
私は、男も女もが、性の問題を十分に、徹底的に、誠実に、そして健全に考えるようになることを望むものである。・・・・・・何も書いてない頁のように純白な処女などというものは、愚劣な作りごとにすぎない。若い女や若い男は、性的な感情や思想の混沌たる塊。しかも悩みの塊であって、これが解決されるのは時間の経過にまつほかはない。性的な問題について、長年の間は誠実に考え、長年のあいだその解決を求めて、辛苦して行動した後に、われわれははじめて、真実の純潔と満足に到達するのである。(『チャタレー夫人の恋人』序文)
「本日をもって本校を閉校とする」と校長が宣言した。時は1945年8月10日。満州(現・中国東北部)・新京第一中学校の講堂でのこと。一年生だった。「ウーン、ウーン」と空襲警報が鳴っているさなかである。ソ連参戦で市内は大混乱。百キロ南の生家・公主嶺に向かう列車に友人と飛び乗った。続々と南下する無蓋貨車は関東軍とその家族でいっぱい。完全武装の兵隊が退却しているのだ。
当時、満鉄・新京駅の助役をしていた長兄(一男)から後で聞いた話だが、関東軍の命令で「軍関係者を最優先させて転進させろ。ほかはどうでもいい」ということだった。その結果、残された一般民間人が惨たんたる状態になったことは周知の事実だ。五兄(利則)は神風特攻でフィリピンで戦死。学徒出陣、海軍中尉、20歳だった。彼が部下に託した遺書にはこうあった。「だれのためでもない。俺は行く、行くしかないんだ。お前は男だからおふくろを頼む。後をついでくれ」と。子どもから大人になって、「戦争はさせない」の思いいっぱいだ。だから戦争体験を、次の世代に語り,つづり、歌で伝えたい。
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