満州っ子 平和をうたう

アクセスカウンタ

zoom RSS 八月に戦死 海軍学徒飛行兵

<<   作成日時 : 2014/08/13 06:34   >>

ナイス ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

これは69年前、軍国少年だった「満洲っ子」の忘れられないメモリーの一つである。1944(昭和19)年の12月にフイリピンでゼロ戦に搭乗、特攻死した兄(神島利則=かみしまとしのり)の戦友たちが、遠く大陸・満洲に飛来。その数日のあいだに起きた悲しくも辛い話だ。内山光雄海軍中尉(石川県出身=駒沢大出)ほか5人の若者の顔が、8月になると、今でもよみがえる。

▼一式陸上攻撃機
画像
 1945(昭和20)年8月11日、前々日のソ連参戦で満洲も危険地帯になったとして、私の住んでいたあの大陸では有数の陸軍・公主嶺飛行場から海軍の一式陸上攻撃機(7人乗り)が3機飛び立った。
 内山光雄中尉以下6人の第13期海軍飛行専修予備学生(兄も土浦航空隊で同期生)が率いる21名。南満洲・公主嶺市の我が家の上空を、顔が見えるほどの超低空で、轟音を響かせながら3度旋回(通常は絶対に許されない飛行)、機上では挙手の礼、地上ではおふくろをはじめ在住の家族、多くの日本人は手を振り、死地に旅立つ彼らに「さようなら」を絶叫、期せずして空陸あげての「惜別の会」になっていた。


画像
 それより先、沖縄が陥落。ひしひしと米軍が本土に迫ってくる7月の末、本土決戦に備え、温存されていた海軍機は、より安全と思われている満洲に退避していた。
 明日をも知れない学徒兵たち。彼らの日常活動は尋常でなかった。酒が唯一つのよりどころ。外出命令などはものかは。この街に着くやいなや繰り出したのは、日本人街にある「カフエー」だった。
 狭い街、公主嶺。それも当地生まれの顔見知り、しかも特攻で戦死したということは街中に知れ渡っていた。女給の一人が「この街にも『軍神』がいるのよ、あなたたちも海軍さんね!」と聞かれた内山中尉。「名前は?」、「神島のトンちゃん(彼の愛称)よ」。後で聞いた話だが、ベロベロに酔ったかれらは、「きっとアイツだ、行こう」と立ち上がったという。

 玄関に立った若者とおふくろの間に繰り広げられた光景は想像に難くない。感極まって、6人一人ひとりと抱き合って、オイオイと涙、涙だったという。それからの一週間、彼らは毎晩のように短剣と短靴の軍装でさっそうと、酒と肴を携え来宅。遺影を前にして、飲めや、歌えの宴会の連続だった。そして酔うほどに歌うのは「沖の鴎と飛行機乗りは・・・」だった。

画像
 しかし、8月15日の夜、宝塚の海軍飛行場に着陸前、目の前に見えたのは、六甲山の向こうにきらめく明かり、ドギモを抜かれていた。終戦を知らなかった。着陸したのは1機だけ。あの日、公主嶺飛行場を飛び立った3機のうち2機は、北朝鮮で米軍戦闘機P51と遭遇、撃墜されていた。
 後で内山氏曰く、「彼たち14人は、あの神戸の平和の灯をたったの3日の違いで、見ることが出来なったんですよ」。
 くしくも、内山光雄中尉の出身地は石川県金沢市のお寺さんの長男。おふくろの郷里も金沢市。再会を果たした二人。手を取り合って無事を確かめ、滂沱の涙を流した。


画像
【注】
@13期海軍飛行専修予備学生=昭和18年8月に志願して土浦、三重の航空隊に入隊(5112人)した学徒出身者。戦没者は1616人だった。特攻では海軍の将校の8割を占める。なお、終戦の月、8月の戦死者は44人を数える。年齢は20〜26歳がほとんど。前途ある若者たちだった。
A内山光雄=昭和20年復員後、その年の暮れ、痛恨の思いを抱いて、石川県西部の白山(はくさん)にこもった。翌年下山、北陸鉄道(本社・金沢市)の労組委員長に。あの米軍の射爆場反対内灘闘争の先頭に立つ。後年、私鉄総連の副委員長として後進の指導にあたった。故人。生前の口癖は「俺の人生は釣銭の人生だよ・・・」。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
八月に戦死 海軍学徒飛行兵 満州っ子 平和をうたう/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる