年生で歌の好きな先生が担任になった。お世話になったのはたったの一年だったが、私にとっては大変な影響を受けた先生であった。その後の人生は、歌との二人三脚である。歌ごえ運動などは、様々なたたかいとともに私の財産といっても過言ではない。ところで、お世話になったその先生は、今でも、私たちよりも元気で歌っている。嬉しい事である。

  憧れの看護師
 
 姉は体が弱く、病院通いが多かった。父の仕事の関係で逓信病院だった。病院に行くにつれ私は看護師にひかれた。その憧れの道を一直線、逓信病院の看護師になった。

 父は、私を先生にさせたかったらしい。「教師は食いはぐれがないから」が父の口癖だった。その言葉に私は反発を感じた。職業の選択はもっと崇高なものだと・・・。革新的な組合運動を追求する棟田さんに「差別」の任用。御用組合は会社よりひどい存在であった。

  五十四歳で退職

 民営化された病院の労働条件は苛酷そのもの。病気になり退職。その後は嘱託、障害者福祉センター、訪問看護など仕事はあった。今は、のびのび作業所の救護担当として働いている。資格を持っている人はいいなあと思う。

 子どもの恩師加藤文三氏(元江東区二砂中教諭・歴史学者)と今でも学集会を定期化しているという。歌、映画、民主文学の同人誌の発行など暇はない。若さの源なのだろう・・・。

 

 

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