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zoom RSS 「雲流るる果てに」 −7−

<<   作成日時 : 2010/01/15 06:03   >>

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吹野 匡 [ふきの・ただす] 京都大学卒・鳥取県出身ー昭和20年1月6日、神風特別攻撃隊旭日隊に参加、比島方面にて戦死、26歳。(数少ない旧帝国大学出身者)
 ▼学徒出陣(昭和18年)
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    遺言状

 母上様

 私は永い間、本当に御厄介ばかりおかけして参りました。色々の不幸の上に今又母上様の面倒を見る事もなしに先立つ不孝をお許しください。

 昨秋、私が海軍航空の道を選んだ事は、確かに母上様の胸を痛めた事と思ひます。常識的に考へて、危険性の少ない道は他に幾等もありました。国への御奉公の道に於ては、それでも充分果たされたかも知れません。併し、この日本の国は、数多くの私達の盡きざる悲しみと歎きを積み重ねてこそ立派に輝かしい栄えを得て来たし、又、今後もこれあればこそ栄えて行く国なのです。私の母上はこの悲しみに立派に堪へて、日本の国を立派に栄えさせてゆく強い母の一人である事を信じたればこそ、私は何の憂ひもなしにこの光栄ある道を進み取る事が出来ました。私が、いさゝかなりとも国に報ゆる所のある益荒雄の道を進み得たのも、一に母上のお蔭であると思ひます。

 母上が、私をしてこの光栄ある海軍航空の道に於て、輝かしい死を、そして、いさゝかの御奉公を尽くさせて下さったのだと誇りをもって言ふ事が出来ます。

 美しい大空の白雲を墓標として、私は満足して、今、大君と愛する日本の山河とのために死んで行きました。


   母上様
 
 永い間御心配をおかけ致し、今日迄にして戴きました御恩を酬ゆることなく今また先立つ不孝露に申し訳ありませんが、之も大君の為、国の為の立派な御奉公なれば、喜んで御許し下さる事と思ひます。

 何等思ひ残す事なく限りなき満足の心境を以て、笑って敵艦に体当たりした私の姿を想像下さい。海軍航空隊に生活して、初めて私も悠久の大義に生きる道を悟りました。戦地に来て未だ十日ですが、私の戦友部下達の相当の数が既に戦死しました。此等の友と部下達の事を想ふと、生きて再び内地の土を踏む気持にはなれません。

 私は必ず立派に戦って、悔いなき死場所を得る積りで居ります。

 皇国三千年の歴史を考ふる時、小さな個人、或は一家の事など問題ではありません。我々若人の力で神州の栄光を護り抜いた時、皇音の広大は小さな一家の幸福をも決して見逃しにはしないと確信します。

 勿論、皇恩の余澤を期待される母上ではないと信じますが。

 つまらぬ事を書き連ねましたが、要は、私が、心から満足して立派に死んで行った事を知って、母上から喜んで戴ければよいのです。百枝(注・妹)や叔母上様方にもよろしくお伝へ下さい。

 呉々もお身体を大切に長生きされて、日本の隆々と栄ゆる御代の姿を見とどけて下さい。

 では、さやうなら。

 
 昭和19年12月31日
    
    母上様                                          

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解説〕特攻隊員の募集は、志願という形がとられていた。しかし、内実は、上官から”大義”への道を説かれ、あるいは、周りの状況に止むを得ぬものを感じて自ら名乗りでているのだった。こうしてわれに死を覚悟させ、ただひたすらに”不借身命”(ふしゃくしんみょう)だけを考えて敵地へ突入していったものが少なくなかった。

 特攻隊員の遺書。このなかには”母上様”悠久の大義””皇恩に報ゆる”などという言葉が多い。当時では常套句。国を護る。母を思う。特攻隊員たちの心には、果たして、どちらが深く沈んでいたのだろうか。

 「我が意を得たり」とばかりに吹野 匡中尉のこの遺文は靖国神社に掲示されていると聞く。

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