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zoom RSS 今日 横浜大空襲から67年

<<   作成日時 : 2012/05/29 04:49   >>

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「戦時中の警察発表で3650人が死亡し、31万人が被災したとされる横浜大空襲から、29日で67年。戦火の中を必死で逃げた悲惨な体験を、80歳を過ぎてから語り始めた女性がいる」(東京新聞・27日付神奈川版ー新開浩)

▼空襲の記憶について語る岩井節子さん
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     悲惨な体験「今語らねば」
 
 横浜市保ケ谷区の主婦岩井節子さん(82)。一昨年に病気を患ったのを機に「体験者はみな老いていく。今のうちに語り継がねば」と決意した。

 岩井さんが大勢の人の前で空襲体験を初めて語ったのは、昨年12月25日。同区内の近所の住民ら約30人が開いたクリスマスパーティーで、約20分間語り続けた。
 きっかけは一昨年夏の入院だった。体調を崩し、原因不明の吐血を経験。「生き残った者が、戦争を語り継ぐ責任」を強く感じた。
 空襲当時、岩井さんは15歳。当日は女子挺身(ていしん)隊の一員として、同市西区戸部地区の工場で働いていた。

 空襲が始まったのは、午前9時45分ごろ、戸部署の裏の川で爆発音がした。しばらくして「消火」という声がしたので防空壕(ごう)の外へ出ると、米空母の艦載機が機銃掃射を始めた。「銃弾がトタン屋根に当たり、フライパンで豆をいるような、バラバラバラという音がした。操縦士の顔が見えるほどの低空飛行だった」
 

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 火の手に巻き込まれないように風上へ逃げると、川を渡る尾張屋橋は、逃げる人たちでごった返していた。
 「橋につながれた馬が、火を見て暴れ馬になっていた。橋の向こうも火の海。破裂した水道管の水を防火用のバケツでかぶり、炎に包まれる民家をくぐり抜けた。直後にその家は焼け落ちた」火が届かない場所まで逃げたときは、すでに夕暮れ。焼け跡に残ったのは、トタン板と焼死体だけだった。避難所の戸部小学校の前では、遺体を焼く炎が一晩中燃え続けた。それが67年前の戸部地区の光景だった。

 29日を前に、岩井さんは思いを新たにする。
 「昨年3月11日の東日本大震災も忘れられないが、横浜大空襲も悲惨なつらい経験だった。二度と戦争が起きないように、祈りを込めて語り継ぎたい」


昨日(28日)の東京新聞
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