▼夏の雲 長野・蓼科

戦争体験 食料不足・話せない思い
戦後72年。戦争体験をしている方は高齢になっています。若い人たちの中から戦争が遠のく今、伝えていくことが大切です。会員二人に手記と戦争への思いを語っていただきました。
戦争と食料
「戦争」と聞くと、一番に頭に浮かぶのは食料のことです。私は小学4年の9歳。父がいない中、母と6人のこどもで三重の伊勢に住んでいました。空襲警報のサイレンと共に「早く避難して!」とマイクの声。あっちこっちで爆弾が落ちて・・・火の海。我が家には50人ぐらいは入れる大きな防空壕があり、近所の人も大勢いました。母が「早く、早く」と必死に声を掛けるのです。
食べ盛りの私らは、お腹がグーグー鳴りだす。「さぁーお餅をついてお腹いっぱい食べましょう」と、母が防空壕の中に餅つきの用意をしていたのです。鳥取県一番の農家に生まれた母は、いつの間にかお米や臼、水を防空壕に用意していたのでした。薄暗い中で、ペッタンペッタンと。一瞬のことでしたが、そんなときはみんな笑顔でした。
母は父の不在中、実家からコメを送ってもらい、近所で和洋裁、お茶とお花を教えて月謝の代わりに野菜を貰っていました。そんなたくましい母のもとで育ちました。
戦争の事は話したくない
現在89歳のMさんは砂町育ち。死ぬほどのことがいろいろあったから、戦争の事は話したくない。食うや食わずの生活だったと言います。お父さんの「どうせアメリカには勝ちっこないんだから」という言葉で、勉強したかったけれども八人兄弟でもあり、14歳から働き始めました。今、難病を患っているがヘルパーさんに来てもらったり、ディサービスの通いどうにか自立していると語ってくれました。
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