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zoom RSS 「あのころ」 伊藤 聖さん 語る 満州・公主嶺C

<<   作成日時 : 2016/08/22 06:02   >>

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小山司六先生(1909〜1945)は昭和4年4月から13年3月まで公主嶺小学校に在職され、24,32,35回生を担任された。私は直接には教わらなかったが、関係者の名簿を作成しているうちに、終戦の前日に亡くなられていることが気になっていた。(公主嶺会会報 第18号)

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   【あのころ】  小山司六先生    伊藤 聖
 
 その疑問をといてくれたのは小山先生の母校、満州教育専門学校陵南会が編集した「満州忘じがたし」(昭和47年12月発行)だった。そこには先生の壮烈な最期が書かれていた。
 小山先生は公主嶺小学校のあと、大興安嶺のふもと興安(王爺廟)の小学校長として赴任された。そして昭和20年8月9日ソ連参戦、11日夜には避難命令が出され、1200人の日本人は東方6kmのウランホトへと向かった。成人全員には手榴弾2個が手渡された。


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さらに12,13日と一日中歩き通し、35km離れた葛根廟(かっこんびょう)へ向かって南下した。14日の夜明け、伝令がとぶ。「ソ連軍が進撃してくる模様。全員直ちに葛根廟駅を目標に出発せよ」
 一番遠い部落のはずれに野宿した小山校長(写真)のひきいる中隊に命令がとどいたのは、ずいぶん遅かった。前日の朝食をとっただけの婦人、子どもたちは全員疲れきっていた。葛根廟駅西北約2kmの地点までたどりついたのが午前11時40分ごろだった。突然、後方の山上から10数台のソ連戦車が襲いかかった。

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 「戦車だっ。戦車だっ」と隊列をくずして逃げまわる婦女子たち。それを狙いうって火をふく機銃。みるみる阿鼻叫喚の巷となった。小山は戦車に手榴弾をなげつけた。不発だった。残りの一個を投げようとしたとき、機銃は小山のからだを貫いた。小山は自爆した。長男と次男を死の道づれにした。
 小山夫人は、長女容子(ようこ)と末子喬(たかし)をつれてはるか後方にいた。夫の最期を知った夫人は、二人の子供をしっかり抱きしめて手榴弾の紐をひいた。雨にぬれたためか、夫人の手榴弾は不発だった。そのとき敵の機銃は夫人の頭部を貫いた。夫人はその場で夫のあとを追った。(「満洲忘じがたじ」P332頁)


          ◇          ◇

 昭和50年8月10火の朝日新聞に、この「葛根廟事件」の生き残りの遺児の身元が、30年ぶりにわかったという記事がのった。
 陳承忺と名乗る女性が日本の肉親を捜している。34歳でウランホトから避難して、葛根廟近くまで来たところで母が死んだらしい。首に刀傷がある。

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 東京都に住む』山田美代子さんは、幼いころの陳さんの写真から「私と同じ名前の安田美代子さんじゃない?」と母の谷本さんにいった。谷本さんは思い出した。
 あの日、谷本さんたちも手榴弾の上にみんなで身を伏せたが不発。それではと、持っていたカミソリで安田さん一家と自分の娘、自分の首を切って倒れた。その日の夕方、谷本さんは娘の声で意識を取り戻した。一昼夜、近くの草原にかくれ、惨劇の跡へ引き返した。死んだ親のかたわらで泣き叫ぶ子どもを何十人となく見たという。 


 「同窓小山司六君一家は葛根廟事件で2000人の婦女子と共に全滅したはずだが、現在チチハルの近くに小山君ソックリの37,8歳の日本人の男が居り、小山校長を知る人には子息に間違いないと言うが、全然確認の手がかりがない。(「陵南だより」NO.43号、昭和55年9月)
 健在ならば、姉の容子は47歳、弟の喬は41歳になる。

】2014年7月19日付東京新聞は、葛根廟事件について以下のような特集記事を載せている。
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