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zoom RSS 特攻 若者を死なせてはいけない

<<   作成日時 : 2012/10/25 07:03   >>

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昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊の第一陣といわれている関行雄大尉率いる「敷島隊」がフイリピンのレイテ湾に突っ込んだ日だ。あれから68年、いまでは「知る人ぞ知る」と言ってよく、ほとんど歴史の彼方に消え去ろうとしている出来事になっている。若くして逝った隊員の遺族としてはやりきれない思いでいっぱいだ。

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 このブログではこれまで「神風特攻」というテーマで136ページにわたって書き込んできた。今回は少し角度を変えて、「外道の統率」といわれた「特攻作戦」採用の裏話を紹介しよう。以下は「できればやりたくな」といいながら踏み切った大西滝治郎海軍中将(特攻の創始者といわれた)と淑恵夫人との会話の一部である。

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    若者を死なせてはいけない
 
 大西(滝治郎中将)が一航艦司令長官として赴任の直前、私と雑談をしていたとき、話の途中で大西は、突然「いついかなる場合でも、前途有為な若者たちを死なせてはいけない」と言うのです。私もその時まだ若かったものですから、それを聞いてちょっとおかしいと思いましてね。だって現実に、お国では若い人たちをどんどん前線におくり出しているわけでございましょう。そのことを大西に申しましたら、私の顔をキッと見据えましたね、それっきり黙りこんでしまったんです。私としては、その頃にどうもいたたまれない想いでした。
 こんな大西が、幸か不幸か海軍で「神風特別攻撃隊の生みの親」と申されるようになろうとは、ただただ時代の勢いのままならさを感ぜずにはいられません。あの時の大西の言葉と、終戦直後に自決して果てた大西の内面とは、何か見えない一本の強い糸で結ばれているような気がします。 (大西中将未亡人、淑恵さんの談話。毎日新聞社刊『[一億人の昭和史』から)


追記】現地指揮官として特攻作戦を採用するかどうか迷いに迷ったようだが、所詮は現場の一指揮官、背後には軍令部があり、天皇の顔色をうかがう(天皇を利用して)無能な強制には従わずを得なかったのだろう。自責の念から敗戦の翌日、8月16日、切腹して果てたという(亨年54歳)。一方陸軍の富永恭次中将は、当時「最後の一機になっても俺が行くから・・・」と若者たちに訓示しながら戦後は報復を恐れて逃げ回っていたという。

リンク】「神風特攻」
 http://38300902.at.webry.info/theme/4d2c6dd9be.html

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