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zoom RSS 「あのころ」 伊藤 聖さん 語る 満洲・公主嶺@

<<   作成日時 : 2016/07/18 06:02   >>

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旧満州公主嶺小学校同窓会の会報集が手元にある。第1号(1970年)から53号(2008年)までの会報を合本・縮刷したものである。その中から主筆だった伊藤聖さんが、折にふれて綴った公主嶺に関する随想や解説をテーマ別にシリーズで転載することにした。いずれも関係者にとっては珠玉のメモリーだ.。

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    【あのころ】  「あじあ」  伊藤 聖 

 私たちが習った「小学国語読本」に、満洲の広野を走っていた特急「あじあ」で、大連からハルビンまで旅行をする小学生の文章があった。先日ふとそれを思い出して、教育研究所にいる友人に頼み、全文をコピーしてもらった。読みかえしてみると、なかなか手ぎわよく南満の風景が紹介されている。そのなかで公主嶺のところはこうなっている。

              *   *

 やがて一人の兵隊さんが僕に、「あそこの岡を知っているかね。あれは公主嶺で昔、ロシアのコサック兵は、あそこで教練したのだが、今は農事試験場の羊や牛が、かけっこをしている」と元気よく話しながら、日にやけた顔で笑った。向かふの農家に、満洲国旗がひらめいてゐる。そばで満人たちが耕作の手を休めて、こちらを眺めてゐる。
 「汽車の影が長くなった」とマルタが言う。汽車の影も、ずっとのびた。「あじあ」は、一気に国都新京に迫りつつある。(「あじあ」に乗りてーー「小額国語読本」巻11)

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 この文章にもあるように、朝9時に大連を出た「あじあ」が、公主嶺付近を通過するのは、いつも夕方だった。列車運行表を引いてみると、16時40分ごろになる。
 「あじあ」が通るときには、引込線のそばにある信号機の腕木が、2本とも斜め下におりた。(駅構内の一部には点灯式信号機もあったようだが、満洲では大部分が腕木式信号機だった)。「あじあ」が来るぞーーコーセン山で遊んでいても、目ざとくそれをみつけた子どもたちは、一気に線路ぎわまで走った。
 大平原の王者のように、地を圧し、風を巻いて、突進してくるパシナ型機関車。その一瞬、直径2mもある大きな3対の動輪が、重い轟きを残して目の前を通り過ぎる。6両編成の最後尾、展望車の側面に「あじあ」の文字が読め、それが赤い尾灯マークとともに遠ざかっていった。あたりが急に静かになる。「あじあ」が通ってしまうと、もう何もすることがないようだった。その美しい展望車に、子どもたちの心が乗って行ってしまったかのように・・・・・・。

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 「あじあ」が生まれたのは1934(昭和9)年11月1日だった。独立歩兵第一連隊が遼陽から公主嶺に移駐、私たちが渡満したのもそのころである。当時の朝日新聞によると(新京特派員1日発)満鉄全線のダイヤ改正は1日から実施された。新京発の「アジア」は満員の乗客をのせて午前10時半世界第三の快速車として華々しいスタートを切った。
 「あじあ」は大連ー新京間701kmを、最高130km、平均83kmの時速で走っていた。文字通りアジア最高速列車であったわけである。
 翌1935年には、ロシアから北満鉄道の譲渡をうけ、9月1日に「あじあ」の運転は新京からハルビンまでのばされた。「時間表通り21時30分にハルビン駅にぴたりと停車した」と「小学国語読本」に書いてあるのは、そのためである。
 この「あじあ」も戦局の悪化にともなって、1944(昭和19)年には大陸から姿を消し、再びその雄姿をみせることはなかった。

】上写真 満鉄公主嶺駅を通過する超特急「あじあ号」撮影は昭和10年6月ごろか。なお、「あじあ」は戦局の激化にともない昭和18年2月末をもって運転中止となった。戦後は、12両の「あじあ」は1両を残してソ連に持ち去られた。中国に残された1両は現在、瀋陽に近い蘇家屯機関庫で見ることができる。下 伊藤 聖さん(1928〜2015)。

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