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zoom RSS 公主嶺小同窓会誌 第2章 エピソード −7−

<<   作成日時 : 2016/10/03 06:26   >>

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 父小松光治が書き残した手記から。「当時公主嶺には大機関庫の外、鉄道工場もあり、軍部としては東西大営に一個旅団が駐屯し居り(児玉少将)、付属地の広さは鉄道沿線中最大、確か300万坪(周囲約四邦里)を有し、私の行った時はまだロシアの教会堂(のち小学校となる)、民間小雑貨店1軒残って居た。(記念誌66頁)
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   小松光治の手記から
         小松三郎(27回生)


 市街として百戸位の支那部落は駅の南方にあり、ロシア管公衛建築瓦建瓦葺□□(二字)不明鉄板葺数百個あり、中に数棟の二階建ての外は平屋建てあり。夫より1キロ程離れて民団(主として支那人)市街建設の計画らしく、数戸の大家屋が建てられて居た。
 其反面、駅の南方には大型のパン焼小屋の焼け跡(失火?)に続き、下士集会所(後の公会堂)、トルコ風呂(石造)あり、其隣りに建坪高層平屋建600坪の大劇場(後の共楽座更に浅野醸造場となる)、之に続いて兵士倶楽部(後の病院更に公会堂となる)、夫より1キロほど隔て小河を境に前記支那部落がありたるも、ロシアは全然旧部落を無視して、頻(すこぶる)大規模の建設計画を樹て居たるが如し。

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】小松光治
 明治38年7月、東京外国語学校清国語科(2回生)を終了後、陸軍通訳として渡満、戦後(日露戦争)いったん帰国の後、再び一介の御用商人として大連に上陸し、鉄嶺、公主嶺と北上して、明治39年12月末、公主嶺に居を定め、翌40年5月25日に合利洋行の商標を掲げた。小松の堪能な中国語は敗戦時に幾多同胞の危機を救うこととなるが、それは40年後(太平洋戦争)のことである。

 右写真は「合利洋行」前での小松一家。右端が小松光治氏、中央の小児は小松甲子郎君、僕とは小学校の同級生。当時、広い屋敷をしばしば訪ね遊びほうけたことが思いだされる。お姉さんがピアノで弾く「ショパン」に聞きほれていたこともあった。戦後、甲子郎君は演劇の道に進み「関西芸術座」の演出を担当していたが、残念ながら、もう故人。

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